P.S. Honestly, I needed you.

 新雪で作られた上等のじゅうたんに似た、染みひとつないシーツに転がされると、その純白が一瞬で深紅に染め上げられてしまう錯覚にとらわれるのだ。
 そんな薄暗い絶望の瞬間、はいつも涙を流す一歩手前にまで追い込まれている。脳裏を過ぎる不穏当な気配。けれどもちろん一時的な幻覚に過ぎず、次の瞬間からは圧しかかってくる男の肌にすっかり夢中になってしまうから、彼女が赤い残像に頭を痛める時間はとても短い。でも、すべらかなシーツに触れるたび、想像せずにはいられない。赤い、どろっとした液体のイメージを。
、ペリエ飲む?」
「うん」
「はい」
 女が何も言い加えずとも、イルミはちゃんとライム味を選んだ。まっすぐに冷え切った液体が重鎮された瓶の口は、彼の指先によって既にちゃんと開けられている。はそれをすぐさま熱い喉に流し込む。あれほど待ち望んでいた潤いが、火照りに喘いでいた彼女の内臓を徐々に落ち着かせていく。
 飽きもせず、いったいどれほどの熱を溜めこんでいたのだろう。とイルミの接触は二週間とあいだを置かずに設けられているうえ、愛撫や行為だって同じような類のものを繰り返しているというのに、未だにの脳髄は彼に触れられることを『至福』だと認識している。
 度を上げ続ける熱で焦がれること自体を、悪いとは思わない。ただ、の内側には、拭えない虚しさがあった。
 冷たさも熱さも、おおよそ温度という代物自体をいっさい感じさせない男に、いくら感情を注ぎ込んだとて、整ったかたちで報われることなど到底望めないのは分かり切っていた。けれど、彼は彼なりに自分を『取り扱って』くれているのだと――愛しはせずとも、求めてはいるのだと――彼女は自身に言い聞かせて、今にも暴れ始めてしまいそうなこころを何とか押し留めているのだった。
「……あぁ、おいしい」
 とろりと溶ける余韻に染まったまま、は深い息を吐く。彼女のそばには、狭いバスルームから出てきたばかりのイルミが腰を下ろしている。日常の諸々で疲弊した身体をじっくり預けるのにも、朝日が昇るまでとことん睦み合うのにも、両方に適した柔らかさのベッド。上品と下品の中間といった風情の室内装飾。ふたりはそのすべてを気に入り、逢瀬にはいつもこのホテルを選んでいた。
 生乾きの髪から引っ切りなしに垂れる水滴が、イルミの背中に軌跡を走らせている。気にも留めず、イルミは炭酸抜きのミネラルウォーターを喉に流し込んだ。濡れて、てらてらとつやめく薄いくちびる。首元にはタオルをかけて、彼は口を真一文字に噤んでいた。薄っすらと広がる沈黙は、重く項垂れることなく、やたらとあっさりしていて、特に居心地悪いものでもなかった。
 は、イルミのようすを横目でぼんやりと見ていた。整った肩甲骨がほど近くにあるものだから、特に理由がなくとも触れたくなるもので、そっと手を伸ばす。適度に付いた肉が滑らかで、雪の色をした肌は、驚くほど彼女に馴染んだ。しっとりと。接触点など溶けてなくなりそうなほど、違和感なく。
「ねえ、髪、乾かさないと」
「別にいいよそんなの」
「良くない、イルミの髪は長いからすぐ乾かないでしょ、布団まで濡れちゃうし……ほら、タオル貸して」
「はいはい」
 は気だるい身体を起こし、水分を十分に含んだままの髪にタオルを当てた。厚手のそれが、挟んだ髪を軽く叩いていくたびに、じんわりと滲んで重くなっていく。何度も繰り返していくと、黒曜石色の髪はだんだんと乾き始める。
 途中、されるがままになっていたイルミの顔を覗き込んだ。大きな、底を感じさせない目と視線が合うと、は思わず目を逸らしてしまう。何を考えているのか、一切を悟らせない眼光。いたく苦手なのに、いみじく求めてしまう。いつ見ても、その黒に映し出されているのは、不安げに眉根を寄せるのすがただけであるのに。
「眠いの?」
「オレ? ぜんぜん。何で?」
「何となくだよ。眠そうに見えた」
「ふうん。ねえ、もういい?」
 髪はもうほとんど乾いている。渋々頷いたに、無表情を崩さぬままのイルミがそっと腕を伸ばした。
「こっち来て」
 すぐに流れ去ってしまうような、優しさのない響きであるのに、はそれをとても心地良く感じた。求められることは、いつだってこんなにも甘い。
 乗り上げたベッドで胡坐をかいていたイルミの、開かれた腕のなかに自身を滑り込ませる。広く掴みどころのない背中に、幼い動きで腕を回すと、筋が細く浮き上がる指がの髪を梳いた。眠気を上手に誘導するような動きを受け、うつらうつらとし始める。柔らかくて心地いい泥に包み込まれ、覚醒していたはずの意識が徐々にまどろんでゆく。
「眠いなら寝たら」
「……や、眠りたくないの」
「何それ、誘ってるの?」
「…………そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし」
「面倒だなあ」
 言うが早いか、眠たげに瞳を伏せていた女の両脇に手が差し込まれる。上等なベッドが一度だけ、キシリと鳴いた。男が女を軽々と抱き上げ、つい先ほどもそうであったように、シーツの上に転がす。うっすらと濡れている大きな瞳がまっすぐに男を見上げる。覆い被さったイルミの長い髪が重力に従って垂れ、さらさらと透けるカーテンを作った。の視界は黒い檻に囲われて、たったひとりの男だけを捉える。
 キス、しよう。
 何ひとつ化粧が施されていないのに潤った、女のくちびるが、五回だけ動いた。
 イルミはただ、頷いた。



 耳を澄まさなければ聞き取れないくらいの音量に絞られた、寝息がひとつ。物音を立てることを恐れ、じっくり時間をかけて、はベッドから抜け出した。もうすぐ朝を迎える空気が冷たく肌を刺す。本音を言えば、まだ眠い。そして、どっぷりと隣にいたかった。与えられない永遠の代わりに、低温の肌を食べていたかった。欲求はいつも素直だった。
 細足でしっかりと立ち、床に散乱する服をがさっさと身に付けていると、レトロテーブルに置いたままになっていた、イルミからのプレゼントが目に入った。ゆうべ出会いがしらに渡された、手のひらにぴったり納まるぐらいの小箱。その四辺を包むように巻かれたリボンを解くと、中からはピアスが現れた。
「……私、ピアスホールないのに」
 は、困惑と失笑を半分づつ含んだ笑みを浮かべる。手のなかで、細やかなブリリアントカットが施された上等の宝石がひとつだけ君臨する、この上なくシンプルなピアスが輝いた。綺麗だった。二の句も生まれないほどに。決して、耳に飾ることはできないけれど。
 ふと、は、小箱に巻かれていたリボンに指を伸ばす。
 テーブルに備え付けられていた万年筆で、つやつやと波打つリボンの端に、一言だけ添える。イルミに宛てた言葉だったが、どうしたって何も言えない、何も強請れない、最低の自分を憐れむための、せめてもの一言にも思えた。滑らかな素材のリボンだったので、の指は流麗な筆記体を難なく描いてみせた。
 きっと初めから、イルミは起きている。けれどこうして、知らない振りを貫いてくれる。
薄明かりのなかで一生懸命に探り出した、細いのにやたら大きい左手。左から二番目の指。は諦めたような心地で、骨ばったそれに深紅を巻き付け、蝶を作った。

 あと数分もすればイルミの目に入るであろう、短い一言に、ありったけの願いを込めながら。
 彼女はきょうも、後ろ手にドアを閉じる。

(12/04/13)