useless

 身を横たえたシーツはまるで皮膚のように心地が良かった。
 それも、自分にとびきり無関心である誰かの皮膚のように。
 気怠さに投げ出した腕でやわらかい枕を引き寄せる。真白いピローケースに包まれたそれからは、さっきまで自分と交わっていた男のにおいがした。ので、突き放した。
 私の口唇から漏れる呼吸はすっかりなだらかになり、後にはただ凪いだ海のような眠気だけが残っていた。目蓋を閉じれば最後、数分もかからず意識を失うのは明らかだった。ゆっくりと背伸びをした。サイド・テーブルの間接照明に明かりを灯す。橙に緩和されたひかりが室内を柔らかく照らし上げた。モノクロームを基調にした家具はどれもひとつ残らず冷徹な夜の空気を纏っており、あの男の寝室をかたちづくるには最適だと思う。上質なる無関心と無機質。なんて居心地が良いのだろう。私はしばらく人造皮膚に似たシーツの隙間に転がって、きょう一日の総括に勤しんだ。毎日がインデペンデンス・デイの連続のようなこの街にもだいぶ慣れた。慣れてしまった。習慣化とはげに恐ろしいもので、角を曲がった先に触手を生やした異形のひとが居ても、悲鳴を上げるどころか表情ひとつ歪めずに済んでいる。恒常的な異常はむしろ正常になってしまうのだった。この街に来てからと言うもの、常識はすべてひっくり返ってしまった。
 一日の振り返りを終え、熱の籠もったシーツを蹴飛ばす。ベッドから抜け出て、足許に墜落していたキャミソールとショーツを引っ掴む。よたよたとした足取りで窓際に向かう。
 採光面積の大きい窓の向こう、ミルクのような霧に透けて街のネオンが輝いている。硝子に映り込んだ人間は非常に情けない表情をしていた。浮き上がった鎖骨のくぼみで、私が私に買い与えたエメラルド・ネックレスがかがやいている。主役である緑の宝石は小ぶりだがだいぶ値は張った。入浴時以外、片時も離さず身に付けている唯一の代物。まあるい輪郭のエメラルドは人間の瞳を彷彿とさせた。金の砂のように繊細なチェーンに触れ、確かめてみる。落ちる吐息。遠くで車のブレーキ音。対面の高層ビルにはモザイク細工染みた明かり。何もかもを有耶無耶にできるのが「ヘルサレムズ・ロット」の最たる長所だった。
 真夜中を過ぎても眠ることを知らないこの街の隅、何度目か知れない、愚にもつかない、くだらない数時間のさなか。他にすることなど何も思いつかず、ただ、煉瓦の歩道を往く住人たちのつむじを眺めた。無為な数分が経過したころ、視界の隅で一台のタクシーが路肩に停車した。がばりと開いたドアからは今にもセックスに雪崩れこみそうなカップルが飛び出してくる。白シャツが映える黒人男と、泥酔したと思しきブロンド女性。ふたつのシルエットはほとんどひとつの物体に融合しているではないか。口唇はくっ付いたり離れたりを繰り返す器官になっている。
「うわ、すごい」
 知らず知らずのうちに素直な感想が漏れた。今すぐにでも単一の個体になりたくて急いている彼等は、危うい千鳥足で何処かへとしけこんでいく。絡ませた腕は蔦のように機能していた。コントラストの強い後ろ姿がちいさくなるまで見送ってから、私は踵を返した。
「……眠くなってきたな、」
 力なくベッドに転がる。丸まって胎児のような体勢に移行しても、無駄に面積のあるベッドは狭まりもしない。隅っこで丸まっていたブランケットを引き上げて、包まった。ふたつ並んだ枕は遠ざける。身を捩ると、不意に肩口へ鈍い痛みが走った。右手で触れて確かめてみれば、そこにはちいさな直線状の凹みが幾つも並び、ゆるやかなカーヴを描いている。思わず舌打ちをするところだった。放射状に散らばった髪の毛から私自身のにおいがしたので、苛々はすぐに納まった。泣きたくて仕様がない。
 閉じた目蓋の向こう側の世界で、ドアが開くような音がした。



 そのドアは半分だけ閉じていた。俺は欠伸を噛み殺しながらその先に進む。冷蔵庫から取り出したばかりのミネラル・ウォーターのボトルがさっそく結露しはじめており、シャワーを浴びたばかりの手のひらにはいささか不親切だった。
 寝室の光源はベッド脇の間接照明のみで、あたたかみのある橙が、眠りにつくひとりの人間の輪郭を浮かび上がらせている。彼女に背を向けるかたちでベッドの隅に腰を下ろし、足を組んだ。良く冷えた水を臓腑に流し込み、一息吐く。何処か遠くで車のクラクション。見慣れた窓の向こう側では眠らない街の営みが相も変わらず繰り広げられているようだ。
 吸い寄せられた訳でもないが、知らず知らずのうちに窓際に歩み寄る。霧にすべての輪郭を覆い隠されし街が視界いっぱいに広がった。この街では星のまたたきも確認できない。いつだって似通った真夜中が反復されていた。そして自分自身、きょうもまた、変わり映えのない過ちに身を浸したばかりだった。
 静寂の中に混じる穏やかな寝息がミステイクの正体である。
 不意にその表情が気になり、俺は元来た道を引き返し、ベッドへ乗り上げた。背中を丸め、おさなごのように眠りにつく女は、まるでまだ何も知らない人間のような顔をしていた。余分な化粧の落とされた、その、あどけなさが混じる横顔を実に数十秒眺める。何の目的もない視線は彼女の寝息を乱さない。ライブラのメンバー内ではまあまあ珍しい、黒一色の癖のない髪が、ぬくもったシーツの上でいくつかの支流を作っていた。触れるには気が引ける。……妙な話だ。犯し、犯され合った後に、そんな遠慮を覚えるなど。
 ずり落ちていたブランケットを肩まで上げ直してやる。ちいさい身じろぎが返ってきた。その拍子に、女の首許を彩っていたエメラルドのネックレスが揺れ動いた。シンプルなアクセサリーは、シンプルな女によく似合っていた。星屑めいた金色のチェーンがただでさえ薄い肩口を更に華奢に見せている。ぽろりとシーツに転がったペンダント・トップ。そこには高価な緑が繊細にかがやいている。まるで何処かの、頑固で真面目で屈強なあの男の、眼窩に嵌め込まれた双眸のようなきらめき。
「……まったく、よくもまあそんな意地らしいものを」
 まるで初恋に傾倒する少女のお約束ではないか。
 ひとり言で場を濁す。どうせそのアクセサリーは衣服の下に隠されてしまい、誰の目にも触れないまま、日々ひめやかな想いばかりを募らせていくだけだというのに。凛々しくも艶やかな翠がほんとうの意味で彼女を彩るのは、こうして肌をあらわにさせた空間だけだというのに。
 まったく彼女といったらすごい。エレメンタリー・スクールに通う女児でさえ、そこまでいじましき恋は出来まい。叶わない恋をあたためる。されど無精卵に孵化は訪れない。黄色い色をした実はいずれ腐敗し、殻と共に腐り落ちていくだけだ。
 たくましく生きる彼女でも、しかし恋の死ばかりは恐ろしいようで、ときどきこうして、有り余った熱と性欲を擦り合わせた代物の昇華を求めて、同僚の俺を利用する。お手頃な逃避手段は彼女の救済に一役買っているようだ。だって、こんなにも穏やかに眠りについているのだから。
 もう一度、女の肩口に視線を落とすと、そこにはネックレスよりも酷いものが確認できた。これには俺もさすがに参って、頭を抱えた。血液こそ滲んではいないものの、鬱血状態を引き起こしている痕は充分に痛そうだ。目が覚めた彼女のお小言を十五分は覚悟しなくてはならないだろう。
「……歯型とはまた。子どもなのは俺の方かな」
 ひとりごちて、既にぬくもりを孕んだシーツに転がった。滑らかな絹製のそれは、まるで動物の皮膚のような感触だった。



「昔の男の夢でも見ていたのかい?」
 寝起き一番にそんな台詞など聞きたくなかった。私は寝癖のついた頭を撫でながら、勝手知ったるダイニング・キッチンにつく。皺のないスーツを着込んだ男がコーヒーマグ片手にくつくつと笑っていた。
「そんな夢は見てない」
「じゃあ今の男の夢かな」
「違うってば……あ、それ、美味しそう」
「ああ、これ?」
 男が指差す皿の上に、作り立てと思しきフレンチ・トーストが乗っていた。私が勢い良く頷くと、同僚は微かに笑んで、皿をこちらの方へと押しやった。甘い香りが鼻腔に届く。途端、空っぽの胃が騒ぎ出した。
「どうぞ。君用だ」
 彼は、彼がよくそうするように、完璧な微笑みをつくった。彼に対する遠慮など私の内には存在しないので、コーヒー・メーカーにも手を伸ばす。澄んだ苦味を喉に流し込み、朝食にありつく。カフェインの効果は絶大で、眠気は直ぐに飛んだ。九時前にはこの部屋を出て行かなければならない。男が雇う家政婦さんがやって来てしまう。
 いい具合に液の染み込んだ極上のトーストをあっという間に平らげてしまうと、皿とマグをシンクに片付けた。きょうの朝刊に読み耽っていた男が、ふと、鳴り出した携帯端末を手に取った。
「―――スティーブン。…ああ、クラウス。お早う」
 背中越しにその四文字を耳にするだけで、心の内には赤く濁った渦が巻いた。私はまるで逃げるようにシャワー・ルームへ飛び込んだ。こちらの心境など露知らず、男は軽快に通話を続けている。微かに聞こえてくる笑い声が憎い。勢いのまま服を脱ぎ捨て、首を飾ったネックレスの留め金に指先をかけた瞬間、腹の底からどうしようもなく込み上げてくるものがあった。号泣しても誰も咎めないので、シャワー・ルームは気楽だった。


 シャワーから上がり、脱衣所で髪を乾かし、身支度を整えていると、おもむろに男が入ってきた。
「いい?」
 いいも何も、ここは男の家である。私は無言でイエスと頷いた。彼はどうやら髪を整えたいようで、場所を半分譲った。この男はだいぶ痩躯の割に、ふたりで佇んでいると空間が手狭に感じる。
 いつも好んで身につけている白シャツに腕を通すと、鏡の中には余所行きの自分が映っていた。きょうも問題なく「執務室」に顔を出せる。銀色の反射越しに、スカーフェイスと視線が合った。
「貸して」
「…? ああ、これ?」
「そう。付けてあげるよ」
 彼が指差すのは、エメラルドのネックレスだった。私の手のひらの上に乗ったままのそれを、彼は返事を待たずにスルリと攫っていく。そのまま片手で私の髪を右脇に避け、さらさらと綺麗に揺れるチェーンを首に通した。流れるような、手慣れた動作だ。喉許で揺れるエメラルドがひときわ強く輝いた。
「はい」
「ありがとう」
 ネックレスの留め金から離れた男の指が、そのままゆっくりと右肩をなぞった。あたためられた皮膚が粟立つ。彼の意図に気付いた私が制止をかける前に、痛みはやって来た。
「いっ……た、待って」
「……こんな痕、いつ付けたんだろうな。覚えてないんだ。君は?」
 男の、妙に長い指先が、昨夜の軌跡をなぞっている。いや。軌跡というには少々痛々しいそれは、まごう事なき傷あとだった。一晩を経て更に青黒く変色したその箇所はもはやグロテスクですらあり、私はつくづく男が憎らしくなった。しかし、噛み付かれていながら記憶にない自分自身もどうかとは思うが。
「私も覚えてない、っていうか、あんま触らないで。酷くなる」
「痛いか?」
「もちろん。…うわ、ちょっとやめてってば、スティーブン」
 名を呼んでもストップはかからない。彼の指が傷に食い込んだ。鋭い痛みに目を細める。男が吐息だけで笑ったのはきっと勘違いではないだろう。私は腰に回った彼の腕を振り切ろうと身を捩るのだが、まるでのれんに腕通しだ。びくともしない。それでも何とかして腕を解くことには成功したが、今度は物理的でない拘束によって私の身動きは停止してしまった。
「誰にも見せびらかさない宝石に、君は一体どんな意味を籠めているんだ?」
 鏡の中から、スティーブンがこちらをまっすぐに見ていた。返答など許されない。朝八時に交わすものとは思えない口付けが有無を言わせぬ沈黙を齎した。突っ撥ねた腕は簡単に掴まれてしまう。首許でネックレスが「しゃらん」と揺れる。まるで最後の悪あがきのようだ。
 私は彼の瞳の色をまじまじと眺めた。いちばん欲しい色は、けれど、そんな色彩では有り得なかった。

(15/05/27)