2日間だけのバカンス

 旅が好きだ。
 例えどんな場所であろうと、生まれて初めて降り立つ島はいつだって私の心を熱くさせる。未知への期待が足裏から全身へと広がるような、流れる血液が温度をぐんと上げたような、決して他の出来事では代用出来ない類の興奮が頭を満たすのだ。
 その日グランサイファーが停泊したのは、とある島の東端。桟橋が幾つも立ち並ぶ巨大な港だった。大小も用途も様々な騎空艇が所狭しと並び、引っ切りなしに着離岸を繰り返している。一年を通して安定した風が吹くこの港は、周辺の島々へ渡るための経由地としてもっぱら便利な土地であり、大勢の利用客に重宝されているのだった。
 辿り付く艇。飛び立つ艇。私はと言えば、前者から足を一歩踏み出したばかりである。まだ完全には昇り切らぬ、しかしあたたかな陽の光が頬を包み込む。髪をくすぐる季節風には棘がなく、心地がいい。
「それじゃあここから別行動だけど、――――」
 桟橋からの光景をぼんやりと眺めていた意識が、穏やかなその声で現実へと帰ってくる。振り返れば、団長のグランとジータがふたり肩を並べ、周囲の団員に指示を出しているところだった。慌ててその輪の中に駆け入ると、同じ団員のアンリエットがふんわりと微笑みかけてくる。
「ぼうっとしてたでしょ。考え事でもあったのかしら」
「いい眺めだなって、見てただけ。……声かけてくれれば良かったのに」
「ふふ。ごめんなさい。あんまりにも真剣だったから、邪魔したらいけないと思ったの」
 果実のように赤い口唇に細指を当て、彼女は微笑む。いたずらが見つかった子供の気分になって、私は思わず目を逸らし、話題を変えた。
「エティはどこに行くんだっけ」
「私はルリアちゃんたちとここの街で食料品の買い出しよ。結構大所帯みたいね」
 今回、グランサイファーの面々がこの島に寄港した目的は、各種物資の補給が主であった。だが一言に物資と言っても、そのカテゴリーはただの林檎から特殊銃の専用弾まで多岐に渡る。そのため、手の空いた団員が数人でグループを組み、別行動を取り目的物を獲得する手法が良く取られていた。
 最終確認と打ち合わせを済ませた団員たちから離散していく。ここから隣の島まで移動するグループもあれば、アンリエットのように港周辺に留まる者もいる。てきぱきと準備を整えるグランとジータのすぐ上を、今か今かと出発を待ち侘びるビィが飛んでいた。
「移動が少ないのはいいね。良さそうな甘い果物があったら、少し買っておいてもらえないかな。一緒にジャムでも作ろうよ」
「素敵ね。それぐらいもちろん大丈夫よ。……そういえば、はどこへ行くのかしら」
「ああ、私は……」
 答えようと顔を上げたところで、アンリエットの肩越しに、金髪の男がこちらに近付いてくるのが目に入った。
、そろそろ行かないと。移動艇に遅れちゃっても知らないよー?」
「了解」
 妙に間延びした呼びかけに返事をする私を見て、アンリエットは笑みを深めたが、おいでおいでと呑気に手招きをする男には決して見えなかっただろう。
「じゃあね、エティ。くれぐれも気を付けて」
「ええ。も。めいっぱい楽しんで」
 手荷物をまとめ、男のそばまで駆け寄った。相も変わらず飄々としたその男――シエテが私を見下ろして言う。
「ねえ、もしかして、きょうは俺と組むって忘れてた?」
「ううん。覚えてたよ」
「うっそだぁ」
 いかにも信じられない、と言わんばかりの表情を浮かべたシエテを、とりあえず受け流すことにする。
「移動艇ってどこの乗降場だったっけ」
「ええ、さっそく無視なの? ……まぁいいや。ここの一番端っこだよ。こっちこっち」
 港を行き交うひとびとの間を縫うように、シエテは器用に歩いていく。どうにも目立つ頭をしているから見失うことはない。
 今回の物資調達で、私とシエテはこの港から少し距離の離れた街へ赴くことになっている。伝統工芸など芸術方面に力を入れていることで有名なその街は、シエテにとって既知の場所だという。彼が案内役になるのは自然な流れだった。
 乗合の移動艇は想像以上の客で賑わっていた。だいぶ小型なため定員は十数人ほどのはずだが、おそらくその1.5倍は乗船しているだろう。船室に殆ど寿司詰め状態になってしまったが、運よく隅を確保できたため思ったほど苦しくはない。壁に背を預け、ポケットから懐中時計を取り出した。
「どれくらいかかるんだっけ?」
「うーん、二十分くらいの辛抱かなー。割といつも混んでるんだよね」
 私と向かい合うようにして立つシエテが小さくぼやいた。彼の背後には見事な体躯のドラフ族がどっしりと構えており、だいぶ肩身の狭い思いをしているらしい。
「もうちょっと、こっちに寄っていいよ」
 シエテの腕を引き、壁際に詰めさせる。もともと至近距離だったが、更に半歩縮まった。シエテが一瞬目を丸くして、こちらを覗き込んでくる。彼の瞳には困惑したような色が浮かんでいた。
「もー、びっくりさせないでよ」
 いったい何に驚くというのか。さあ、それは私には分からない。分からない振りをして、明後日の方向に顔を向けた。分厚い壁越しに騎空艇の稼働音が伝わって来る。どうやら出発したらしい。窓もないので、景色は拝めずじまいだ。それだけが、少し、残念だった。
 シエテの言葉通り、艇はそれから二十分後に目的地へと到着した。我先にと船室を後にする乗客らの背に続く。乗降場は街の高台に設けられており、すぐそばに古めかしい教会が立っているのが印象的だった。高らかな鐘の音が、街全体に時間を知らせる。
「きれいなところだね」
「あ、でしょ? 気に入ると思った」
 想像よりずっと発展した街並みがそこには広がっていた。だが、極端に高層な建築物は見当たらない。そのため随分開けた視界が使える。赤煉瓦の屋根に青空がよく映えるこの街の名は、ウイユヴェールという。
「街中、どこも同じような建築材を使ってるでしょ? そういう景観条例が出てるんだ」
 乗降場から一番近い街路に入る。路面には焦げ茶の煉瓦が丁寧に敷き詰められていた。長い年月を勤勉に過ごしてきた働き者の煉瓦はどれも独特の深い風味を出すが、ウイユヴェールは全体がその香ばしい雰囲気に包み込まれている。
 いま通り過ぎた店は薬屋。ハーブの清々しい香り。誘われるように視線を転じた先には画材屋。油絵具の濃厚なにおいが鼻腔に届く。まったく、初めての街というのは眺めているだけでも飽きが来ない。本分を忘れてしまいそうになる前に、私はシエテを見上げ、訊いた。
「例の図書館はどこ?」
「ええー、もう仕事の話? や、別にいいけどさぁ」
 大仰に肩を竦めて返すシエテ。そう言われても、仕事のために来たのだから仕方ないだろう。我欲は二の次だ。私は上着の内ポケットから手帳を取り出すと、開いてシエテに見せた。2ページ丸々みっしりと書かれた書籍名の羅列を指差す。
「アルタイルとかアルシャから頼まれてるリストだけでもこれ。それから、私が欲しいものもあるんだから、2人がかりでも探すのは結構手間だと思う。早く済ませよう?」
「はいはい。ちゃんは今日も仕事熱心だねぇ。案内するよ」
 シエテの先導に従って、私たちは街の西部へ向かった。街を縦横無尽に走る路は新参者の私にとってはまるで迷路の如しだったが、シエテは迷う素振りひとつ見せず歩を進めていく。
 目的の図書館へはすぐに着いた。ここも、例の煉瓦を用いて建てられている。半円アーチの柱廊に、細長の窓は上げ下げ式。シックな塔屋まで設けられた三階建て。外観だけ見ればどこかの公会堂のようだった。
 花壇に彩られたアプローチへ向かう。両開き式のドアにシエテが手を伸ばしたそのとき、タイミングを読んだかのように内側から開かれた。
「うわ」
「ああ、これはすみません。あなた方がこちらへ向かうのがちょうど窓から見えたものでしてな。うちに御用でしょうか」
 ドアの間からひょっこりと顔を出したのは、初老のエルーン紳士だった。たっぷりとたくわえられた白髭に、優しげな瞳。用向きを説明すると、紳士は快く私たちを迎え入れてくれた。
「それはそれは。遠い所からご苦労様でございます。客人は珍しい。それも、こんなお若いお二人とは」
 ここは街や国が運営する公立図書館とは違い、あくまで一般人が作り上げた私的なる図書館であった。――曰く。むかしむかし、本の収集に憑りつかれた、富める男がいましたとさ。内容如何に関わらず、対象が本であるというだけで、彼の愛着の対象となった。彼はその一生を本への飽くなき情熱に注いだが、墓場や天国にまで本を持参することはできない。持ち主の死後、膨大な知的財産はしっかりと今世に残された。数十万冊に及ぶ貴重な遺品を捨てるには忍びないと判断した子孫が、こうしてひとつの施設を作り上げ、男が愛した書籍をすべて保管し、市民や好事家へ貸し出しているのだという。
「そのときに、国の図書館にぜんぶ寄付してしまえば……。私なんぞは今でもそう思うんですがね」
 私たちを先導するこの紳士は創始者ではなく、曾孫に当たるのだそうだ。杖を付きながら、ゆっくりと階段の手前まで案内してくれた。
「この体たらくですから、二階までのご案内はどうかご容赦を。どうぞお好きにご覧になってくださいまし。私は1階のロビーにおりますから、帰るときはお声掛けを。貸出の手続きをされる場合もその時に」
「はい。ありがとうございます」
 紳士はにっこり笑うと再びロビーへ戻っていった。
「俺たち以外にお客さんはいないみたいだね」
 赤い絨毯の敷かれた階段が、踏みしめるたび微かに軋んだ。しんと静まった空間に、骨董時計の針が時を刻む音だけが響いている。
 二階には何部屋かあり、そのすべてに書架が並んでいた。天井まで届く、造り付けの代物である。おそらく三階も同じだろう。
 突き当たりの一室に入ると、微かに甘い、古書特有の懐かしいにおいに包まれた。部屋の中央には物言わぬ書架に囲まれるようにしてマホガニーの長机が置かれており、読書用の椅子も数脚ある。
 入口そばの書架を検めていると、一分も経たぬうちに蔵書リストを発見した。長机の上まで運んでから、目を通し始める。どうやらこの部屋の書籍情報のみが記録されているらしかった。
 別の部屋にもリストがないか確かめて来ると言って、シエテが部屋を出て行った。私は手許の一冊に向き合い、リストと合致する書籍がないか地道な検索を始めた。どうやらここの創設者は本物の好事家だったらしい。おおよそ私的な範囲とは思えないほどの蒐集振りである。動物図鑑から子供向けの童話書まで、そのカテゴリーの広さには思わず目を見開いてしまう。
 シエテは比較的すぐに戻ってきた。リストから顔を上げると、翠の目と視線が合う。
「とりあえず、二階はこれで全部。あー、重かったぁ」
 彼は腕に抱えていた分厚いリストを数冊、長机に積み上げた。一冊一冊が下手な辞書ほどの厚みがある。これだけの物を全部となると、想像以上に時間がかかりそうだ。
「ありがと。やっぱり結構あるね。じゃあ、シエテも手伝って」
「はいはい」
 シエテは肩を竦めると、私の右隣に腰を下ろした。ふたりの間に、手帳をがばりと開いて置く。ずらりと並んだ書籍名。――アルタイルやアルシャが欲する書籍はかなりの珍本だ。行く先々で毎度探してはいるらしいが、リストは増えるばかりで減る気配がないと言う。もはやあれば僥倖、という神頼みにも近い心持ちで、旅のかたわら探し続けているらしい。
 私も、彼らと状況は似ている。
 私は各島々を訪れては、現地民の間に残る聖晶獣についての民話や伝説を調べ、書籍に纏めて残すことを生業としている。自分が本業とする分野に於いて知識が多いに越したことはない。そのためにも日々の資料集めは欠かせないのだ。新しい島へ向かう機会があれば、土着の聖晶獣について記した書物を必ず探す事にしている。
 目的が大方一致しているから、こうして自分用の資料を求めるかたわら、アルタイル達にも協力している。今回は私が探す方だが、立場が逆になることもままある。それぞれの島の状況、自分たちの役割や任務状況を鑑みて、その都度ベストな選択肢を導く。
「ねー、
「うん」
 単純作業で退屈するのだろう、シエテが声を掛けてくる。元来おしゃべりな男なのだ。視線を手許から動かさぬまま、私は生返事をした。
「昼ご飯はどこにしよっか。美味しいとこ一杯あるんだよ」
「シエテに任せる」
「お肉とお魚だとどっちがいい?」
「気分的に肉かな」
 蔵書リストの頁を捲る。目的の書籍名と照らし合わせていく。違う。違う。これも。ない。あっ、と思ったら名前が酷似しているだけだった。気を取り直して次へ進む。違う。違う。ああ……。
「まあ一仕事したあとはがっつり食べたくなるよねー。分かるよ。……あ。一冊みっけ」
「うそ!」
 それは正に鶴の一声だった。貼り付くようにして眺めていたリストから、勢い良く顔を上げる。
 ――すぐそばに翠の目があった。
 声を上げる間もない。
「単純だなぁ」
 息さえ触れ混ざる距離で楽しげに笑う男を、唖然と見つめる他ない。
「こういう子どもみたいな騙し方はやめてくれないかな……」
 私は自然と口唇に指を触れさせていた。皮膚に残る慣れた感触は思いのほか甘く、つい数十秒前まではあったはずの冷静な思考がなかなか戻って来ない。それどころか心拍数が高まりつつある始末だ。
「………ビックリした」
 机上に置いた右手が、知らぬ間に握りこぶしを作っていた。大きくあたたかい手のひらがそうっと被さる。
「騙したことは謝るよ。なんならもっかいする?」
 どうせ誰もいないし、俺は何度だって大歓迎だしね。私が答えあぐねていると、シエテは素知らぬ顔でからからと笑って、自分だけ一足先に作業へ戻ってしまった。飄々とした横顔を恨みがましく睨め付けてみても、所詮は暖簾に腕通しである。意味を成さない。
 釈然としない。が、反抗の手段を考えるだけ時間の無駄だ。
 わざとらしく長い溜め息を吐いてから、私もまたリストに目を落とす。
 結局それから2時間ほど無言で作業を続けたが、収穫は殆どなかった。悲しいかな、こういう結末は良くある。別に珍しい訳ではない。だからと言って、単純作業で疲労した思考回路と肉体が、聞き分け良くハイそうですかと納得してくれる訳もない。頭は糖を欲しているし、胃はぐうぐうと声を上げた。
 蔵書リストを各部屋に戻し、一階ロビーに続く階段を降りていたところ、先ほどのエルーン紳士が奥からひょこりと顔を出した。
「お探しのものはございましたか」
 丸い目が柔らかく細まり、私とシエテを見やる。生きてきた年月の長さを思わせる、重厚な声音だった。
 私が首を振ると、紳士は自分のことのように悲しげな顔をした。
「それは残念でございましたね」
「いえ、とても興味深い文献ばかりで、驚きました」
「そう仰っていただけると、先祖も報われることでしょう」
 紳士は真っ白い髭を揺らしながら笑って、それから私たちを昼食へ誘った。思ってもいなかった申し出に、私とシエテは随分驚いた。
「なに、退屈に飽いた老人の我がままです。すぐ近くに私の息子夫婦がやっている店がありましてな。お嫌でなければ」
 断る理由など特になかった。是非と頷くと、老人は大層喜んだ様子で私たちを外へと連れ出した。図書館の入口には「ただ今閉館中」との札が下げられた。
 目的の店は本当にすぐ近くだった。杖をついた老人の歩調に合わせても3分かからなかった程だ。こぢんまりとしていたが雰囲気のいい店で、軒先にはテラスまで拵えてある。
 食事中、紳士と私たちは良く話した。あの図書館は普段、紳士の娘夫婦が運営していること。彼らが所用で外出する日は紳士が館長代理を務めていること。柔らかくジューシーなハンバーグと、胃に染み込むような優しい味のポトフをお腹に納め終えたあとも、話はなかなか終わらなかった。紳士は随分と話上手だった。それに彼は日頃寂しい思いをしているらしく、その鬱憤も晴らしたかったのかもしれない。私たちを見る目は孫を見るそれに近かった。私はふいに故郷に住まう祖父母の事を思い出した。島を転々としている生活では、なかなか戻る機会も時間もない。
 すっかり満腹になったあと、紳士を図書館へと送り届けるため、3人は店を辞した。送迎といってもあっという間の道程である。陽光に照らされた私立図書館は、初めて訪れた時と同様、独特の静寂を纏いながら館長代理の帰りを待っていた。
 紳士は丁寧に礼を述べると、私たちにここで少し待つように言って図書館へ入った。私とシエテが揃って首を傾げていると、小柄な影がゆっくりと戻ってきた。
「これをお持ちになってください」
 そうにこやかに言いながら、紳士がシエテの手に傘を2本持たせる。
「この街は夕方から夜にかけて非常に激しい雨に見舞われることが多いんですよ」
「こんなに晴れてるのに」
 3人の頭上高くには青々と澄んだ空がどこまでも広がっていて、とてもではないが信じられない話だった。だが、他でもない現地民の言葉なのだから、間違いなく真実なのだろう。
「天候が変わりやすい島なんですな。朝になれば元通り、嘘みたいに快晴になるんですから不思議ですよ」
「そうなんですか。お気遣いありがとうございます」
「とんでもない。きょうは久方ぶりに楽しい時間を過ごせました。心ばかりですがその御礼だと思っていただければ。返却は結構ですので」
 何から何までありがたい気遣いである。
「では、お気を付けて」
 そう手を振る紳士に深く頭を下げ、私たちはまた、ウイユヴェールの中心街へと続く道へ向かった。
 そう遠くない距離に公立図書館もあるとシエテが言うので、駄目元で行ってみることにした。
「随分優しい人だったねー」
「そうだね。まさしく図書館長って感じがした」
 何食わぬ顔でシエテに返事をしながらも、本当のところ、私は少し笑い出しそうになっていた。武具を纏い、剣を下げ、白い外套を靡かせる男に、赤い傘は余りにもそぐわない。
「ていうかさ、、さっきから俺の顔めちゃくちゃ見てない? なになに? どうしたの?」
 この男が視線に気付かない筈がなかった。揶揄で目を細め、口許まで緩めただらしない表情は、どう考えても剣の達人が見せるものではない。綿雲のようなこの浮薄さを意識的にやってのけているのだから、ある意味大したものだ。
 私はシエテの手許を指差す。
「その傘。似合わないなぁって思って」
「ひっどい言い草」
「ごめん」
 口先だけで謝罪する。もー、とまるで腕白な弟を持つ姉のような台詞と共に不貞腐れる彼を、私はどうしたって突き放せない。
 目抜き通りをひとつ抜けると、目指す公立図書館が見えた。何か一冊でも見つかるといいね、とぼやくシエテに心から同意する。
 だが、結論から言って完全に収穫なしだった。
 そもそも規模が大きいため、時間ばかり無駄に食ってしまった。収容数だけで言えば先程の私立図書館の数倍はある。数時間の単純作業を終え、図書館から出た時は、私もシエテも揃って草臥れた表情を浮かべていた。
 手帳を開く。リストは一行として減っていない。
「さすがに疲れたねー……」
 殆どげんなりした調子で、シエテが言う。
「ほぼ一日中文字と睨めっこしてたし、さすがにね。お疲れさま」
もね」
 手帳を閉じたそのとき、皮の表紙に何かがぽつりと落ちてきた。
 水滴である。
「うそ。雨」
 まるで私の言葉を皮切りにするようにして、空から大粒の雨が降り注ぎ始めた。つい数時間前まで澄み渡っていたはずの青空が、今はただ分厚い曇天に埋もれ、激しさを増す雨でウイユヴェールを覆っていく。
 視界の端で鋭い閃光が弾け、数秒ののちに天空が怒りを吠えた。
「うわ……これは凄いね」
 慌てて近くの軒先に逃げ込んだが、音を立てて煉瓦道に打ち付ける雨粒は太腿の高さまで飛散してくる。住人はみな駆け足で逃げ去っていき、あっという間に通りには誰の姿も見えなくなった。
 一瞬で様相を変えた空模様に、半ば茫然としてしまう。降り注ぐ雨が細やかな霧を形成し、薄っすらとぼやけ始めた視界の中で、目を覚ますような赤が咲いた。隣のシエテが傘を差したのだ。
、行くよ」
「え? どこに、」
「きょう泊まる予定の宿屋」
 ここにいても仕方ないし。彼は答えるのももどかしい様子で、私にもう1本の傘を差し出す。
「しばらく走るよ。ついてきて」
 言うが早いか、シエテは通りを駆け出した。慌ててその背についていく。まともに水たまりの上を通ってしまい、レギンスに大きな染みが出来た。だがそんな些末なミスで落ち込んでいる間もない。シエテのスピードは速く、気を抜けば置いていかれてしまいそうだからだ。
 シエテがいつも身に纏う白い外套は、夜闇の広がり始めた雨の街でも良く目立った。
 彼がようやくその足を止めたのは、公立図書館からだいぶ離れた宿場町の片隅だった。頑丈な煉瓦の三階建。逃げ込むようにして入ってきた2匹の濡れねずみを、宿屋の女主人は優しく出迎えてくれた。
「おやまあ、島の外の方かしら。大変だったでしょう。さあさ、これをどうぞ」
 丸っこい小動物を思わせる女主人から手渡された厚手のタオルで、水分をじっとりと吸った髪を拭く。私も散々な有様だが、シエテも似たり寄ったりだ。常日頃は跳ねがちな髪がすっかり元気を失って、襟足に貼り付き、水滴を垂らしている。白い外套には泥が跳ねていた。
 出入口の傘立てに傘を預ける。赤い傘の他にも何本か刺さっていたから、私たちのような客は少なくないらしい。シエテが宿泊手続きを済ませているあいだ、ロビーの窓から外を覗き見た。雨どころか雷すら未だ納まっていない。堅牢な煉瓦壁の建築物へ入っても尚、弱まることを知らない雨足が、鼓膜を激しく叩いていた。
「危なかったねー、最後の一部屋だってさ」
 シエテが鍵を手に戻ってきた。まだ髪が少し濡れており、別人とまではいかないが、常とはだいぶ雰囲気が異なる。そっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。氷のように冷たい。
「このままでいると風邪引きそうだね」
「あっはは、もね?」
 お返しとばかりに、左頬を軽く抓られる。とりあえずさっさと風呂を済ませた方がいい。傘があったとはいえ、激しい雨は足許や肩を否応なしに冷やしてしまった。
 宛がわれた部屋に入ると、ようやく人心地ついた。内装や調度は他の街の宿屋と大して変わらなかったが、やはり煉瓦壁だからか、どこかノスタルジックな空間である。風呂も備え付けられているようだ。手荷物から着替えを出し、風呂場へ続くドアを開く。
「2人で一緒に入れそうだよ」
 シエテの方を振り返る。彼は呆れたように眉を下げた。
「いいよ、俺は平気だからキミひとりで使いなって。それとも何、誘ってるの? それこそ風邪引くでしょ」
 随分長いことバスタブに引き留めることになるからねー。外套を肩から外しながら、シエテは事もなげに答える。
「わかった。じゃあここぞとばかりにゆっくり使うから」
 引き留められるのはやぶさかではないのだが、風邪は御免こうむりたい。少しばかり未練はあったが、大人しく風呂場のドアを閉じた。
 ――考えてもみれば、こうして2人、知らない街でゆっくりと時間を使うのは久しぶりのことだった。だからだろうか、離れがたい、などという面映ゆい感情が、心の内側に広がってしまっている。
 熱い湯で身体を清めると、生まれ変わったように新鮮な気分に包まれた。身体の芯に残っていた雨の冷気もすっかり消え去り、上気した皮膚の下には温もった血液が循環する。
 少し濡れたままの髪にタオルを当てながら部屋に戻ると、シエテは窓際のチェアに腰かけ、愛用の剣に手入れを施していた。外套や武具をすっかり外し、簡単な恰好に着替えている。
「次、どうぞ」
「はいはーい」
 彼の視線は手許から動かない。鋭い刃先が、天井の照明を反射してきらりと輝いた。私は剣について完全な素人だが、非常に美しい代物だと思った。やがて十分な手入れが済んだのか、鞘に戻される。
 席を立ったシエテが風呂場に消えていくのを横目で見送ってから、ふたつ並んだベッドの手前に寝転がる。
 半円形の窓の向こう側ではまだ雨が降り続いていた。時々、思い出したように低い雷鳴も響く。窓硝子に打ち付ける雨粒が透明の軌跡を幾つも引いては消えていくのを、しばらく眺めた。あと4日ぐらい降り続けそうな勢いである。本当に、朝には止むのだろうか。もし長雨になれば、明日もここに宿泊するのだろうか。
 することがないと、私は自然、目を通すものを欲してしまう。手荷物の中から一冊の書籍を取り出した。数日前に団員のアリステラから借りたもので、ファータ・グランデ空域西部に生息する花々を紹介した図鑑本だ。花に対して特別興味がある訳ではないが、頭で色々と考えずとも目で見るだけでシンプルに楽しめる図鑑は好きだった。本のサイズ自体も手頃で持ち歩きに適していた。雨に濡れずに済み、幸いだ。
 小指の先ほどしかない草花から、猫の頭より大きい面妖な花まで、様々な色彩をぼんやり眺めた。窓の外から響く雨音と、風呂場からかすかに聞こえてくる水音が鼓膜の中で溶け混ざり、靄のような眠気が発生していく。体が休息を欲している。目蓋の降下を抑えられない。
 ――するり、と左頬に温かな感触がした。
 私はそこで目を覚ます。
 どうやら少しばかり微睡んでしまったようだ。こちらを覗き込むシエテと目が合い、笑顔を返した。
「……寝てた」
「あぁ、ごめん」
 起こすつもりはなかったんだけど。気を悪くしたような声音。
「別にいいよ。私も、寝るつもりはなかったし……」
 上体を起こし、欠伸を?み殺す。鮮やかな図鑑を見ていたせいか妙な夢を見た気がする。
「はー、やっぱり風呂は良いよねぇ」
 よっこらしょとか何とか年寄り臭い台詞と共に、シエテが私のそばに腰を下ろした。まだ少し濡れたままの髪をかき上げた長い指が、枕許で沈黙していた図鑑を指差す。
「図鑑?」
「アリステラに借りたやつ。読んでいいよ」
「んー、俺、いま手湿ってるからさ」
 そんなところに気を使うのだな、と思う。ふあ、と再度、特大の欠伸が出た。もう一度左頬を手の甲でするすると撫でられる。彼の言葉通り、温かくて湿っていた。
「まだ眠い? お腹空かない?」
「そう言われると、急にお腹空いてくる」
 ははっ、とシエテは声を出して笑う。
「お昼からなんにも食べてないし、当然だよ。さっき、女将さんがね。軽食で良ければ出すから後でおいでって。ご好意に甘えようか」
「そうだね。正直、お腹と背中がくっ付きそう」
 取りに行くからと威勢よく腰を上げ、シエテが部屋を後にする。気が利くのは勿論ありがたいが、頬にキスを残していく必要はあったのだろうか。ストレートな愛情表現を受けていると、自分が犬猫にでもなったような不思議な気分になる。
 3分も経たないうちに、トレイを持ったシエテが戻ってきた。窓脇にミニテーブルと2脚のチェアが置かれているので、そちらに移動する。
「うわ、美味しそう」
 手のひらより一回り小さいパンがごろごろと積まれた編みカゴがひとつ。スープマグには、熱々のポタージュが満たされていた。パンに挟むのだろう、薄くスライスされたハムとチーズまで乗っている。
 知らず、ごくりと喉が鳴った。体は本当に素直である。
「冷める前に食べちゃおう。パンは焼き立てだってさー」
 ふたり、向かい合わせに腰を下ろし、遅めの夕食をいただく。ポタージュをひとくち含めば、牛乳の濃厚な風味が舌いっぱいに広がった。クルトンの食感が良いアクセントになっている。溢れる食欲を耐えきれず、パンに手を伸ばした。ぽってりと黄金色に焼き上がった表面を割ると、真っ白い中身が姿を現す。
「あ、パンは何個か種類あるって。くるみとか、バターロールとか」
 そう言うシエテの頬は木の実を目いっぱい頬張るリスのように膨らんでいる。思わず笑った。お互いよっぽど空腹だったのか、ろくな会話もないまま、あっという間に平らげてしまった。
 食器を下げるのは私が担当した。一階へ降り、食堂らしき空間を覗き込むと、ちょうど女主人が焼き上がったパイにナイフを入れているところだった。料理が相当得意な女性なのだろう。黄金色の生地を均等に切り分ける見事な手付きで、そう判断した。
 食事への礼を述べた私に、女主人は藪から棒に訊いた。
「あのにこにこしたお兄さんは、お嬢さんのいいひとかい?」
 一瞬面食らったあと、いいひと、という言葉の意味を頭でかみ砕く。いいひと。そうだ。間違いなく。年甲斐もなく少年のように笑う、あの笑顔を思い浮かべる。
「ええ、まあ……そうなりますね」
「あら、照れてるのかしら。若いっていいわねえ。さっき、料理を取りに来たときにね。あのお兄さん、すごく楽しそうだったわ。いいひとと食べる食事って嬉しいものよね」
 人好きのする笑みを浮かべて、女主人は切り分けたパイを皿に並べていく。再度礼を口にして、私は部屋へ戻った。
 シエテはまだチェアに座ったままだった。足を組み、肘をつき、空いた左手で何かを捲っている――ああ、あれは私の本だ。
「おもしろい?」
 三度の飯よりも剣が好きな男にとって、花々の説明や生態など食指が動かないだろう。
「うん。俺、別に本は嫌いじゃないんだよ?」
 剣のことばっかにかまけてると思ってるんでしょ、どうせ。歩み寄った私を抱き込むように腕を回しながら、捻くれた風に口唇を突き出す。
「冗談。読んでるとこ、見たことないな」
 シエテの肩に手を回し、飼っている大型犬にじゃれ付くような仕草で、耳を引っ張る。これっぽっちの力も込めていないのに、痛いと笑われた。彼は一日の三分の一は笑っているんじゃないか、と思う。
「まあ、読書家って訳じゃないけどさ。昔ねえ、ウーノに言われたことがあってさ。この空で必要な大抵の知識は既に先人が記しているんだから、読んでおくに越したことはないよって」
「言いそう」
 さすがは賢人である。記憶にあるウーノさんの語り口を思い起こし、シエテがいま口にした台詞と照らし合わせてみる。思いのほかしっくりと当て嵌まった。
 窓硝子越しに微かに届く街灯の朧な白が、シエテの頬をぼんやりと照らしている。つくりだけで判断すれば端正な顔をしているこの男が本に集中する姿は、おそらく、想像するよりもずっときれいなのだろう。
「だから、一時期は結構な量を読んだんだよね。でもやっぱり暫くすると飽きちゃってさぁ。習慣化するのは無理だなーって悟ったよ。本を読むこと自体は好きでも、読まなきゃ、って強制力が働くと途端に面倒になっちゃうんだよねー。自分でも子供だとは思うけどさ」
 過去に通った図書館のうちのひとつが、きょう訪れたウィユヴェールの公立図書館だったのだそうだ。私立図書館の方は、当時、街の住民から噂を聞き及んで知ったという。
「シエテが本を読むところ、あんまり想像付かないな。剣を振り回してるところはすぐに思いつくのに」
「振り回してるって……遊びじゃないんだからねー?」
「分かってるよ」
 この男の内側に強さが詰まっていることなんて、言われずともよく知っている。
「俺で良ければいつでも稽古つけてあげるけど?」
「そういうのはグランとジータにしてあげて。私は慎んで遠慮します」
「最近、俺との手合わせが団長ちゃんたちに若干面倒臭がられてるの分かって言ってる?」
「うわ、そうなの? シエテは構い過ぎなんだよ」
 笑いを堪えながら窘める。彼らにぞんざいに扱われているシエテの様子を想像すると、どうにもこうにも面白くて堪らない。シエテがやれやれと大仰に肩を竦めた。そしておもむろに立ち上がったかと思うと、急に私の腋に手を差し入れてきた。――何を、と疑問を挟む間もなくそのまま簡単に抱え上げられる。流れるような動作だった。
 身を預けたベッドシーツから石鹸のにおいがする。喉に触れてくる手があたたかい。雨音を聴きながら見つめた碧の目はやっぱり少年染みていた。食欲を宥めたあと、すぐさま別の衝動を満たそうとしている大きな子供だ。
「シエテのさ、そういうところ、たまに分からなくなる」
「そういうところって?」
「急にスイッチが切り替わるところだよ」
「別にいま切り替わった訳じゃないよ。俺はきょうずーっとこういう機会を窺ってたんだけどなぁ」
 分からないもんかなぁ。困ったように下がる眉に、指先で触れてやる。薄闇の中でも目立つ金髪に柔いキスを振る舞うと、彼の機嫌はあっという間に改善した。、と呼ばれる名が持つ意味合いが、つい2分前とはまるで異なっていることを、身を以って認識する。
 ごつごつした肩越しに目をやった窓にはまだ大粒の雫が伝っていた。低く這うように鳴る雷が、子どものようなふたりを窘めている。おやすみには早い。雨が上がるまでは、起きていたってかまわないだろう。

「……そういえば、ほんとに、雨、止むのかな」
「止むよ。朝になればね」

(17/07/07)