あらゆる別離に先んじよ


あらゆる別離に先んじよ、別離がちょうど今過ぎてゆく冬に似て、君の背後にあるかのように。
『リルケ詩集』生野幸吉訳, 白凰社, 1967


 それぞれの季節に根差した別個の記憶がひとつひとつ増えていくたび、感傷を帯びた鎖が重りのように心に絡み付いていく気がしてならなかった。
 6月も半ばを過ぎると、都内の気温は一気に夏を帯びてくる。は夏が得意ではない。間もなく訪れる太陽の横暴を前に、街を闊歩する老若男女は皆、汗を薄っすらとこめかみに滲ませる。
 もっとも、がいま額に浮かべている汗は、気温と湿気が原因ではない。
 少し無理をして喉奥までその先端を咥え込んだとき、堪え切れず漏れたと思しき吐息が頭上から聞こえてきて、は我知らずほくそ笑みそうになった。すっかり膨張し、透き通った体液を盛んにこぼして喜ぶ性器を粘膜の襞全体で擦り上げるように顔を上下させる。の頭に添えられた五条の手のひらは、果たしての積極性を咎めているのか、それとも助長しているのか。彼が吐く息の掠れ具合から判断するに、多分その中間なのだろう。
 流石に呼吸が苦しくなり、は一度、口内に迎え入れていた性器を解放した。舐めていた飴を口から取り出したときのような幼い効果音とは裏腹に、2人分の体液を纏う性器はひどく生々しい肉色をしている。それなのに目を離せずにいる自分自身に気付き、の胸の底に薄い靄が広がっていく。顔を上げると、壁に凭れたまま病熱を持て余している五条と目が合った。清流や薄氷を思わせる色彩はしかし、煮え立つ衝動によって充血し、爛々と濡れかがやいている。
「……ねえ、すごい顔してるよ。私はちょっと苦しかったけど、五条くんはさっきの気持ち良かったんだ。覚えとく」
「うるせー、バカ」
 ふい、とそっぽを向いてしまう。その頬に、教室の窓から斜めに射し込んでくる夕焼けが緋色に陰っていた。五条の足の間に座り込んだ状態で、は自分の右手指を口に含む。第一関節から第三関節、手のひらに至るまで丹念に舐めて乾いた部分を無くしてから、の目前で愛撫の続きを待ちわびている肉塊に正面から向き合う。つい数ヶ月前までは教科書の人体図でしか知らなかった、男性だけが持つ生殖器。この奇妙なかたちが、の内側にある繊細で貪欲な器官にぴったり馴染むことは、もうすっかり知っている。
 先端と中央部を区切る、くっきりと刻まれたくびれに指先を滑らせた。五条の体が、ぴくりと跳ねる。手のひらを緩やかにスライドさせるうち、の唾液と五条の体液が再び混合して生ぬるい温度を帯びていく。不規則なリズムで苦しげに繰り返される息を耳で捉え、の手の動きに反応し一秒ごとニュアンスが変化する表情を目にしっかりと映す。かたちの良い、薄い口唇がわずか開いていて、その隙間から今にも唾液が伝い落ちそうな様子がどれだけの心を昂ぶらせるか、きっと五条自身は知らないのだろう。
 五条悟が、に主導権と決定権を揃って明け渡し、理性的な思考と行動まで放棄して、急ごしらえの快楽に浸っている。切なげで、頼りなくもある彼の甘い自堕落が、の体に芽生えた情熱をしっかりと育てていく。五条に口付けてしまいたかったが、は考え直し、手のひらの中で爆発してしまいそうな熱にもう一度吸い付いた。舌で全体の輪郭をなぞると、塩辛いような、苦いような独特の風味が味蕾を刺激する。決して快いものではないのに、味わっていると体にちゃんと興奮が走るのだから不思議だ。根本を緩やかに擦り上げながら、筒の裏側を丁寧に舐め上げる。焦ったように、の頭に手のひらが触れた。長い指のあいだで髪が掻き混ぜられ、揺れ動く。
「っ、さん、駄目だ」
「ん」
「もう出るってば……あ、おい、だから、っ……」
 そんなふうに情けない声を出さないで欲しい。は軽いめまいに襲われながら、舌先と手のひらの動作に緩急を付けた。節くれ立った太い指先がの髪を引く。彼はそのままによって追い立てられ、すぐに瓦解した。
 飲みくだし切れない。は咄嗟に口端を押さえたがワンテンポ遅かった。粘り気を帯びた白い体液が、下着しか残されていない体の、やわらかな乳房の間をとろりと伝っていく。まるで何かのデコレーションクリームのように、みだらだ。上から注がれる視線の重力に気付いて五条を見上げたが、その瞬間、の呼吸は止まってしまった。導かれた射精の直後だろうと変わらないきれいな目。
「なんで飲むの? 信じらんねえ」
 両脇に手が差し入れられ、簡単に抱き起こされてしまう。床に足を付けた瞬間、腿の奥に液体が伝う嫌な感触に気付き、頬に熱が集中する。
 五条は無言での体を壁に寄りかからせたかと思うと、そのまま腰を掴み上げてショーツを引き下ろした。状況の急激な方向転換に頭がついていかない。なのに、の心臓はどんどん鼓動を早くした。期待とも呼べる素直な反応だった。
「あ、……うっ」
 空き教室の壁に縋り付き、目を固く閉じて耐え忍ぶ。五条の人差し指が、熱と体液で疼くクレバスを勿体ぶったペースで行き来する。分け入るようにして細い侵入が果たされたとき、の喉からくぐもった溜め息が漏れた。
「うわ、熱い」
 つぶやく五条の声が、半分笑っている。
「ん、う……指、つめた、あっ」
「ちょっとだけ我慢して。あーもう駄目だ、勃ってきた……」
 入口付近を指の腹で撫でられるじれったい愛撫に慣れたころ、出し抜けにクリトリスへ体液を塗り込まれ、は目を見開いた。大きく跳ねた体が強張り、撓んだ木の枝のように四肢が軋む。震える体を背後から抱えられながら、何度も同じ場所ばかりを優しく擦られて視界が滲む。快感に恐怖の色がじわり混じり込んでいく。このままどこか知らない場所まで連れて行かれるのではという漠然とした不安。握りこぶしの内側で指先が怯えている。
「ッ、ん! あっ、やだ、それ怖い……っ」
「んー、もうちょっと頑張ってよさん」
「五条く、私、立ってられない、」
 の体にはもう殆ど力が入っていない。腰と足の付け根を支える五条の腕が無ければ、薄っすら埃が積もった床に倒れ込んでいるだろう。空恐ろしい。自分の肉体を他人の手に明け渡し、預けてしまう事それ自体が。呪術師には己の完璧な制限と支配が求められる。ふと足許に視線を落とすと、ごく小さな水溜まりにも似た水滴が幾つも散らばっており、危うく失神しそうになった。
 先ほど脱いだの制服と、五条の制服を重ねて敷いただけの簡素なシーツに、怪我人の如く寝かされた。さっき吐き出したばかりだというのに既にしっかり反り返っている暗紫色の肉に、薄い緑が透けるゴムが器用に巻かれていく。にはないもの。そして、の内側を押し広げ満たす、五条のもの。
 入れるよ、とワンクッションを挟んでから、五条は腰を進めた。熱い粘膜を掻き分けていく肉の温度と硬度がの背筋を震わせる。元来自分には存在しないものを体内の奥深くにまで受け入れて初めて、十全の充足を感じる。ひとつに溶け合う甘美というよりは、お互いが別個体である事実を尚いっそう自覚させてくる啓示と表現した方が近い。しかしそこに孤独や疎外感はなく、ただ温かな海が広がっているだけだ。底の白砂を透かす薄青の浅瀬。限りがない地平線。その海に、は細胞を溶かしながら沈んでいく。
さん。」
 臍の辺りをゆるゆると撫でていた武骨な指が、いつの間にか喉の辺りまでせり上がって来ている。
さんの中、ほんっとに熱い」
「……五条くんもだよ。嘘みたいに熱い」
 空気が抜けたような笑みが返される。項垂れていた手を体に引き戻すと、五条のサングラスが指先に当たって音を立てた。覆い被さってきた広い背に腕を回し、夢でも見るように目を閉じる。
 陽はとっくに沈み、教室には薄闇が広がりつつあったが、の携帯に教師からの着信が入るまでずっと、肌を触れ合わせていた。


 いったい何度目の葬式になるのか。数えることは高専に入った当時に止めてしまったので総数は分からない。未だ明けぬ梅雨の鬱陶しい小雨がしおらしく降り注ぐ中、友人との別れは粛々と進んでいく。同い年の高専生が逝くのはにとって初めての経験だった。四肢がきれいに残された死体も、いたって普通に催される葬式という儀式も、呪術師という生業を選ぶ人間にとってはそれ自体が貴重なものだという理屈は分かっている。しかし、妙に美しい棺の前でさめざめと泣く友人の家族を見ていると、何もかもの輪郭が滲み、徐々に分からなくなっていくようだ。
 傘を差し、高専までの帰路を進んだ。湿気が立ち込める住宅街の中で、制服に染み付いた線香の香りがの意識をずっと引っ張り続けている。にとって同級生と呼べる人間は今も棺で眠っている彼だけであり、明日からは教室に並ぶ机がとうとうひとつになるのだ。倦怠感を引き摺った体をやっとの思いで電車に乗り込ませて、京王線の各駅停車で終点近くまで眠る。
 高専に辿り付いたときにはすっかり夜になっていた。寮の玄関前に佇むのっぽの男を見つけたとき、の心に過ぎったのは懐かしさだった。駆け寄るほどの十分な気力がなく、ただ、を見つめる彼の許まで近付いていく。
「おかえり」
「ただいま」
 話があるとでも言いたげな顔をしているくせに、五条は切り出そうとしない。は彼の手を取り、ほとんど学生が住んでいない寮の中へと促した。ちらと見上げた横顔には静かな怒りが宿っている。ものが少ない空虚な自室に五条がやって来ると、室内はあっという間に五条の存在感で窮屈になってしまう。
 思いを率直に口を出してしまう五条と、何事も柳のように受け流すことで自分への影響を最小限に抑えてきたは、一見上手くいくように見えて大小さまざまな衝突を繰り返してきた。
 特に、が同級生と2人で任務へ赴くとなると酷かった。言葉での棘はないが、任務明け、不機嫌をあからさまに全身へ乗せた五条と顔を合わせるのは重荷ですらあった。そのくせ、嫉妬などという至極人間的な衝動に駆られ、を抱く彼の生白い頬を下から見上げているとき、安らぎにも似た海がを攫う。五条はやはり人間だったと、呑気にも考えてしまうのだ。
 が同級生と2人連れ立つ姿は、金輪際見られない。同じことが五条の癪に障ることもない。遠慮なくベッドに座った五条に、冷蔵庫に常備しているいちごオレのパックを差し出すと、大きな目がを見上げた。その有無を言わさぬ鋭い青に従い、は彼の横に腰掛けた。
「いつまでもぼうっとしてると、次に死ぬのはさんだ」
 嫌気がするほど甘ったるい液体を吸い込みながら、にべもない五条の言葉に耳を澄ませる。は彼の肩に頭を預け、視線をカーペットに落とした。自分の葬式を想像する。モノクロームの空間、逃げ場なく立ち込める陰鬱な線香のにおい、わずかばかりの参列者。そこに、銀髪で背の高い高校生の姿は果たしてあるのだろうか。
「少しぐらいぼうっとさせてよ。いま五条くんの隣にいる私は、世界一安全なんでしょ?」
 ここ以外では、ときどき、呼吸すら怖くなる瞬間がある。が立つ土台がいつの間にか泥濘に変わり、灰色の海に引き摺りこまれてしまいそうになる。しがみ付く藁はどこにもない。汚濁に飲み込まれて意識を失うその数瞬前、見慣れたうつくしい光が射し込む奇跡だけを願っている。意味のある去り方を選び取れる幸運と権利より、最後に浴びる光が薄青であれば後悔なんてない。
「……俺はあんたの葬式なんて行かない。絶対」
 羽交い締めにされるような勢いで抱きすくめられる。どれだけ力を籠めようと、五条との体の間には必ず隙間が開いてしまうのに。
 息を止める手段としての口付けは、の何もかもを曖昧にはしてくれない。
 交わされる口唇の柔らかさが癖になる。口に出せない言葉を唾液に含ませて、生ぬるい舌でお互いの奥深くを探り合う。の視界の端できれいな青が瞬き、光の鱗粉が舞い、乱れた呼吸の音階が部屋の静寂を急激に塗り替えていく。の首筋を支えていた巨大な手のひらがゆっくりと制服を剥いでいき、用済みとばかりにカーペットへ捨て去った。
 ひとつになんて、なりたくない。は五条になってしまいたい訳じゃない。のまま、五条がその指で操る色彩を見守っていられたらそれで十分なのだ。
 私たち永遠に、分かたれたふたつの珠で在り続けよう。

(19/10/15)