The Eve

 数時間に渡る暇潰しに映画館が最適であることを知ったのは、ちょうど呪術師として働き始めた頃だっただろうか。
 当時の記憶はひどくぼんやりとしている。思い起こせるのは疲労の残り滓ぐらいのもので、細部に至っては水墨画の如く滲み出し、色数を減らしてしまっていた。古いフィルム映画に似ているかもしれない。
 いずれにせよ全て遥か遠くに押しやられた記憶だったが、そのくせとある一瞬が昨日の出来事のように身近な存在として脳裏で再上映されることもある。
 そう。人もまばらな映画館のフロントで濃密なキャラメルの匂いを吸い込んだとき、は唐突に昔を思い出したのだ。普段なら目もくれないはずが、自然と窓口スタッフに注文までしていた。
 巨大なスクリーンの内側では、今夏大流行したラブ・ロマンス映画がいよいよ佳境を迎えようとしている。甘く焦げた匂いに包まれながら、きょう何度目か知れない欠伸に大口を開けた。正直、陳腐とも言えるストーリーだ。美しいブルネットを夜風に靡かせた女優が、結婚間近の恋人へと揺るぎない想いを歌い始める。――彼女ぐらい素直に感情を伝えられたのならば、あるいは私が陥った状況も改善するだろうか? 一瞬、の胸の内に純粋な疑問が沸き上がる。しかし、音痴では到底無理な話だろうと自ずから断じた。物語には美が必要不可欠だろう。
 客席にはただひとりだった。ポップコーンを摘み、派手な咀嚼音を立てる。乾いた指先に纏わり付いたキャラメルフレーバーを舐め取ったとて、不快感をあらわにする他人は誰もいない。
 華やかな歌が終わると共にエンドロールが流れ始めた。しかしポケットにはまだ数枚の鑑賞チケットが残っており、消化し切る頃には当然レイトショーに達していると思われた。日付を越えるまでには帰路に……と考えていたのだが、あの男からの連絡までこの場を動けないのも事実。出張帰りで気怠い全身は今にも柔らかな座席に沈んで溶けてしまいそうだ。ピアノの旋律が眠気を呼び起こす。
 携帯がいよいよ震えたのはそれから2本後の上映中でのことで、珍しくも興味をそそる内容の映画であったにも関わらず、は足早に映画館を立ち去った。
 駅に隣接したモールから一歩踏み出した瞬間、強風が全身を嬲る。犠牲者を今か今かと待ち構えていたかのようだ。想像よりずっと冷たい大気が頬に触れ、おやと思う。やけに寒く感じられるのは、一週間近く西日本にいた所為もあるのだろう。ジャケットの下で腕が震えたが、それはさほど気にはならなかった。
 終電を逃すまいと駆ける人々に紛れて、駅前のロータリーをぐるり見回す。すぐに、見慣れた黒のワゴンが目に入った。フロントガラスに反射する街灯に阻まれ、運転手の顔までは識別できない。まだ名前を呼ぶのは早い気がした。だが、口唇が勝手に震えてしまいそうだ。
 助手席のドアガラスが下がっていく。
。」
 ぬらり、と。薄闇から男の細い顔が現れた。
「五条くん」
 どうにか硬い声を作り出したを、運転席の男は笑ってからかった。一週間半振りに見る顔だった。
「待たせてごめんね、早く乗りなよ。その恰好、見ているだけで僕が風邪引きそうだ」
 ただでさえ光の少ない郊外の夜だというのに、五条悟は闇より暗いサングラスをかけていた。これが常態と分かっていても、いつ見ても胡散臭い出で立ちである。スーツにでも袖を通したら最後、悪徳闇金業者の取り立て人に早変わりしてしまうだろう。
 引いていたスーツケースはトランクに預け、自身は助手席へと乗り込んだ。ゆっくり踏み込まれたアクセルに従い、車が滑らかに走り始める。どこかの道を急ぐ救急車のサイレンが響いていた。
「東京には何時頃戻ってきたの?」
「お昼ぐらい」
「じゃあ、それから今までずうっと?」
 五条は笑い、は眉を寄せた。揶揄をたっぷり含んだ視線を投げられては、癪に触って当然だろう。
「いいの。映画、好きだから」
 の表情に不穏な変化が生じたからか、五条はごめんごめんと中身の伴わない台詞で取って返した。のらりくらりとした立ち振る舞いのせいで、目許を隠していてもなお、常に笑みを浮かべているように見える。
 五条は今日、この府中市近辺で夜まで任務についていた。対するは地方への中期出張を今朝終えたばかりの身で、そのまま直帰するでもなく、五条の任務先にほど近い駅の周辺で半日ほどの自堕落な暇潰しに及んだ。彼が車で移動していたのは事前に聞いていたから、帰りはマンションまで送り届けてもらう腹積もりだった。
 全てがくすんだ薄闇色に塗り替えられる車内で、五条の着ているシャツだけが浮かび上がるように白い。
 狭い密室は直ぐに酸素が薄くなる。物音や声がむやみに篭ってしまうのも考え物だ。
 五条に名前を呼ばれるたび、は腹の底を羽根で撫でられているような居心地の悪さを感じていた。とりとめのない問いや話が運転席から投げかけられてくるものの、最低限の相槌しか返せずにいる体たらくときている。眠気が限界を超えつつあるのだろう。のマンションまでさほど距離が離れている訳ではないから、中途半端に眠ったところで苦痛な寝起きが待ち受けるだけでメリットなどない。
 行き場なく彷徨わせていた視線の端、ハンドルを操る指先を捉えた。
 その武骨な輪郭が、出張中に対峙した光景と交差する。あんな風に呪物を握りながら死んだ人間を数体見た。
 二枚のフィルムと化した過去と現実が重なり、脳に歪なビジョンを作り上げる。の思考は暫しそこで立ち止まってしまう。草いきれのする鬱蒼とした森の奥、体液を一滴もこぼさぬまま、並んで転がっていたふたりの男女。五体満足の死体など久しぶりに見た。都市の裏側でまことしやかに囁かれている呪いの儀式を決行し、事切れたのだ。報告書に淡々と記載されていた。
 彼らは一体どれほどの願いと引き換えに、闇に身を売ったのだろう。
「ねえ、?」
 はっとして顔を上げると、こちらに頭を傾けている五条と目が合った。どうやら交差点で長いこと足止めを食らっているらしい。信号機の灯火が五条の頬に生々しい紅を引いており、は何故か胸の奥がひやりとした。
「ごめん。何の話?」
「特に何かを話してた訳じゃないけど、嫌な感じにぼうっとしてたからね。呼んだんだ」
「だいぶ……眠いみたい」
 はゆっくりと息を吐き出すと、ヘッドレストに後頭部を預けた。閉ざした目蓋越しにすら赤い光が透けて辟易する。曝け出された首筋に、ひやりとしたものが触れた。わずかに乾燥した、思いのほか大きい手のひらと指先――くすぐったさに身を捩る間もなく、すぐに離れていく。目蓋を通り抜ける光が青に切り替わった。
「昔、……高専のころ、映画観に行ったの覚えてる?」
「何、藪から棒に。僕は忘れるほど薄情じゃないよ。B級のホラー映画ね」
 真っ直ぐ前を見据えたまま、五条はすらすらと事実を述べた。
「うん。きょう、映画館にいたとき、あの時のこと思い出してね」
「あれは忘れらんないよ。おまえ、ポップコーンのカップをカーペットに思いっきり落としてさ」
「そうそう。ふふ。おっかしいよね」
 憤慨混じりに笑う五条に釣られてしまい、も腹を抱えた。
 周囲から注ぐ非難の視線の中、散らばったポップコーンをふたりでかき集めた。羞恥に反応し、全身の血液が顔面に集中していく奇妙な感覚を思い出す。制服のスカートにキャラメルフレーバーが沁みついてしまって、帰り道もずっと甘ったるい香りに纏わりつかれていた。
「そういえば、泊まってもいいよね?」
 あと数分でマンションに到着するかというタイミングで、何の気なしに五条が訊いた。は居住まいを正し、視線を窓の向こうに広がる夜闇に投げ出したまま浅く頷いた。嘘を吐いたときのようにはらわたが軋む。
「うん。いいよ。明日は?」
「僕は静岡への任務があるけど。は高専でしょ」
「何か任務が入らない限りは。……ていうか、ご飯買って帰らないとね」
「また冷蔵庫空っぽなの?」
 五条は呆れたように息を漏らした。頻繁に家を空ける身では食料の貯蓄など無駄なだけなのだが、それを彼に説いたとて何にもならないだろう。
「人のこと笑える? そっちだって、似たようなものなのに」
「僕はまだマシ。各地のお土産が山積みだ」
 マンションの駐車場には噎せ返るほどの金木犀の香りが満ちていた。
 全部で十台ほどの余地があるが、今あるのは五条のワゴンとの乗用車だけだ。人口的な煉瓦壁が哀愁を誘う、しかし築浅で面積も十分なこの3階建てのマンションに、現在住んでいるのは一人だけである。
 理由は単純だ。ここは一年前に起こった一家連続殺人事件の現場であり、怪異現象の目撃例が後を絶たず、家賃が都内最低付近まで落ちた曰くつきの物件なのである。誰が好き好んで事故物件に居を構えるというのか。――もっとも、原因となっていた呪霊は当の昔にの手によって密かに取り除かれているのだが。
 出張中の荷物を詰めたスーツケースはいつの間にか五条の手に引かれていた。金木犀の香りをかきわけて、無駄に上背のある後姿がずんずんと進んでいく。その肩幅は巨人めいて広い。
 後を追うの手にはレジ袋だけが握られている。付近のコンビニで買った食料品がわんさと入っているが、果たして今夜、食事の機会は巡ってくるだろうか。は自分の忍耐力を疑問に思った。皮下に走る血管にはもう、浅ましい期待ばかりが流れている。
 今、この建物には、文字通りふたり以外誰もいない。耳に痛いほどの静寂が、階段に、通路に、霜のようにひんやりと降りている。
、」
 二階突き当たりの部屋で立ち止まった五条が、ドアノブを指差して目配せをした。が鍵を開けると、五条は家主よりも先に部屋へ入った。わずかに埃臭い室内が蛍光灯によって白々しく照らされる。
 引っ越したばかりの頃は、赤黒く染まった衣服でキッチンをうろつく女と子供に良く出迎えられたものだ。今となっては何の変哲もない静寂と隙間だらけの空間だけが住人を待ちかねている。
 ぐしゃり。
 手からレジ袋が滑り落ちた音を、は他人事のように聞いた。時計の針が動きを止める。掴まれた手首の接触点から、何年もかけて味わい続けている五条の体温が存在感を伴って染み込んでいる。勢いのままシンクに押し付けられたかと思うと、両手で顎を持ち上げられた。
「まだ眠い?」
 の回答など端から知っているくせに、そうすることがまるで大事な約束事であるかのように、彼は毎度ワンクッションを置く。すべてを見透かされている気がして癪に障るが、その点を予め諦めさえしてしまえば、これほど楽なこともない。
 は首を振る。爪が皮膚に食い込むほど、手のひらを固く握り締めた。
「して。したい。しようよ」
 五条の、色素の薄い髪に指先を伸ばす。その瞬間、の全身に微弱な電気にも似た衝動が走り抜けていく。不足していた燃料を遂に与えられた魂から、透明な言葉がひとつふたつとこぼれ落ちていく。
「触って欲しいし、触りたい。我慢できない」
 気が急いて舌先がもつれてしまった。鼻先が触れ合う距離で笑われれば当然、温い呼気がの口唇を掠めていく。
「普段からこれぐらい素直だと嬉しいんだけど」
 親指が両耳に触れた拍子に、ピアスの軸がわずか揺れ動いた。肩が跳ねてしまう。の体に開いた、至極小さな穴の中で金属が蠢く鈍い感触。それを性感として捉えるには多少以上の困難が伴うはずだが、の心拍数は上がり、血液はふつふつと煮立ち始める。
 最初は額、それも触れるだけ。尖りを帯びた薄い口唇がの皮膚に触れ、哺乳類の毛づくろい染みた慈しみを与えてくる。
 耳朶を掠めた呼吸には隠し切れないノイズが混じっていた。多分、も彼と似たような息を繰り返しているに違いない。視界の端が潤み、体を支配しつつある熱を持て余す。
 の頭部に顔を埋めた五条が、長い腕に力をこめる。身動きひとつできない。ほとんど酸欠に近い状態に陥った上、今度は口唇まで塞がれた。
「ん、………っ、んん」
 脳が左右に振動する。現実と幻想のあわいに広がる海に身を浸しているような、この不可思議な感覚を、今、五条も味わっているのだろうか。初めて触れた日から抱き続けている疑問がまた鎌首をもたげる。
 五条の心中を理解できた試しなど一度としてない。
 巨大と表現してもいいぐらいの手のひらに体をまさぐられ、要求されるがままに舌を伸ばした。柔らかく濡れた感触が絡み付くたび、の体は脱力し、五条との間で生じる摩擦熱ばかりを感じ取ってしまう。
 複雑な思考を構築するだけの余裕は失せた。シンプルな欲求だけが膨張し、脳内を圧迫していく。
「は……ぁ」
 溢れた唾液が口端を汚し、またひとつ、螺子が外れていく。
 ようやく体が離れたかと思えば、は間を開かずして抱えられ、寝室のベッドに転がされた。廊下から細く射し込むキッチンの明かり以外に光源はなく、五条の顔が良く見えない。サイドテーブルに伸ばした手は、あえなく捕まってしまった。
「ライト、点けて」
「はいはい」
 あたたかい、朧な橙が寝室を照らす。男の、くっきりと浮かんだ喉の陰影を眺めながら、は冷え切ったシーツに頬を寄せた。熱い。全身が心臓であるかのように鼓動し、これから波のように繰り返し自分を襲うであろう快楽への渇望が一気に増加する。そしてその激しい波は、他でもない五条悟という男によって寄せられるのだ。
「ッ、あ……う、ああっ」
 剥き出しの腹の上に舌が滑らされた。下腹部を割かれ、かき分けて、現れたなかみを直接愛撫されているかのようだった。耐え切れず、縋る先を求めてシーツに伸ばしたの指に、散らばっていた二人分の衣服が波間にただよう海藻のように絡み付く。毛先が痛んだ五条の髪が、しっとりと汗ばむ内腿を掠めた。
「――っ!」
 したしたと体液を分泌し続ける性器に、指が根本まで入り込んだ。自分でも理解できないレベルの熱が胎に宿っているのを認識した瞬間、は今すぐに泣き喚いてしまいたいほどの幼い衝動に襲われた。
 どうして。どうしてという自分は、こんなにもこの男に反応してしまうのだろう。情けなくなる。哀れみたくなる。祈るように閉ざした目蓋の端から何かが滲み出しそうになるのを、必死に堪えているというのに。
「やだ、ぁ、っあんまり動かさないで、……ぅうっ」
「なんで? このまま一回いってよ。見せて」
 小刻みに震えた願いを、しかし五条は一蹴した。あくまでも優しく指の腹で撫で上げられ、息を吹きかけられただけで、の体は強く収縮した。一瞬の硬直の後やって来た弛緩の中、自分を見下ろす五条と視線が合った。恐ろしいぐらいに凪いだ目。――いつの間に、サングラスを外したのだろう。
「早かったねえ、フラストレーション気味だった?」
「う、るさいなぁ……だって、気持ち良かったんだよ、許してよ」
「あっはは。ホントに素直だ。ね、体起こせる? ほら、こっちきて」
 長い腕に引き起こされ、はベッドの上で五条と向かい合う体勢に変わった。あたたかな喉に誘われるように抱き付けば、耳許ではやはり、呼気だけの笑みが漏れた。
「ねえ、私、……っあ、もう」
「うん。ゆっくりでいいから、腰落として」
 待ち切れずに一息で落としてしまった腰に、痺れるような快感が突き抜けていく。は自分を支える頑健な肩にひっしと抱き付くと、度を越した性感が徐々に落ち着くのを待った。荒い息が狭い寝室に響いている。膨大な熱を孕む肉体がふたつ、今、あやうい境目のもとに繋がり溶けた。
「あっ、ぁ……ん、きもち、い」
 ゆるやかに体を揺すぶると、一度は落ち着いた快感がまた蘇り始めた。どろどろの粘膜と膨らみ切った先端が摩擦し合ってとろけそうなほどの快楽を生む。潤滑剤としての体液が止まることなく溢れ出し、四本の脚をみだらに汚していく。
 溺れていたい。体と時間が許す限り。何度も呼ばれる名前が自分のものだと認識する都度、軽い酩酊にも似たよろこびがの心臓に縄を括り付ける。この世でたったひとりだけが解呪できる、特別な術式を直接付与されている最中。ならばどうか、解かずに永久を貫いて欲しい。
 悟、と掠れた声で呼ぶ。
 長さも温度も質感も知り尽くした腕がを強く抱いた。それが彼の回答だった。だからはもう何も言わない。しがらみで雁字搦めの全身に、言葉と感情をすべて閉じ込めて南京錠をかける。ふたりはいつだってここからもうどこにも行かないし、行こうとしていない。無限の凪などきっと、望むべくもない。お互い以外の場所に生の価値と目的を置いた人間たちなのだから、こんな世界が似合いなのだ。
 の喉奥から高い声が上がった。
 泣いてはだめだ。弱くなってしまう。しかし瞳に浮かび始めてしまった透明の膜が五条の視界にだけは決して入らぬように、はまた、彼の体を強く掻き抱いた。あとはそう。
「もう一回、」
 と可能な限り淡泊につぶやいて、夜の余命を延ばす他にはもう、何も。

(18/10/06)