Serenity

 眠りに落ちていたのは、ほんの一瞬だったと思う。
 おそらく三分にも満たない。
 その僅かな時間に、先ほどまでさんざん触れ合っていた相手が、部屋から忽然と消えていた。
 どこへ行ったのだろう。は寝台に手を付き、上体を起こした。手狭な宿屋の一室、その隅から隅まで、目を凝らして眺め回してみても、カトルの姿は見当たらなかった。ただ、窓際に置かれた瓦斯灯の明かりが、部屋をあたたかなオレンジに染め上げているのみである。
 荷物が置かれたままだから、どこかへ出掛けた訳ではあるまい。さすがに不安に駆られるようなことはないものの、まだ微熱を抱いたままの体が、疼くような渇きを訴えた。
 はしたないな、とは心中で自嘲する。
 大体、この部屋に入るなり、少しの間隙ですら惜しむような勢いで抱き縋ったのは自分だったではないか。それが大体二時間くらい前だろうか。ひと区切りついたあとはいつもこうだ。気恥ずかしさが膨張し、頭がみちみちと軋む。
 年上の矜持って一体なんだったっけ。事を急ぐを窘め、余裕を持って、揶揄混じりに優しい愛撫をもたらしてくれるのは、いつだってカトルの方ではないか。頭が痛い。思わず、生ぬるいシーツにうなだれる。
 かちゃり。
 ドアが開く小さな音を耳にするや否や、は今度こそ勢い良く起き上がった。
「カトル、」
「なんです」
 怪訝そうな顔でを見るカトルの手には、水を満たしたコップが握られていた。
「どこに行ってたの?」
「何をまた。貴方が言ったんじゃないですか。水が欲しいって」
 拍子抜けである。意識を失う前、自分はそんなどうでもいい願いをカトルに伝えていたというのか。
 脳内でひとり反省会を開き始めたをよそに、カトルは寝台へ腰を下ろした。硝子のコップをに差し出しつつ、呆れたような表情を浮かべる。
「もしかして寝てたんですか?」
「ううん、寝てたっていうか。意識を失ってたっていうか……」
「それ、清々しいくらい同義ですよ」
 終わってからさっさと眠れるのはある種の才能かもしれませんよ。余計なひとことが淡々と付け加えられる。場をごまかすように冷えた透明を喉に流したところ、自分の喉が思いのほか渇いていたことに気付いた。
「目が覚めたら君がいなかったから、少しびっくりした」
 ぽろりと本音がこぼれ落ちる。正真正銘、カトルとのふたりだけで、久方ぶりに密室へ閉じ籠ることが出来て、ふたり以外の全部を思考と視界から排除できる濃密な時間をじっくり味わえて、だがその直後に空っぽの部屋でひとり目覚めて。全部が夢だと言われても、疑問を挟む余地がないほど。ひとり。それが単純に恐ろしかったのだと、は結論付けた。
「明日またグランサイファーに戻ると思うと、ちょっとさみしいな。もちろん嬉しいって気持ちもあるけど」
 水を飲み込むたび、言葉を吐き出すたび、頭が透き通っていく。
「…………そうですね」
 じ、と横からの視線を感じて顔を上げる。カトルが、黙したままの口唇を見つめていた。それは意識的な動作というより、ほとんど無意識の仕草に思えた。窓の外で吹く穏やかな風の動きすら耳に届くこの静寂の中で、彼の瞳は何よりも饒舌にへと語りかけてくる。
 刃のように研ぎ澄まされた色。
「目がお喋りだよ。カトル」
 はもうひとくち水を含んでから、ゆっくりと彼に顔を近付けた。親鳥が雛に餌を与える要領だ。粘度のない、さらりとした純粋が、の内側からカトルの内側へと流れ込む。白い喉がふたつ、薄闇の中で同時にごくりと動いた。中身をわずかに残したコップが、カトルの器用な手によって、サイドテーブルへと運ばれていく。
 そうっと伸ばした手でカトルの髪を撫でると、こそばゆいのか、すみれ色の瞳がわずかに細まる。ひとと戯れる猫を彷彿とさせ、微笑ましい。もつれ合い、転がり込んだその先で、すべらかな背に頬を寄せる。くっきり浮かんだ肩甲骨に語りかけるように、はもう一度カトルの名を呼んだ。

(17/05/31)