シガレット・シルエット

 しゃん、しゃらん。
 完全に乾き切った髪にトリートメントを塗っているあいだ、背後ではシャンデラがずうっと鳴いていた。淡い花の香りが脳をうっとりとさせる最中、何度も振り返っては首を傾げたけれど、シャンデラは愛らしい目で私を見つめるばかりだった。空中を漂っては炎を揺らし、実に楽しげに微笑んでいるので、どうやら何かお困りの訳ではないらしい。もしくは、彼の帰りを待ち侘びているのは私だけじゃないってことなのかもしれない。ほんのりと、心の底に温度が広がってゆく。ほどなく、彼は帰ってくるだろう。
 全身の手入れを終えて、寝室へと向かう途中も、すぐ横にはいざないポケモンが浮遊していた。洗濯したばかりの清潔なシーツに勢いよく寝転んではみたものの、入浴後の熱い身体は外の冷気を恋しがっている。おもむくままにベランダへと続く引き戸を開けた瞬間、秋を迎えた世界が全身をくまなく包み、皮膚下に留まった熱を四方に発散させていった。
 目下に広がる木々の海と、遠方に見えるライモンシティから届くネオンの対比に、集中をとらわれる。イッシュ随一の娯楽都市は眠りを知らない。あの光のどこか、その地下に、彼はまだいるのかもしれない。冷たい柵をぎゅうっと掴んで、ぼんやりと考えた。待つ切なさに身をやつし、ため息に逃げること。――うん、これはこれで悪くないよね。
 帰ってきたら、嬉しくてたまらなくなって、私、何をねだるか分からない。数時間の不在でこれなのだ、彼が帰宅できない夜を迎えたらいったいどうするつもりなのか。もともと不規則で、たくさんの時間を取られる仕事に就いているのである。安らいだ顔を見て会話を交わしたいという可愛らしい気持ちと、ポケモンと紳士に向き合う姿を凛々しいと思う憧憬の気持ちが、この心には隣合わせだ。厄介などっちつかずに挟まれて、苦しくも幸福な息を繰り返すのが、私。
 きゅう。
 いつの間にそばに来たのか、足元でチラーミィが跳ねていた。大きな目が訴えてくる。抱き上げて欲しいのだろう。胸元にあたたかい生き物を抱え込むと、不意にくちびるが寂しくなった。他人のくちびるをいちばん愛している、自分のくちびる。ほどよい温度を保つ室内に一旦戻ると、ノボリさんが使っている書類ケースの引き出し――そのいちばん下に手を伸ばした。探し物は、マットに落ち着いたシルバーカラーが彼らしい、細身のシガレットケース。彼がときどき嗜んでいるたばこに、わずかながら興味があったのだ。
 綺麗に何本も並んでいるなかから一本拝借し、ふたたび外に出た。寒さがこたえたのか、チラーミィはリビングに残ったようだ。お目当てのたばこをいざ咥えたところで、火元の不所持に気付く。きょろきょろと周囲を見回すも、役立ちそうな代物は何ひとつない。どうしようか逡巡しかけたころ、肩を叩く存在があった。とんとん、という軽い調子。ひとではない。振り返った先でニコニコと笑っていたのはシャンデラであった。
「火、くれるの?」
 しゃらんと陽気な一鳴き。任せろとでも言っているのだろうか、心なしか頼りがいのある表情。
 ありがたくお世話になろうとしたら、玄関が開く音がした。玄関からベランダまでは一直線なので、誰が帰ってきたのかは一目で分かる。それに、合鍵を持つ人などひとりだけしかいない。彼だ。
? ただいま帰りまし……何をしているのです?」
 たばこを咥えているので声が出せず、人差し指で口元を示した。すると、きょとんとしていたノボリさんが途端に焦ったようすに変わり、荷物を置くや否や駆け寄ってきたのだ。日頃お目にかかることは少ない焦燥を目の前にして、ほのかに笑ってしまう。なあに、と小首を傾けてみせる。
「いけません」
 そして、口元のたばこが強引に奪われてしまう。くちびるの、フィルターが触れていたぶぶんだけが、乾いていた。
「一本ぐらい、いいと思って」
「たばこは、止めてくださいまし」
「どうして?」
「……身体に毒ですから」
 ならばどうしてあなたは吸うの、と噛み付きたがるくちびるを何とか押し込める。彼が私を心配してくれているのなら、素直に喜んでおくべきなのだ。それに、さっきまで一人きりだった場所に彼がいるというだけで、私は有頂天になりかけている。余計なせりふまで口走ってしまいそうで怖かった。
「もう吸わないよ。ただの興味本位だったから――それ、捨てようか?」
「……いえ。これを捨ててしまうのは、いささか勿体ないですね」
 申し訳なさそうに、歯切れ悪くつぶやいて、つい今まで私のくちびるにあったそれを、ノボリさんは自分のくちびるに持っていった。薄い桃色のあいだに咥えると、わずかに吹いていた風から守るために口元を手で覆い、どこから取り出したのか、銀色のライターで火をともす。たかだか数秒程度だったけれど、一連のしぐさからは紛れもない色っぽさが漂っていて、言葉を忘れてしばし黙り込んでしまう。小さく吸い込まれた息は数秒後に吐き出され、白煙が夜の群青に混じっていく。シンプルに、綺麗だった。
「……あの、ノボリさん」
「はい?」
「間接キスだよ」
「……そうですね。嫌でしたか?」
 全力で首を振って答えたら、ノボリさんは眉根を下げて微笑んだ。それ以上は何も言わず、彼がたばこを楽しむすがたを見つめる。端正な横顔には月光があつらえたように似合う。めずらしい一挙一動を取りのがす訳にはいかないから、じっと、しつこく、視線を一点で固定させる。何としても、今すぐ、不在のあいだに沸いた寂しさを消し去りたいのだ。
 あまり良く見たことのない非日常が、頭のなかをいっぱいいっぱいに満たしてゆく。たばこを扱う人差し指と中指の、ほっそりとした長いラインが流麗。煙を吐き出すとき、小さくすぼめられる薄いくちびる。こちらまで届いてくる、不健全な白煙。すべてに虜になりそうで、いや、もう間違いなく虜になっていて、できることならずっと眺めていたいと思うほどだった。
「たばこ吸うとき、シャンデラに火を点けてもらったことある?」
 何とはなしに問うてみれば、ノボリさんは不思議そうな表情を浮かべた。
「え? はい、何度か。火の加減が難しいようだったので、最近は遠慮していますが」
「ああ、そういう」
 だから、私に火を差し出したシャンデラはとても嬉しそうだったのだ。例えどんな瑣末な物事でも、誰かの役に立つことを喜びとしているポケモンだから。けれど、本来は業火を燃やすほどのちからを所持しているのだし、ライターほどの小規模な火を出すのは調整に苦労しそうである。ノボリさんの配慮はごもっともだったが、知らないところで一筋の寂しさを感じているのであろうシャンデラを思うと、ちょっとだけかわいそうだ。
 そうだ、今度は、ちゃんとあの子に火を点けてもらおう。
 誰に言う訳でもなく、自分の頭だけで約束を作る。ノボリさんの隣で、彼を助け、そして笑うのが、あの子にはいちばん似合うのだ。ほんと、妬けてしまうけれど。

「おかえりなさい、ノボリさん」
 柵に頬杖をついて、思い出したように、言いそびれていた挨拶を口にする。
「ええ。ただいま、
 吸い終えたらしいたばこを、ベランダの片隅に置いてあった灰皿に押し付けながら、彼は優しく微笑んだ。溶けて落ちそうな夜によく似合う、ほろ苦い香りがふわりと舞って、頭を撫でられる。そのまま導かれた先のリビングでくちびるを柔らかく塞がれ、一日じゅう待ち焦がれていた瞬間に、うんと時間をかけて、甘い空気を交換し合う。

 彼が吐き出した煙が、まだ明確なかたちを持って、私のなかを漂っているようだった。

(12/04/14)