ホテル・ロビーのユウウツ

 ロイヤル・ミルクティのグラスに満ちたクラッシュ・アイスはゆっくりと溶け出し始めていて、透明な上澄みの層が徐々に厚みを増していく。黒いストローでグラスのなかみを撹拌しながら、はぼんやりと思考する。待ち人が来るまでに、ミルクティの風味はすっかり薄くなってしまうに違いない。
 高層ビルが林立する湾岸地区においてもひときわ目立つ高級ホテルのロビー、そこに併設されたカフェの一席。吹き抜けの開放的な空間で、客は各々談笑に興じている。
 はそこで、依頼人を待っていた。少々柔らかすぎるソファに腰を沈ませて。つるりとした革ベルトの腕時計は午後三時を指している。かれこれ三十分は待ちぼうけを食らっている計算だ。はてさて、いつ現れることやら。今は他に依頼を受けていないので時間に余裕はあるものの、ただ茫洋と時間を過ごしているのは性格に合わない。しかし依頼がなければ生活基盤が揺らいでしまう。とかく【この商売】は評判がいのちだ。待ち合わせをすっぽかしただけで簡単に悪評が広がる。だから、ただ、待つ。
 待ち侘びた人影がすがたを現したのは、それから二十分が経過したころだった。はホテルのエントランスに視線をやる。オフィス・カジュアルの清潔な服装に身を包んだ女性が、軽く息を切らしながらロビー内を見渡していた。彼女だろう。がすっと手を挙げて合図すると、それに気付いた女性が笑みをほころばせた。
「遅れてしまってごめんなさい。はじめまして。今回はどうぞよろしくお願いします」
 芯の通った声と態度で懇切丁寧に懺悔をされては、文句を口にできるわけもない。は対面席を女性に促すと、さっそく本筋に切り込む。
「それで、依頼というのは?」
 女性は儚げに目を伏せると、ショルダーバックから一枚の写真を取り出した。それを、きちんとネイルケアの施された細い指でテーブルに置く。華やかな笑顔を輝かせる女性の肩を抱く、青年実業家らしき風貌の男性。
 は、女性には聞こえない程度にちいさな溜め息を吐いた。
 持ち込まれる依頼の内容はたいてい同じである。女性が一通りの詳細を話し、用事があるからと場を辞したあとで、はようやくミルクティに口を付けた。薄い。
 事情がどうであれ、自分はただ依頼をこなすのみだ。働かざるもの食うべからず、飲むべからず。
 はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出すと、連絡先を開いて電話をかけた。
「――もしもし、ムラサキ? あのね、お願いがあるんだけど……」



 この世のひとびとが愛して止まないもののひとつ、日曜日。
 休日の賑わいで沸き立つ横浜、その中華街なんて最悪中の最悪に決まっている。どこを見渡しても人、人、人。大通りを埋め尽くし、わらわらと好き勝手にうごめく人の群れ。絶え間なく鼓膜を騒がす雑踏にも、むっとする人いきれにも、いいかげん嫌気が差している。しかしまだ、この繁華街を離れる訳にもいかず――ムラサキは、ハーフフレーム眼鏡の下の瞳を細めた。人混みのすきまを必死に縫うようにして通りを進んでいく。左手をと繋ぎながら。
「……中華街出るみたいだけど、どこまで行くつもりなんだろ」
 は人混みのずっと先の一点を見据えたまま――ムラサキの目からは豆粒ほどにしか捉えられない某カップルにしっかりと焦点を合わせて――ぽつりとつぶやく。
「さあな」
「もう少しゆっくり歩こっか」
 断る理由などない。ムラサキが頷けば、は笑みをほころばせた。繋がれた手にそっとちからが加えられる。
 横浜港の水平線に太陽が沈みつつある今、街には極彩色のネオンがぽつりぽつりと灯り始めた。軒先から漂うあたたかな食べ物のにおいに食欲を刺激されながら、ムラサキとは並んで歩く。哀しいかな、断じてデートなどではない。仕事なのだ。知る人ぞ知る“ハマトラ”の片割れとして探偵業を営むはずのムラサキが、相棒のナイスではない人物――と休日の横浜を歩く理由。至って単純で、彼女の仕事を手伝っているだけ。
 はムラサキの同業者であり、ミニマムホルダーでもある。
 他人と手を繋ぐことを発動条件として、五感が鋭敏化される――それが彼女の“小さな奇跡”だ。
 一見、非常に便利な能力を有していながら、しかし単身では何もできないに等しいは、基本的に誰かと共同で依頼解決に当たる。そのお鉢が回ってくるのはたいていムラサキだ。
 本日、のもとに舞い込んできたのは「浮気調査」。彼女がもっとも得意とする依頼であった。こうしてムラサキを伴い、容疑者である青年を横浜の人混みに紛れて尾行している最中だ。彼は今時の若者にはめずらしい、カジュアル・ブランドものの服装を嫌味なく着こなす、清潔感ある好青年なのだが――隣には過度に華美で露出的なファッションに身を包んだ女性を連れている。他人のことをとやかく言いたくはないが、実に釣り合いの取れていないふたりである。それでも、睦まじげに肩を触れ合わせながら歩く姿だけで、浮気はもうほとんど証明されたようなものだけれど、依頼者には「なるべく決定的な証拠を」と釘を刺されていた。女性と連れ添って歩いている写真を提出したとして、ただの友達だったらどうすると跳ね付けられてしまえば苦労も水の泡。依頼料もおじゃん。容疑者が何か致命的なミスをしでかすまで尾行するというのが、現在の方針だった。
 容疑者とたちのあいだには百メートル以上の距離が開いているものの、能力を用いて五感を研ぎ澄ませたには彼らの会話など筒抜けであったし、すがたを見失うこともない。これぐらいの距離でちょうどよいのだ。
「…あ。石川町のあたり行くみたい」
「そうか」
「この職に就いてからいつも思うんだけど、ひとって見た目によらないって本当だよね。今回の依頼人さんも、ほんとに綺麗なひとで――悩みなんかなさそうなのに」
 ムラサキは心からの同意を示しつつ、引き続きと歩く。たった今、太陽は完全に沈んだが、街は賑わいを増すいっぽうだ。いったいどこからこれほどまでの人間が集まってくるのか。追跡対象のカップルは肩を触れ合わせつつ中華街大通りを左に抜け、石川町駅方面へと向かう。――横浜屈指のラブホテル街へと。
「はー、ほとんど決まりだなあ、これじゃ」
 はほとほと呆れた調子で言ってから、ムラサキの顔を覗き込んだ。
「いつも付き合わせてごめん」
「もう慣れてる。依頼料も折半してるんだ。文句なんてない」
「それならいいんだけど。……あ、そうだ、お礼にご飯作るよ。何がいい?」
「何でも」
「それって世界一困る返答だって分かってる?」
「じゃあグリーンカレーはどうだ」
「パプリカいっぱい入ってるやつね。了解」
 歩を進めるごとに、賑やかで鮮やかだった街並みが徐々に猥雑なものへと変わっていく。野卑できらびやかなネオン広告が渦巻くホテル街。すれ違うのはどれもカップルばかりで、明らかに先程までとは異質な通りだ。は、バックからデジタルカメラを取り出すと、数あるホテルのうちひとつのエントランスに消えていく尾行対象を撮影すると、ふうと肩を下ろした。
「これで大丈夫」
「お疲れ」
「ムラサキもね…。はー、こんなところ来たの久しぶりだよ」
 珍しそうに周囲を見渡して、は感慨深げに言う。当然だ、とムラサキは反応しそうになる。こんないかがわしい通りを頻繁に訪れているのなら、それはそれで問題だ。いっとき離れていた手のひらをふたたび繋ぐ。体温のあたたかさに、ムラサキの瞳がゆるむ。
「そういえば、ムラサキとも入ったことないよね、こういうところって。行ってみる?」
 まるで巨大テーマパークでも前にした幼稚園児みたいに言う。一瞬の沈黙ののち、ムラサキは彼女の額にデコピンを食らわせた。は痛いと笑う。ムラサキの頬はかすかに朱色に染まるけれど、夜闇のうちでは目立たない。
「……ったく、ふざけるのも大概にしろよ」
 ふたりはいかがわしい通りをさっさと抜け出して、パーキングに預けていた車に乗り込んだ。ムラサキが運転し、は助手席だ。キーを差せば、ふたりきりの閉鎖空間に小気味いいエンジン音が響く。
「はあ、つかれた……」
 シートベルトを締めるなり、はぐったりと背もたれに体重を預けてしまった。まるで張り詰めていた糸が切れたよう。彼女の横顔を一瞥し、ムラサキは滑らかな運転を開始する。のミニマム能力はただでさえ疲労し易い。鋭敏化された五感が巨大で繊細なアンテナとなり、大量の情報が引っ切りなしに脳に流れ込んでくる感覚は、想像するだに身震いする。今では自由自在に能力を使いこなすまで至っただが、能力開花当時は相当苦労したらしい。滝のような情報を受容するだけでなく、そこから必要性の高いものだけを選り分けなくてはならないのだ。だから、こうして一仕事終えたあとのはいつも眠そうな目をしている。
「眠ってもいいぞ」
「……ムラサキが運転してくれる車に乗るなんて久しぶりだから、堪能しないともったいない。知ってる? 何かに集中してるときの男のひとって、すっごい色気あるんだよ」
「……」
「あ、照れた。ムラサキが照れた! ナイスにメールしなきゃ」
「いいから寝てろ。それからメールはやめろ。着いたら起こす」
「はーい」
 言うが早いか、はあっという間に眠りに落ちてしまった。規則正しい寝息が聞こえ出すまで十秒もかからない。ムラサキのくちびるに浮かんだ笑みに気付いた人間なんて、きっと、横浜市内には存在しないだろう。



 翌々日、はまた、先日と同じ高級ホテルのロビーにいた。
 相も変わらずロイヤル・ミルクティを飲んでいる。たかだか甘いだけの乳飲料に「ロイヤル」なんて仰々しい単語をくっ付けて堂々としているあたり、このホテルが高級たる所以なのかもしれない、とかなんとか思いながら。
 今回、待ち人は比較的すぐ到着した。きょうはオフなのか、ファッション誌のトップページをそっくりそのまま再現したような、流行の服装で。ハイウエストのスカートをひらりと靡かせつつやって来た依頼人が、に一礼する。
「こんにちは」
「こんにちは。どうぞ掛けてください」
 世間話を交わす間柄でもないので、はさっそく調査結果を提示した。証拠写真と、尾行中目にした対象者の行動について詳細にまとめたレポート。おそらくと同年代であろう依頼人は、長い睫毛を憂いに震わせて、書類に目を通した。他人の恋路に口を出せば馬に蹴られるという先人の言葉に学び、は何も言わない。ただただビジネスライクに報告を進めていく。
 浮気調査の結果報告なんてもの、快いわけがないのだ。哀しげな、もしくは腹立たしげな表情で結果を聞く依頼人の表情などいったい何度見てきたことか! 他人の色恋沙汰、その背後にある傷を探ることで糧を得る自分に落胆しつつも、仕事なのだからしょうがない、という便利な言い訳を用いて自己弁護に走る。
「……ありがとうございました」
 女性は心なしか肩を落とし、書類を手放す。それから彼女は、依頼料の振込期日や一通りの礼だけを口にして、さみしげな背中でホテル・ロビーを後にした。この案件はこれにて終了。ハッピー・エンドなど望むべくもない、ただただ後味が悪い結末ではあったが、にはこれ以上何もできないし、するつもりもない。これから依頼人がどういった人生を送るのか、それは、には与り知らぬこと。できればその未来が輝かしいものであれと願い、気分を切り替える。
 深い、深い、とてつもなく深い溜め息を吐いて、残りのミルクティを一気に飲み干す。取り出した携帯でムラサキに連絡を入れた。リアルタイムでメッセージをやり取りできる、チャットのようなアプリを使う。
『今、終わったよ』
『そうか。ならそっちに向かう』
『了解。気を付けて』
 語尾には無駄にハートマークを付けて送信。ふうと一息吐き、本日二度目の待機タイムとなる。
 ムラサキはすぐにやって来た。は彼と合流し、ロビーをさっさと後にする。地下のパーキングでムラサキの車に乗り込み、シートベルトを締める。タイトな感触。
「ムラサキ、私、行きたいところあるんだけど」
 ムラサキは少し訝し気な表情をしたが、大人しくの要求を飲んだ。車は滑らかな動きで昼下がりの横浜を進んでいく。しばらく走ってから、適当なコイン・パーキングに停車する。
 下車したムラサキを半ば引っ張るようにして、はずんずんと通りを進んで行く。行き先はノーウェアだと勝手に思い込んでいたムラサキだが、進行方向はどうやら石川町方面だとようやく気付いて、あからさまなほどぎょっとした。虚を突かれた。
「……おい、おまえ、まさか」
「そのまさかだよ。いいでしょ?」
「おまえな、ふざけるのも……」
「ふざけてないってば。行きたいの。ムラサキと」
 が強く出るとムラサキは拒否できない。はそれを利用しているのだ。ムラサキも悪い顔はしない。そんな甘えを許し許される関係だから、何もかも受容してしまう。溜め息を吐きながらも、最終的にムラサキはと並んでファッション・ホテルに入っていく。
「うわ、けっこうきれいな部屋もあるんだね。どこにする?」
 問われても、ムラサキには答えが思いつかない。
「どこでもいいから早く選んでくれ……」いたたまれないらしい。早く場を移動したいようだ。
「じゃあ、ここで」
 設置されている数あるパネルのうちひとつを押すと、うきうきと身体を揺らしつつ、はフロントで鍵を受け取った。小窓だけがあるシンプルなフロントで、従業員と直接顔を合わせずに済むのはさすがラブホテルといったところか。
 入った部屋は窓こそないものの広々としており、まるで異国のような雰囲気だ。女性が憧れるロココ調で整えられた内装。キングサイズの天蓋付きベッド、シャワー・ルームへ続く透明のドア……。はとりあえず、ベッドにぼすりと飛び込んだ。その背後でムラサキが再びぎょっとする。
「すっごいね、ベッド。四人ぐらいで寝ても平気そう」
 ベッド端に所在無げに腰かけたムラサキを振り返りつつ、
「……そうだな」
「ちょっとちょっと、せっかく来たんだから楽しもうよ」
「何をだ」
「ええ……対象なんて何でもいいかな。ただ、ムラサキとふたりきりになりたいだけだったから」
「だからノーウェアに行かなかったのか」
「そう。あそこは楽しいし大好きだけど、ふたりにはなれない。それに……仕事が終わったあとは疲れちゃうんだよね。特に浮気調査なんて――ひとの色恋沙汰に首突っ込むの、ほんとは好きじゃないから」
 は起き上がり、もそもそと芋虫みたいに這っていき、ムラサキにぎゅうと抱きついた。いつものカットソーから彼のにおいがして安心する。
「自分がしたいことと、自分ができる仕事って、必ずしもイコールじゃないから辛いよね」
「世の中の大抵のことはそういうふうに出来てる」
「……ムラサキだって、こないだ教育実習生にまでなっちゃったし?」
 のくちびるから、くすくすと笑いがこぼれる。
「ナイスか。ナイスだな。その話の情報源は」
「当たり。……というか、みんなその話で持ち切りだったし」
 はムラサキの腕に絡めていた腕を解くと、ごろりと寝転がった。
「いいなあ、私も見たかった、ムラサキ先生のかっこいいところ。教科は何にしたの?」
「数学」
「うわ、なにそれすっごくエロティック」
「どういう感想なんだそれは……」
 緩い会話の効果で張り詰めた気も緩んだのか、ムラサキもの横に転がった。
「イケメン眼鏡の教育実習生、科目は数学……どこからどう見ても和製ハーレクインの設定みたいだよ」
 は、よその色恋沙汰の傷あとを探す仕事をしたあとで、自らの色恋沙汰に深く溺れていく自身をどこか皮肉混じりに考える。
 それでも今の仕事を辞めようとしないのは、どれほどいびつなかたちであれ他人の人生に関わりたいという欲求の表れなのかもしれない、と思った。

(14/03/10)