fallen

 このままきっと落ちていく。
 深く 深く 塞がれたくちびるは人間的な発話行為など八割がた忘れてしまったようで、掠れて短い息ばかりを口端から漏らすだけの器官に成り下がっていた。促されるがまま口内へと受け入れた他人の舌はどこまでも生温くあくまでも怪しげな動作での舌にからみついてくる。腰が抜けてしまいそうになるのを、おとこの長い腕が防いでくれていた。は彼の逞しい二の腕に縋り付き、肺呼吸を忘れ、激しさを増すキスにすべてを注ぎ込み続けた。長い指先におとがいを持ち上げられる。ふたりぶんの唾液が混ざり合った結果の体液がこぼれて伝い、の顎にみじかい軌跡を引いていく。その透明でさえも拭い去るのがおとこの舌の役目だった。渇き切ったふたりにはわずかな間隙でさえも惜しい。まるで三秒後の未来さえ初めから存在していないよう。たった今、この瞬間しか所有できない、つがいの生きもの。は目蓋を下ろしたまま、からだを忙しく這い回るおとこの手のひらに酔った。薄いブラウス越しに感じる壁の堅い感触と、からだの前面から与えられるくちづけのやわい熱が混ざり合い、からだの深奥に渦を巻く。
「ん、ん…っ、あ、」
 手荒に引き上げられたスーツスカートの下、おおきな手のひらが、まるで蜘蛛のごとく侵入する。薄っぺらいナイロン・ストッキングのみを防護壁とした腿の柔さを堪能するように、ゆっくりと撫で上げられてしまう。の背筋にはぞくぞくとしたものが駆け上がった。内腿がわずかにふるえてくる。を暴くおとこの手のひらは焦らしの何たるかを熟知していた。脚の付け根、際までをじっとり撫で上げたかと思うと、そのままするすると降下していく動作をくりかえす。焦りが生まれる。くるしい。ひどく、くるしい。耐え兼ねて、こちらからキスを仕掛けることでその先を強請ってみるのに、おとこは素知らぬ顔での腿だけを嬲る。奥の奥、渇くこころとは裏腹にうるおいばかりが蓄積されていく核には、ぷいと、知らんぷり。
 もっと触れて欲しい。後戻りのできない場所にまで連れていって欲しい。はしずくの滲む目を細めると、ちからなくおとこの腕に添えていただけの手のひらを、ためらいがちに脚のあいだへと伸ばす。うごめくおとこの手の甲に、じぶんのそれを重ねて、ぐいと手繰り寄せる。お願いだから、と瞳の色で訴える。の耳許で、獰猛な生きものが、みじかい息だけで、わらった。
「……っ!」
 そしていとも簡単に落ちてしまった。
 次の瞬間にはそばのベッドに転がされており、シーツの冷温をまともに受けたからだが大きくふるえてしまう。見上げたおとこの表情にあるのは膨張し切った欲望のぎらつきで、その鋭さがまた、の髄を強く穿つ。袋小路に追い詰められた獲物の気分とは正にこのことだろう。からめた視線が外せない。おとこの眼光はまるで鎖のような強度を持ち、の自由を根こそぎ奪い去っていく。交わす言葉はなく、ただ見つめ合っているだけだというのに、一歩まちがえば簡単に気を違えてしまいそう。
 いっさいの身動きを忘れたの熱い喉に、つい、と。おとこの手のひらが伸ばされた。長く、そして病熱を孕んだ指が、薄い肌の表面を数度撫でさすった。その気になれば簡単にのいのちなど潰せてしまう彼の状況。外せない視線、眼球だけで交わす意思疎通。倒錯したよろこびが脳髄に広がっていく。そうしてやって来たのはの絶命ではなく、ふたたびの酸欠状態だった。おとこの黒髪がの額を掠った。彼の首に両腕を回し、飽きることもなく、舌とくちびるの応酬にすべてを費やす。やわいくちびるでやわいくちびるを愛撫する。煙草の残滓を纏わせた苦い舌を満足いくまで味わい尽くす。
「……あ、」
 ふいに、おとこがの舌を、食んだ。背筋に電流が走る。例えばこのままおとこが顎にちからを入れたのなら。いのちひとつ、いとも簡単に散らされてしまう。けれどおとこの内にそんな選択肢は存在しない。代わりといってはずいぶんライトになるが、彼はのブラウスに手をかけた。上から順にボタンをすべて外し、てきぱきと脱がせていく。ずいぶんと手際がよく、流れを中断せぬままに下着のホックも外された。はおとこの手許をぼんやりと眺める。親のように甲斐甲斐しい、けれど、一連の行為は料理の下ごしらえを彷彿とさせた。魚を焼くために、はらわたを掻き出す。うろこを剥ぐ。肉の臭味を取るために、熱湯で湯がく。氷水に浸ける。すべては至高の一瞬のために。
 ずるずると、されるがままに落とされていく。
 上半身の衣類が取り払われ、次におとこはスーツスカートのベルトへと手を伸ばしてきた。するりと器用に抜かれたレザーベルトはベッド下へと放り投げられる。金属部が床にこつりと当たる音さえも、には明瞭に聞こえた。この部屋には、重なるふたつの息以外、音がない。静寂なる密室。ストッキングごとショーツを脱がされると、一気に心許ない気分に襲われた。何も纏わない、ほんとうの意味で無防備なすがた。そこに力強く伸し掛かる男は、シンプルなスーツを……白と黒を、身に纏っていて。
 彼の名前を呼ぼうとしたが細く目蓋を開けば、ほうら。
 ――狡噛慎也が青藍のまなざしでじぶんを見下ろしている。

監視官、」

 低く 低く 鼓膜をふるわせる音階で、名前を呼ばれた。
 聞き慣れた声が、を夢から現実へと引き摺り上げたのだった。
 は、ゆっくりと瞬きをひとつ。瞳の焦点を、じぶんをやわらかなベッドに組み敷くおとこへと合わせた。
 そこにいるのは、当然のことながら、東金朔夜だった。
「……なに?」
 じぶんでも笑えてしまうほど、返答にはちからがない。当然だ、東金の手によってぐずぐずになるまで糸を解かれたからだに余力など残されているわけがなかった。それでも何とか持ち上げた手のひらで、おとこの、つくりもの染みた象牙色の頬に触れる。ごく薄い上くちびるに親指の爪を引っかけてみると、指の腹を生温い吐息がくすぐった。
「随分お疲れのようですが」
「うん、だいぶ、疲れたかな」
「それでいてまだ、不満気だ」
 東金の口端に鈍色の笑みが混じる。も少し、笑った。彼の言葉は正しい。この期に及んで尚、は満足感を得ていない。おとこによって惜しみなく与えられた悦は確かにのからだを震わせ、声帯を疲弊させ、涙を零させた。それは間違いない。けれど興味深いことに、渇きは悪化するばかりだった。もっともっとと際限を知らない要求が胸の奥から溢れ出す。は東金の首に腕を回した。濃厚な煙草の残り香が鼻腔をくすぐる。には馴染みのあり過ぎるにおい。このままふたたび目蓋を閉じたのならきっと、さきほどの夢の続きを得られる予感がした。けれど東金がそれを許すはずなどないのだ。だらしなくうるおった膣にゆっくりと差し入れられた指先が、お約束のスポットを優しくあやす。下腹部から全身へとじんわり広がりはじめた快感に、一度は落ち着いたはずの息がまた上がった。
「あ、ッ、もう、ううっ」
「こちらとしては、何が不満なのか、口で言っていただけると助かるんですがね。対処の仕様がありませんから」
 内部でくすぶる熱を執拗に嬲られながら、駄目押しとばかりに親指の腹で核に触れられてしまう。直接的な刺激を受けてしまえば、すっかり慣らされたの思考回路はまたしても快感のチャンネルへと切り替わる。もうずっとこればかりだ。延々、舌と指だけで繰り返される、決して最後までは到達しない性行為。趣味の悪いままごとを真剣に続ける東金も、それを受容し、あまつさえ渇望しているも。どちらも倒錯のメーターは限界まで振り切っている。
 監視官を務めて長いが、こんなふうに東金の宿舎で素肌のまじわりを持つようになったのは、刑事課二係の青柳璃彩が殉職したのがきっかけだ。不思議だった。狡噛慎也が逃亡、消息を絶った一年半前の衝撃よりも、は璃彩の喪失にこそ痛手を負っていた。たましいのつがいと別離したあの黎明より、長年同僚として助け合ってきた友人の死のほうがよっぽど堪えただなんて。
 というのも、狡噛がどこかで生き延びているのでは、とが考えている所為かもしれなかった。狡噛に関してはまだ縋れる希望があったのだ。けれど璃彩はまったく異なる。あの日、あのとき、のすぐそばで、彼女は――。
 代替できない欠落を増やしていく日々の連続こそ、監視官職の真実であるのかもしれない。
 そして何よりその状況への忍耐力が問われる。どんな場合でも社会の維持、国民の安寧を第一に優先できるか否か。そういう意味に於いてなら、もともと正義感の強いはまさしく監視官向きだったと断言できるだろう。常守朱のように、まっとうな正義を貴ぶ人間。けれどは朱ほど強靭にはなれ切れない。どこか、甘い、のだ。現在、犯罪係数の悪化こそ回避されているが、色相はゆるやかに曇り、危ういところでようやっと回復するという綱渡りを続けている。
 弱体化しつつあったの前に現れたのが、どこか「あのおとこ」との相似を持つ東金だったこと。
 それがきっと、致命的な墜落要因だった。
「……っ、お願いだから、もう、」
「もう?」
「最後まで、」
 どうせ落下するなら、一気に底まで目指すほうがずっと楽だ。中途半端はただの拷問に近い。
「最後まで、私を、」
 は東金朔夜の肩に縋る――狡噛慎也にそうしたように。
 は東金朔夜のくちびるを受ける――狡噛慎也にそうされたように。
 は東金朔夜に焦がれる――?
 ……いや、きっと、それだけは。
「例えばここで俺があなたに押し入ったとしましょう。けれどあなたは何も変わりませんよ。あなたを唯一傷つけられる人間は、今の公安局には存在しないんですから。だったらこのほうがいい。あなたは聡明で優秀な監視官ですが……ご存じではないでしょうね」
 何が彼の気をそそるのか、東金は実に楽しそうに笑った。
「殺さないことによって殺すよりもずっと苦しませる拷問方法も、あるんですよ」
 が返事に窮しているあいだに、東金はそっと身を引いた。そのままの脚を割り開いて、あらわになった腿へと強く吸い付いてくる。びくん、との背が大げさに跳ねた。這わされた舌先の赤さは毒蛇の風情を携えて、こちらの領域を侵してくる。心臓さえもが痛みを訴え始めた。逃れようという一心で反射的に暴れる脚を力強い手のひらで押さえ込まれ、何ひとつ傷あとなどない内腿に、
「い、ッ! …た、い」
 歯が、立てられた。
 なんて原始的な攻撃だろう。理性的な思考がほとんど不可能になっている頭で、は薄ぼんやりと感じる。遠慮なく突き立てられた歯は、腿の皮膚を軽く抉り、赤い血を滲ませ始めているであろうこと。東金が薄い笑みを絶やさず、このまま行為を継続させるであろうこと。鈍い痛みを受けたからだには涙が滲む。けれど、それもまた、懲りもせずねっとりと滑り込んできた指先で曖昧になってしまう。泣けばいいのか、叫べばいいのか。判断が付きかねる。ただ、つくられて数分も経たない傷あと上に遠慮なく舌を這わされる――生まれて初めての鮮やかな経験に、細かいふるえが止まらない。東金はいったいどんな心境で赤い体液を吸い上げているのだろう。まるで想像がつかない。
「い、たい……って、ば」
 はシーツに爪を立て、非難の視線を東金へと投げた。けれど彼は一瞥をくれただけで、すぐに内腿へと舌をさまよわせはじめる。ふらふらと右手を伸ばせば、東金が空いている左手をするりと絡めてきた。触れ合う箇所からぞくりと鳥肌が立つ。東金の手首で、シンプルに洗練されたカフスボタンのしろがねがきらめいて光った。まっさらな状態のとは裏腹に、東金は三つ揃いのスーツをきちんと身に付けたままだった。ジャケットだけは丁寧にカウチの背へ掛けられている。彼の寝室はすべて中世趣味の内装で整えられており、現実感などこれっぽっちも漂っていない。アンティークらしきサイドランプだけに薄く照らし上げられた密室で、今など忘れて過去を追体験しよう。簡単だ、瞳を閉じればいい。紫煙のにおいが沈み込んだ空間にいて、が思い描ける人間などたったひとりしかいない。東金とからめたままの指先にちからが入る。あのひとの指も、こんなふうに、にからまったはず。
「………あ、あぁっ」
 決して痛みだけではない感覚が、脳を染め替えはじめる。思わず喉を反らした。おとこの熱い舌が、それよりも更に熱い体液をねぶり、遠慮なく啜っていく。細やかに蠕動する内部の粘膜を指の腹でやわくいたぶりながら、真っ赤な箇所に、軽く吸い付いてくる。のすべてを把握した上で施される愛撫の緩急が、残りわずかな理性までをも残酷に刈り取っていく。野蛮だ。そして非道だ。おとこの、すべては、からからに渇いている。には決して理解の及ばない、狂的なひたむきさによって。
 その衝動はの脳裏にもっとも甘やかな記憶を色鮮やかによみがえらせてしまう。
「俺が染めるまでもない」
「既に黒い存在なんです」
 はくはくと短い息を繰り返すの耳許で、おとこがそうっとささやいた。眼裏に浮かび上がるのは唯一無二のつがい。幻影に縋るため伸ばされた腕が確かな人間を包み込む。ふたつの輪郭は音もなく重なり、数秒ののちにひとつの輪郭を描いた。そしてはまたおとこの手によって落とされるのだ、名前のない罪悪の奥底まで。

(14/11/12)