River of Crystals

 は雨を愛している。だが、今日のそれは皮膚に貼り付くような長雨だった。昨夜から降り出し、明けて午後を過ぎた今もなお東京を濡らし続けている8月の雨は、茹だるような気温も相まって都民に重い不快感を与えていた。悪天候はエリアストレス悪化に直結する。お陰さまで東京全域に渡り、通常時よりも高い値をキープしている始末だった。
 監視官車両のフロントガラスに大きな雨粒の軌跡がいくつも走っていく。運転自体は車両搭載AIに任せているので、全身を覆う疲労のまま眠ってしまっても問題ないのだが、目蓋が重くならない。何せさっき事件現場で浴びた血液の粘ついたにおいが全身から立ち上っていて、気分が重いのだ。現場で簡単に拭いはしたが、やはり生臭さをすべて取り除くのは不可能に近い。公安局に戻り次第、シャワールームへ駆け込むつもりではある。鼻腔の奥でくすぶる有機的な悪臭。何度経験しようとも、根本的に慣れることはない。
 車両は滑らかに環状道路をすり抜け、あと十分もすれば局へ到着するだろうという段階に来ていた。は車窓の外を漫然と眺めた。常であれば清潔な都市を完璧に彩るはずのホロ・イルミネーションだが、雨天下ではただの木偶と化してしまう。大気中の水分が邪魔をして、ホロの投射が難しくなるのだ。見下ろす街並みは今、本来の痘痕を衆目に晒している。摩天楼は重苦しい灰色に染まり、降り注ぐ雨が陰鬱な空気に拍車を掛けている。東京の頭上を覆う分厚い雲はまだ過ぎ去る気配を見せない。明日の夜明けまで、しぶとく降り続くそうだ。


 執行官ひとりひとりに与えられた宿舎は一見すると広々とした印象を受けるが、その実ただの監獄である。窓がないだけでも圧迫感が生まれるというのに、内装ホロを切っているから余計に殺風景だ。煉瓦とコンクリートの内壁は、古い映画に登場する外国の車庫を思い出させる。天井のシーリングファンはきょうもやる気がなさそうに空気をかき混ぜていた。
 今日はもう一度清めたはずなのに、はまだ納得できなかった。白煙に沈んだ執行官宿舎に足を踏み入れ、自分に伸ばされた逞しい腕をいったんは歓迎したのだが、微かな躊躇いが勝り、待ったをかけてしまう。のか細い喉を撫で擦っていた狡噛慎也は僅かに目を丸くしたが、直ぐにあっさりと手を放した。
 手狭な脱衣所でスカートスーツを脱ぎ捨て、シャワーコックを思い切り捻る。湯の大雨を全身に浴びれば、自分が消毒されたような気分に変われる。もう血のにおいは残存していないと信じよう。浴室を出てリビング・スペースに戻ると、狡噛はくすんだ青のソファで文庫本を読んでいた。いつも通りの仏頂面。とてもではないが、女がシャワーから戻って来るのを待つ男の横顔ではない。だが、彼らしいと言えば彼らしかった。
 テーブルの灰皿には、まだ細い白煙を立ち上らせた煙草が一本ぞんざいに置かれている。隣に腰を下ろすと、狡噛は本を閉じ、に一瞥を落とした。
「血の臭いを気にしたんだろ」
「……バレてた?」
「派手に浴びてたからな」
 今日の現場が脳裏にフラッシュバックする。狡噛が現行犯へ放ったエリミネーター。内部から爆発した犯人の体液は、まるで火山から噴出したマグマのように、周囲を囲む刑事課の人員へと襲いかかった。執行官と監視官なら未だしも、一般市民が目撃したら一発でメンタルケア施設送りの憂き目に遭うだろう、悲惨過ぎる光景。
 苦いため息がの口から漏れた。
 逞しい腕に思い切り寄りかかると、煙草のにおいが濃度を増す。胸いっぱい吸い込む空気は決して新鮮ではないのに、それでもは暴力的なまでの安堵を覚えてしまう。ともすれば直ぐに眠りについてしまえそうなほど。だが、今は睡眠よりも優先したい欲があった。
「触ってもいい?」
 好きにしろ、と言わんばかりに、狡噛はに体を傾けた。誘われるまま、手を伸ばす。くっきり浮かび上がった喉の隆起を手のひらで確かめて、次は頬の温もりへ。無駄な肉のない輪郭をなぞりつつ、視線は薄い口唇へ釘付けになってしまう。視線がぶつかれば、視界が陰り出す。きっとの目は濡れてしまっている。そっと目蓋を下ろした。
 彼がに触れ、が彼に触れるとき、それ以外にはもう何も認識できない。正も誤も法も過ちもない。ただひとつの対象に思考が占領された状態は、確かに危うさも孕んでいるのだが、何せそのときのは必死なので、客観視など端から持ち得ない。今日の現場でまだ5歳の子どもが犠牲になったことも、その犯人が父親だったことも、あらゆる艱難辛苦はすべて向こう岸の出来事として分別され、意識の舞台に上がらないのだ。狡噛以外のすべてを、忘れていられた。対する狡噛が何を思い、感じているのか、には分からない。が、問う心積もりもなかった。
 狡噛はきちんとベッドの上でを抱いた。も彼を懇切丁寧に抱いた。脱がされたシャツは床に落ち、アイロンをかけなければ直らない皺を作った。下着はアルマジロのように丸まり、ベッドの片隅で不貞腐れている。
 荒れた呼吸を整えて、狡噛が煙草に手を伸ばすのを横目で眺めた。長く、皮下の骨の存在がありありと分かる指先が、細い煙草をつまむ蠱惑的な動作。不意にも真似をしてみたくなって、煙草の小箱を掴み上げた。
「おい、」
 言葉では咎めつつも、狡噛は結局、が興味本位で選んだ愚行を傍観していた。差し出された火でフィルターの先端を燃やす。覚束ない、まるで初めて靴ひもを結ぶ子どものような動作で白煙を吸い込んでみるが、加減が分からず肺の奥深くまで受け入れてしまい、勢いよく咳き込んでしまった。想像よりずっと苦しい。何も纏わない背に、大きな手が回る。やっとのことで落ち着きを得たは、恨みがましい目で隣の男を見た。
「何も笑わなくても」
「だから止めろと言ったんだ。お前には似合わないな」
 指に挟んだままだったの煙草を、狡噛が攫っていく。にとっては既に用済みのそれを、代わりに彼が消費してくれた。白いフィルターが、ふたりぶんの唾液で微かに湿っている。煙草一本分の沈黙が心地よい。
 執行官には喫煙者が多い。分かりやすいドロップアウトの印だからな、というようなニュアンスの発言を、以前、刑事課一係にいた男から聞いた覚えがある。狡噛はその男と同じ銘柄を吸っている。厳密に言えば、その男が好んだ銘柄しか、狡噛は肺腑に受け入れない。狡噛をとある限界点へ縛り続けるあの男に、はきっと、生涯勝てやしないのだろう。そう理解している。
 気怠い足で温いシーツを蹴った拍子に、狡噛の足に触れた。何度触れ合おうとも飢えるばかりで満足を知らないこの身体は、若いのか、ふしだらなのか、それとも満腹中枢が狂ってしまっているのか。
 大人しくに押し倒された狡噛だが、その瞳の奥だけは冴え冴えと蒼く、反抗的だった。は胸の奥がつかえる思いがした。ゆっくりと上体を倒し、僅かに腫れた口唇を塞ぐ。目蓋は、礼儀正しく、閉じている。柔らかい器官が睦み始め、数センチの距離で交じり合った吐息が扇情的な大気を形作る。の頬に垂れる長い髪を、狡噛の指がかき上げる。半分だけ瞳を開ければ、溶け合いそうな距離で視線が絡んだ。
「…………」
 このまま、先ほどよりもずっと滅茶苦茶に、彼の手によって自分のすべてを暴かれ果ててしまいたい。目、口唇、舌、手、性器、果ては指先に至るまで、を構成する器官すべてを、狡噛慎也の目前に曝されてしまいたい。彼ならそれが可能だった。そして、彼はの望みを知っていた。吸い付く口唇がそれを告げている。硬い歯で下唇を柔く食まれ、の背筋に電流が駆け抜けた。狡噛の肩を掴む手に、知らず知らず力が入る。爪を立てるのは、もう少し待とう。
 背中に二本の腕が回った。冷たい異物の感触がある。狡噛が死ぬまで、もしくは猟犬の立場をやめるまで決して外れることのない、執行官デバイスという名の手錠。ちょうど左手首の位置にある。再び熱を帯び始めた肌を掠めるたび、氷のような冷たさがを震わせた。決してひとつになれない歯痒さは欲情にブーストをかける。禁じられた果実に手を伸ばすのは人間の悪癖だろう。の目前、ふるりと熟れた果実は今にも芳醇な果汁を滴らせようとしていて、喉が鳴ってしまう。
 は遂にシーツへと組み敷かれた。目の焦点は狡噛に。灰色の天井は滲んでぼやけてしまう。
 息さえ奪わずにはいられない、そんな後先考えない激しさで繰り返されるキスが、は本当に好きだった。想い合う相手に求められる満足感が全身を駆け巡り、単純な衝動だけが頭を埋め尽くす。こんなにも純粋に、ひたむきに、目の前の他人を求めている。は時々そんな自分に呆れてしまうのだった。一体いつからだったか。この男の目の奥に澄んだ青が息づいている儚さを知り、守りたい、などと妙に全うな願いを抱くようになったのは。
 狡噛の舌は苦い。煙草を吸い続けてきた影響だろうか。は彼の舌しか知らない。比較対象を持たないので、他人がどうなのかは分からない。だが、こんなにも安堵する。まだ雨は止んでいないのだろうか。朝まで降り続けるのだろうか。なら、それまではこの狭いベッドの中で、慣れた体温に甘えていたい。触れ合う箇所に生じる体温だけが、ふたりが持てる唯一の合言葉だった。

 ――ここは静かであたたかだ。
 ――もう、どこにも行きたくはない。

 狼の温かい胸に頬を寄せる。
 狡噛が生きている証たる鼓動だけが聞こえる。
 左手首の監視官用デバイスに視線を落とせば、いつの間にか日付が変わっている。誰にも聞こえようのない音量で、は祝言を囁いた。
 緩やかに死にゆく命が二つ、並んでいる。
 生まれて生きていてくれて、ありがとう。

(16/08/16)