Free White

 ひとは何にでもなれてしまう。
 ――ひとは、何にでも、慣れてしまう。
 この数か月というもの、私は日々その事実を痛感し続けていた。生まれた地を遠く離れ、文字通り命からがら辿り着いた海の向こう側には、数えきれないほどの恐怖対象が存在していた。抱え切れない重量の銃器。分厚い肉を一瞬で裂く鉛の弾。乾いて尚こびり付く血の痕跡。耳を劈く叫び声。明けぬのではと思わせるほど長く暗い夜。
 まさに天国から地獄に落とされた者の心地を味わった。私がひとりの人間として生まれ落ち、監視官としての責務を果たしていたあの場所は、一縷のまちがいすらなく、正しく楽園であったのだ。そして、それが過剰なほど消毒されたあとの世界であることも、同時に理解した。
 ここでは生きて、生きて、生きるために生きて。それがすべてで。
 そして私は人間が元来持つ環境順応能力を遺憾なく発揮し、
「――よし」
 こうして、ひとりで銃を鳴かせるまでに至った。
 今やこの指先は引き金にかけるべきちからの加減をすっかり覚え込み、共に海を渡った私のつがいを驚かせたりする。からん、と乾いた金属音を立ててコンクリートに薬莢が落下する。硝煙のにおいが鼻腔を親し気にくすぐっていく。スコープの向こう、ぐらりと揺らいだ人影が無惨に瓦礫へ倒れ込む。スロウモーション。あの負傷では一ヵ月は動けまい。……痛覚を訴える胸の奥は、私がまだ清廉な決意と共に引き金を絞っていたあの頃の記憶を懐かしんでいる。きれいごとで鮮やかないのちを保てるのならそれはどれほど容易でこころ安らぐ世界だろう。
 借りもののライフルを運搬バッグに突っ込み、私は急いでビルの屋上を後にする。強風が横っ面を撫でていった。待機中に無風だったのは幸運としか言えない。
 これほどまでに死を身近に感じる生活は生まれて初めての経験だ。それでも私がここまできちんと息を続けているのはやはり、決して孤独ではないからなのだろう、と思った。



 繁華街、と呼べるかどうかは分からないけれど――それなりに活気はあるオリエンタルな街の、突き抜けて猥雑なバー・カウンターで、私は度の強いカクテルをひとくち煽る。喉をじくりと焼くマルガリータの風味も、今や一日の終わりには欠かせない品のひとつへと昇格していた。
 それはそうと、まったくこの店の内装と言ったら無秩序きわまりない。四方の壁に隙間なく貼られた映画ポスターはまだオールドファッションな趣味を醸し出しているからいいとして、問題は家具だ。店主いわくヨーロッパから取り寄せた年代物らしいカウンターテーブルは基本的に擦過傷だらけであるし、隅にはどう見ても銃痕としか思えない欠落まで口を開いていたりする。しかし極度に薄めたアルコールや危険極まりない料理をサーブしない健全さが珍しく、私も「彼」も頻繁に利用している場所なのだった。
 カウンターでちびちびとアルコールを舐める私以外にも客はわんさといた。誰も彼も木の根のような腕をした傭兵連中ばかりで、野太い声の談笑は賑やかを通り越して耳に痛い。
 慣れだ。慣れ。それこそ私がここで手に入れた、唯一無二の武器と言ってもよかった。
 爆笑しながらテーブルをちからいっぱい叩く男性など正直ご勘弁願いたいところだし、関わる気は毛頭ない。彼らはみな肌や瞳の色が異なっていた。エネルギッシュで掘りの深い顔付きには一般人とはかけ離れた生のオーラが漲っている。私のような場違い極まりない日本人の小娘に下卑た視線を投げる連中もいるにはいたけれど、彼らが席を立って私の腰に手を伸ばす前に、ナイス・タイミングで待ちびとが現れた。きい、と隣の椅子が引かれる。
「遅くなって悪いな」
 今朝も聞いたはずの声がひどく懐かしく思えるのは何故だろう。私は首を振りつつ、店主にジントニックを頼む狡噛慎也そのひとの横顔を眺めた。見事な上半身の輪郭があらわになる黒のウェアにジャケットを合わせ、下には裾の汚れたワークパンツとショートブーツを履いている。まさしく動きやすい衣服を着用しただけのすがたなのに、荒んだ色気を放つ彼の風貌にはすべてがしっくりと馴染んでいた。何を隠そう、私も似たような恰好である。四肢の動きを制限せず、破れにくく目立たない。シンプル・イズ・ベスト。ファッションなんてあってないようなものだった。
 不意に。異国の陽で焼けて煤けた――それはきっと私にも言えることなのだろうけれど――彼の頬に、指を触れさせようとして、やめる。伸ばしかけた手の先は、皮膚が薄れてささくれを作っていた。仕方がないので、ねぐらに帰り次第クリームでも塗り込んでおこうと思う。
 我がみちゆきの同伴者である狡噛くんはどこか疲弊したような、それでも決して鋭さだけは失わない瞳を瞬かせ、流れるような動作で煙草とライターを取り出した。赤い火が灯されたフィルターから細い白煙が立ち昇る。私も、狡噛くんも、まだあちら側で息をしていたころからずっと慣れ親しんだその銘柄は、この国での長い探索の末ようやく見つけたものだった。地下で細々と流通しており、ちょっとばかり張る値段を抜きにすれば、質はじゅうぶん良かった。
 狡噛くんは喫煙の合間にジントニックを傾けている。一定量のニコチンを摂取してひと段落ついたのか、短くなった煙草をテーブルの灰皿に押し付けると、ふたりのあいだの沈黙を割り開いた。
「で」
「うん」
「今日は何事もなかったのか」
「イエス。なんにもなかった。ご心配ありがとう」
 ぶっきらぼうな優しさが、変わらず嬉しかった。
 昼間、私と狡噛くんはほとんど別行動に赴いている。彼は傭兵連中とつながりを持ち、基本体力にいささかの不具合のある私は過酷な戦闘には向かず、もっぱら場末のバーの店員なんぞをしていたりする。たまに、スナイパーの仕事を受け持つ。ほんとうに、たまに、だ。それも、いのちを殺めなくてはならないほど逼迫した状況に遭遇する可能性が極力少ない、護衛任務の保険程度のようなビジネスに限る。
 スナイパーライフルの扱い方を覚えたのは、もちろん狡噛くんが先だった。次に私が会得した。射撃訓練の最後、五百メートル先に設置された的の中央を見事撃ち抜いた私を一瞥した狡噛くんは、決して笑ってはいなかった。
 私は銃を撃つようにはなったけれど、煙草は吸わない。
「おい、。顔が赤いぞ」
「………もう酔ったのかも。帰る?」
「それはいいが――」
 おもむろに大きな手のひらに触れられておどろく。節くれだった指の感触を頬越しに感じ、思わずうっそりと瞳を閉じてしまいそうになった。次いで狡噛くんの親指がゆっくりと直線を描き、私の鼻頭を掠った、瞬間。
「いっ、た!?」
 ちいさくも鋭い痛みが走った。
 狡噛くんの口端が上がる。いたずらをしかけたおさなごのように意地悪げだった。私はその表情に動揺を覚えるより先に痛覚の正体を探ろうと、みずからの鼻に人指し指を当てた。なるほど。どうやらいつの間かちいさな擦過傷を拵えていたらしく、かさぶたへと変化する途中の傷あとが指先に乾いた感覚を与えた。日中、コンクリート片でも掠ったのだろうか。気付いても良さそうなものだが、まったくもって身に覚えがない。
「どこで作ってきた、これ」
 吐息混じりに笑われ、………その微笑みがいつもの彼であったので、どうにも毒気を抜かれてしまう。接触は数秒。予想外にあたたかい手のひらが離れていった。カウンターの向こう側より、四十絡みの男店主が「やれやれ」とでも言わんばかりの視線を投げて寄越す。居た堪れなくなって、視線を泳がせた。荒くれた傭兵や見慣れぬ異国人を疎外することも、かと言って過剰に干渉することもなく、ただありのままに見逃してくれるこの店は、どうにもこうにも居心地がよく、ついつい長居をしてしまう。
「……帰ろう、」
 気持ち少し多めのチップを払って、私と狡噛くんは店を後にした。

 確かにこの国は生まれ育った日本とは真正面から異なる。行き交う人々も、彼らのあいだでやり取りされる言葉も、社会を支配し動かすルールも。ただ、それでもやはり感慨深く思うのは、見上げる月と星は日本で眺めたそれと完全に同体であること。あのころ、思い描くだけに留まっていた水平線の向こう側の大地を、今、踏み締めている。不思議な話だ。私はつとめて落とした歩調で、狡噛くんとの帰路を進む。強めのカクテルで火照った肌には夜風がずいぶん心地よく馴染み、ほとんど恒久的にも思える内戦状態に置かれたこの区域に居てさえも、ほんのわずかな安穏をもたらしてくれる。かすかに聞こえる銃声も、とっくに日常の一部と化していた。
 ネズミの尻尾のように細く薄汚れた裏路地を突き進み、どん詰まりのその手前。どう好意的に捉えようとも廃墟にしか思えない、築何年経つのかも定かではない雑居ビルに入った。至る場所にクラックの入った、猫の額よりも狭い階段を昇る。打ちひしがれた外観に反して、なかみは割と整えられているから驚く。けれど、エレベーターは万年故障中だ。
 帰り付くのは三階フロア。出入口はひとつだけである。合皮が剥がれつつあるソファと傷が目立つ硝子テーブル、それから書類棚と本棚が置かれたのみの殺風景なリビングと、ドアを隔てたすぐ隣に寝室が並ぶ。そこには、いささか手狭なセミダブルのベッドが室内中央に鎮座している。
 この部屋を見付けてきたのは狡噛くんだった。ただでさえ朽ち果てつつある路地の、満足に陽も当たらず湿気ばかりが籠もる立地。無価値同前と化したビルの最上階フロアを、オーナーが破格で私たちへと賃貸してくれたのだった。以前は何某かの待機施設だったらしく、隅にはご丁寧にミニ・キッチンとシャワールームまである。日々を暮らすには最低限不足のない、それどころか恵まれているとすら思えるねぐらだった。
「シャワー、先に使っていい?」
「ああ」
「覗いてもいいよ」
 馬鹿か、と言わんばかりの視線が飛んできて、私は腹を抱えた。どうせならいっしょに浴びるかと誘えばよかったのだろうか。あの唐変木が素直に誘惑されてくれる訳もない。が、こちらがおずおずと差し出した許しをみすみす逃すほど生易しいけものでもない。彼は。愚直なほどにまっすぐ、刃でつらぬくように求められたいと、ぼんやり思った。
 じっとりと肌を覆っていた汗をひたすら熱いだけの湯で流し落とす。部屋に戻ると、貧弱な硝子窓の向こう側ではかすかな雨音が響き出していた。毛羽立ったタオルで髪を乱暴に拭いつつ、ソファへ腰を下ろす。隣にいるおとこが、手首に巻いた情報端末を操作している指先を止め、ミネラルウォーターのボトルを差し出してくる。
「ありがと」
 よく冷えた透明を喉の奥に流し込むと、アルコールの余韻がすべて消え去ったように思う。きょうの疲労がからだを包み込んでいく。自然、目蓋が重みを増す。脳裏によみがえる、引き金にかけた指先の感触。まだ私が完璧には解さない英語で口汚く何かを罵るバーの顔触れ。……そういえば、驚愕すべきことに。狡噛慎也は、この国でもっとも広く使用されている英語を、難なくマスターしてしまったようだった。はじめは果物ひとつ満足に買えない未熟者ふたりであったのに、いつの間にか先を歩いている。まったく憎らしいほど覚えのいいおとこだ。私は発音を今一つ掴み切れずにいて、まだまだ日常会話もたどたどしい。必要最低限のコミュニケーションはじゅうぶんに交わせるが、英語独特のニュアンスを把握するのはまだ先の話になるだろう。
『その国のことばを覚えるにはその国のこいびとを作るのが手っ取り早い』
 等とどこかの格言を引っ張り出し、狡噛くんの額に皺を寄せさせたのも、今となってはもう数カ月前にさかのぼる話だ。
 未知の言語に浸透し、合わない料理と消化器官の仲人に立ち、街の空気と親密になり、世界に溶け込むように生きはじめている、異邦人。
 人生はどう転ぶか分からない。私は公安局時代よりもなお逞しさの増したつがいの二の腕に頭を預けた。こんな腕をして、相も変わらず読書を嗜好する彼は、何やら仏頂面のまま情報端末のホログラム画面を睨んでいる。就寝の誘いを切り出すタイミングをいまいち図れず、ずるずると雨音を聞いていたら、いつの間にやらうとうとし始めてしまう。

 咎めるように、腿をとんとんと叩かれた。重たいままの目蓋を上げれば、まずいちばんに呆れた表情が目に入る。……髪の毛は少し伸びただろうか。伸びるがままに任せているそうなので、艶のある黒は、やはりハリネズミのように跳ねている。肩は、ひとまわり更に逞しくなってしまった。ただ、その、瞳は。いっとう特別な器官である。私を釘づけにし、この生をずっと引っ張ってくれていた双眸である。この視界がわずかに滲み出すのを、目敏い彼は気付いてしまっただろうか。
「わかった、ちゃんとベッドで寝るから…………代わりに、きょうも、本を読み聞かせてくれる?」
 狡噛愼也は瞳の色だけでうなずく。私は彼の手を取り、ソファに沈めていた腰をゆっくりと上げた。渇きを帯びた横顔を長々と見つめ、心中のみのひとりごとに耽る。
 ……ああ、そうだ。
 いつだってこの凛とした眼を見上げてきたのだ。
 ひとすじの変化も、わずかな後悔を挟む余地すらなく。
 救われたい訳でも、もちろん許されたい訳でもない。
 ただ、ここにいたい。
 自分のそばに誰がいて、自分が何を手にしているのか。
 私にとって、今、それ以上に大事な命題なんて、もはやどこにも存在しなかった。

(14/12/30)