Let me disclosure.

 ねえ、これがきっと終わりなのかもしれない。
 は心中でつぶやいた。
 やたらと熱を持つ左脇腹を手で押さえてみると、凄まじい激痛が全身を貫く。あまりの衝撃に危うく気を失いかける。どろりと粘性のある液体が腹から流出していくごとに、生あたたかい水たまりが面積を広げていくごとに、意識が薄らいでいくのが嫌が応にも分かった。
 あさっての方向に転がった青色の傘。コンクリートを流れるの血液と雨水が混じり、奇妙な川を作っていた。徐々に霞み始めた視界の隅にはドミネーターが転がっている。管理者の手を離れた銃はエラーを示す赤い警告色を発していて、濁った夜闇の廃棄区画に妙な現実感を添えていた。
 激しい雨が降り頻る。
 死ぬのかもしれない。
 の思考は真っ白に染まった。何も考えられない――でも。実感として身に迫りつつある終わりを前にして、最後のあがきとばかりに何とか力を振り絞る。手首に巻かれた情報端末を起動させた。手はもうすっかり木偶の棒と化していたが、使用許可保持者であれば音声操作も可能だ。最後の通話記録を呼び出してリダイヤルする。……間の悪いことに耳まで遠くなってきた。聞き慣れた――けれど切羽詰まった叫びで名前を呼ばれたような気がした。最後に見る夢か、はたまた現実か。は掠れた喉でつぶやいた。
 お願い、ここへ来て。
 こんな世の果てのような場所ではなくて、どうせなら。その人の横でなら死んでもいいと思えるのだから。



 湯であたためられた肌のうえに下着を付ける。こわごわと手を伸ばし、そうっと、左脇腹をなぞってみた。心を占める不安に反して、指先の鋭敏な神経にはかすかな凹凸すら感じ取れない。鏡に映った自分の像を、肌理さえ捉えられるほどまじまじと眺めてみても、その肉体にはいっさいの傷が残っていないのだった。夜闇の内、ぎらりと鈍く光った鋭いナイフで二度も突き刺されたはずなのに――。
 が何の事前調査もなしに最新の培養皮膚移植を受けることが出来たのは、公安局職員という立場が少なからず影響したからに違いない。それでも、今はその恩恵が素直にありがたかった。
 は明日、公安局刑事課に復職する。監視官として。
 職務中の怪我という事情もあり、局からは全面的なサポートが惜しみなく与えられた。復職手続きもスムーズに進み、一ヵ月半という長いようで短い休職期間が過ぎ、医者からの許可も得、ようやっと元の位置に帰る段階にまで至った。
 の腹を刺して逃亡を図った犯人は、公安局刑事課が捜査員総出で追跡していた連続殺人事件の第一容疑者だった。
 品川区湾岸に広がる廃棄区画を根城とし、闇に隠れて幾つもの犯罪に手を染め――ひとの生命を奪い続けた容疑者は、そのセンセーショナルな殺害方法以外、驚くほど特徴が掴めない存在だった。彼が一縷の慈悲もなく殺めたひとは世にも無残な姿となって発見されている。一目で明らかに致死量と分かる流血の中、事切れて転がるのは歪な穴だらけの肉体。全身に「死」を纏わせた遺骸。禍々しいほどの最期。
 容疑者を追い詰めるべく、ありとあらゆる手段で鋭意努力を続けた刑事課だったが、常に一歩先を行くのは犯人サイドだった。この街に目を光らせた街頭スキャナには一度もすがたを映さず、足取りがまったく掴めない始末。それでも、彼が手にかけた人間の大半が廃棄区画の浮浪者だったことから、捜索範囲は徐々に狭まっていった。
 また、犯人が使用したとみられる凶器は、奇異なほど長く、そして細いナイフだと検視結果から判明していた。間違いなくオーダーメイドの代物であるらしい。ダメ元ではあるが、該当するナイフを見たことがあるか、変わった刃物を扱う店――間違いなく「こちら側」には出て来ない店だろう――を知っているか、という質問も聞き込みには含まれた。もはや何の手がかりもないと皆が諦めかけたころ、とある浮浪者が気になる話を漏らした。そういえばこのあたりに、ナイフやら何やらの金物を自作して売り捌く奴がいるらしい。しかも、料理などにはてんで使えやしない、妙なかたちのものばかり。
 やっと取っ掛かりを得た捜査本部は、引き続き都内に散在する廃棄区画の捜索へ全力を注いだ。決着が着いたのはあの夜。もはや何度目か知れない、それどころか永遠の様相さえ呈してきた地取りに対し、さすがの一係構成員も痺れを切らしていた。正確な地図の存在しない迷路を歩き回るだけでも骨が折れる。悪天候に見舞われた中、それでも一係の皆は分散し、辛抱強い聞き込みを続けていた。明確な着地点のない捜査活動は体力と気力の両方を奪う。加えて空からは鉛に似た雨が降り注いでいた。寝不足から来る頭痛をやり過ごし、もはや何を生産していたのかすら定かではない工場群とバラック小屋、その隙間を走る細い路地へ入ってみたところ、は。出くわしてしまったのだ。

 黒に落ちて何の輪郭も掴めぬ路地の向こう、ゆらりと立つ男の影。だらんと垂れ下がった右手には鈍くひかる何かが握り締められている。それはやたらと細長い形状の、ナイフ。

 一瞬が命取りになった。
 驚愕で体が硬直した隙を狙われた。あっと身構えたが腰のドミネーターホルダーへ手を伸ばしたときにはもう遅く、男はすぐそばまで距離を詰めていた。何という俊敏性。これっぽっちのためらいすら垣間見せることなく、ナイフでの深いひと突きがを襲った。
 ……そこまで考えて、はわずかに身震いする。これ以上は思い出さないほうが身のためだ。犯人は、があのとき端末で連絡を取った狡噛慎也のドミネーターによって処分された。報告を受けている。犯罪係数320、問答無用のエリミネーターだった。
 は数日のあいだ正と死の境目をさまよった。
 そして病院の無機質なベッドで目を覚ましたとき、ベッド脇にはふたりの同僚が立っていた。宜野座伸元と青柳璃彩。監視官ふたりの心配そうな表情とは裏腹に、は腑抜けたような笑いを浮かべた。生きている。その単純で優しい事実に、どうしようもなく歓喜していたのだ。容赦のない、命を潰すためだけに磨かれたしろがねで貫かれ、意識を失ったあの瞬間、はおさな子のように泣いていた。もう二度とあのひとには会えないという絶望を感じていたから。けれどその闇は振り払われた。もう、それだけでよかったのだ。
 精神的障害が残るのではという医者の懸念も何のその、目覚めてから初めて実施された簡易チェックにおいて、の色相はクリアカラーを保っていた。計測器に表示されていたのは清々しいほどのピンクブロッサムだった。ナイフが穿った歪な傷跡は、皮膚移植によって跡形もなくすがたを消していた。病院に担ぎ込まれた当時、の命をこちら側へ繋ぎ止めたのは、この国の医療現場が誇る最新ナノテクマシンだった。
 心身ともに文字通りの健康。監視官復帰に何ら問題はないと上層部も判断し、とりあえず一安心だ。
 あと一晩、今夜が尽きれば、またはあの場所に戻る。少しでも間違えば命を失う可能性のある、けれど正しさの存在を信じる場所に。ためらいや不安はない。むしろ早く戻りたいのだ。それに、顔が見たかった。狂おしいほど簡単な話、会いたかった。
 そう思えばもう、衝動が止まらなかった。風呂上がりで下着すがただったは適当な衣服に袖を通すと、急ぎ準備をしてマンションを飛び出した。外では、バケツをひっくり返したような雨が降っていた。



 公安局本部ビル、地下駐車場。最低限の照明に照らされるがらんどうの空間を、時折警備ドローンが周回するようすが見受けられる。当然、以外に誰かのすがたなど見当たらない。しんと静寂が広がる空間を、が運転する車のエンジン音が抜けていく。隅に停車させると、手首の端末がちょうど深夜零時を知らせた。かすかに雨音が聞こえている。
 職員用エントランス前には警備ドローンが二台。微動だにせずおのれの職務を果たしている。は彼らのあいだを通り抜け、道を急ぐ。何に追い立てられているわけでもないのに、気持ちと足は逸るばかりだ。
 早く。早く。
 無人の通路に、ローヒールが立てる足音が大げさなほど響いていた。監視官用端末とセキュリティ・システムがリンクしており、何をせずともすべてのドアが開いてくれる。監視官はあらゆる意味で優遇されていて、権限も大きい。こんな時間の入局でも大した問題にはならないだろう。
 駆け足で乗り込んだエレベーターが、ごうんごうんと昇ってゆく。いったい何をしているのだろうと自嘲する。けれど、一度生まれてしまった衝動は、昇華されるまで消えてくれそうにない。気ばかり急いて、久しぶりの公安局本部を懐かしむ余裕もなかった。
 控えめな電子音と共にエレベーターが止まる。
 いつ訪れても、この執行官隔離フロアは妙に静まり返っている。そのくせ、ひっそりとした何かの息づかいを感じてしまう。すぐそこの角に、何か凶暴なけだものが息を潜めているような、そんな錯覚に囚われる。
 目的の部屋まで着くと、はまず一息吐いてから、ゆっくりとインターホンを押した。ややあっても反応がないので、少し気が咎めるとは思いつつも、部屋へ入らせてもらう。
 濃厚な白煙のにおいを嗅いだ瞬間、は何故だか懐かしさに包まれた。たかだか一ヵ月半の空白期間がそれほどまでの虚ろを内部に作り上げていたことに気付いて、どこか呆然とする。
 リビング・スペースに続く階段を降りる。部屋のあるじのすがたはどこにも見受けられなかった。一瞬、不安を覚える。ただ、かすかに、奥からシャワーの水音が聞こえていた。胸を撫で下ろす。ここまで来て不在だなんてシャレにならない。そもそも、彼に行き場なんて……とがぼんやり考えていると、そのひとは急にすがたを現した。
「な、」
 狡噛慎也は、いかにもシャワー上がりといった半裸のかっこうで登場した。階段を降りてくるを認めると、これでもかとばかりにギョッとしてみせる。普段はあまり見ることのできない狡噛の表情に、は出鼻を挫かれた。局までの運転中、どう顔を合わせたものだろうかと悩んでいたのが馬鹿らしい。
「ひさしぶり」
 はただそう言って、手をひらひらと振ってみる。なるべく軽々しく見えるように。対する狡噛は大仰な仕草で肩を落とし、投げやりに溜息を吐いた。肉体のラインが浮き出るデニムを穿いた足で冷蔵庫まで歩いていき、よく冷えたミネラルウォーターで喉をうるおす。は狡噛の広い背中をぼんやり見つめた。ああ、会えたな、などと当然のことを考えて。
「で」
 ものの数十秒で空にしたペットボトルを潰して、狡噛がを振り返る。はまっすぐな瞳に見据えられた。嘘は吐けそうにない。首を傾げてみせた。
「ん?」
「何しに来たんだよ。監視官」
「何って、会いに」
 きょとんとして答えると、狡噛は苦虫を潰したような表情をした。は少し、息をもらす。今は石鹸の清潔なかおりに隠れているが、狡噛は煙草のにおいをしっかり纏わせていた。ほんとうに久しぶりだ。においも、表情も、何もかもが全部。けれどは、まるでゆうべもこうして彼と相まみえた気さえしている。不思議だ。
「おまえ、復職って明日からじゃなかったか」
「正確には。でも、いちおう日付は変わったんだし、いいかなって。こんな夜中に押しかけたのは謝る。ごめんね」
 狡噛は二度目の溜息を吐くと、手に掴んだままだったお約束の白シャツを雑に羽織った。そのまま、くすんだ青のソファへどさりと座る。視線で促され、も隣に腰を下ろした。テーブルに投げ出されていた煙草とライターを引っ掴んだ狡噛が、わずかに眉を寄せる。
「吸ってもかまわないな?」
 ああ、なるほど。そういう。彼とて病み上がりの上司への気遣いぐらいは備えているらしい。は今度こそ声を出して笑った。ひとしきり腹を抱えて、それからまだ憮然としたままの狡噛の腕に、ぽん、と触れた。
「大丈夫。気を遣わせてごめん。こんなに爆笑したって痛くも何ともないもの。それに、もともと心肺機能には問題なかったから」
 細長い毒の嗜好品に火を点ける狡噛のしぐさ。思わず眺めてしまう。立ち昇る紫煙がシーリングファンに吸い込まれていく。は持っていたバッグを手放すと、狡噛から視線を外した。うつむきがちに言葉をつむぐ。
「聞いたよ。私が寝てたとき、宜野座さんとお見舞い来てくれたんだってね。ありがとう」
「ああ」
「主治医に言われたんだ。もう少し担ぎ込まれるのが遅かったら、危なかったって。狡噛くんに連絡取ったのが命綱になったってことだよ。だから、お礼言いたかった。改めて……ありがとね。それから迷惑かけちゃってごめん」
「元はと言えば、俺があのときおまえとはぐれたのが原因だからな。謝らなくていい」
 はかぶりを振る。迷路のような廃棄区画。視界を揺らがす激しい雨。狡噛とがお互いのすがたを見失ったのも仕方がない。ただ、には運が欠けていた。狡噛との合流を目指していたその途中、犯人に出くわしてしまったのだから。誰が悪いという話ではない。終わったことはもうぜんぶ水に洗い流してしまいたい。
 白煙を肺腑に染み込ませたことである程度落ち着きを取り戻したのか、狡噛はぼそりと言った。
「ただ、遺言を残すなら、もっとまともな相手がいたとは思うが」
 上手い返事が、思いつかない。
 は、決して短くはない入院とリハビリ生活中、狡噛に再会したあかつきに伝えたい言葉を考えていた。礼と謝罪。主たるふたつは果たしたものの、それ以外のぶぶんはまだ未着手だった。――会いたかった。死を少し味わった恐怖がまだ頭の底にこびり付いている。ほんとうに、会いたかった。まるでおさな子のような本音を、は喉の一歩手前で堰き止める。すべてをさらけ出してしまうにはまだ踏ん切りがつかない。自分でも意気地がないとは思うが、の矜持はアルコールでも入らなければ揺るがなかった。
 感情は口にしたとたん現実味を帯びてしまう。例えば今、会いたかった、なんて素直な声を出してしまったら、堪えてきたものがすべて溢れ返ってしまいそうでおそろしい。は知らず知らずのうちにこぶしを強く握っていた。そうでもなければ我慢が効かない。一ヵ月半だ。そのあいだずっと、会いたいという切望だけで生きてきたようなものだ。胸の内を直接引っかかれているかのような衝動に、の瞳にうるおいが滲む。苦しい。苦しくてたまらない。別離の時間より、こうしてようやく会えたときのほうがずっと痛い。矛盾だ。どういう仕組みだかは知らないが。
 の辛抱に気付けないほど、狡噛も馬鹿ではなかった。もともと鋭い目を細め、半ばまで吸った煙草を灰皿に押し付ける。
 苦味のある白煙が途切れると同時に、の呼吸は狡噛の腕の中でくぐもった。
「……、え」
 はぱちくりとまばたきをする。自分の置かれた状況を理解するまでには数秒を要した。それから、かすかに震えたままの手を狡噛の背に伸ばす。狡噛の手がの髪を撫ぜ、梳いた。そのぶっきらぼうな手付きにさえ、狂おしいほどのよろこびを感じてしまう。生きていなければ味わえないよろこび。手のひらから断続的に染み渡る体温が、皮膚にスッと馴染んでいく。
 が狡噛に額を寄せた。こつん、と狭いそれらが触れ合う。至近距離で繋がれた視線が熱い。視界なんてぼやけてしまっているのに、何故だかには狡噛の青を帯びた虹彩がはっきり目視できた。
「……あのとき、死ななくてよかった」
 声だけでなく吐息さえも触れ合う距離で打ち明けた本音が、の瞳をじんと熱くさせる。狡噛もまた、の胸の内を丸ごとぜんぶ理解していた。何も言わず、ただ背を撫ぜていてくれる。はしばしあたたかい空間に身をゆだねた。帰ってきた。そう、強く思う。会いたかった。それだけは言えないままに、安寧に浸る。
 ふいに、狡噛がつぶやいた。
「……おまえ、傷はどうした」
「ああ……今の皮膚移植技術ってすごいよね。ほら、何にも残ってない」
 はいったん狡噛から身を離すと、躊躇いなくカットソーを捲った。まっさらな右脇腹があらわになる。狡噛は一瞬真顔になった。それから咎めるように目を細める。
「本当か?」
「うん。私もビックリした。だって、ほんとになんにも残ってないんだよ」
 まるであの夜がぜんぶ嘘っぱちだったみたいに。
 は狡噛の手を取ると、それを自分の右脇腹に触れさせた。「ほら、何ともない」。狡噛は仏頂面のまま、数秒だけの肌に触れた。彼の指先には傷跡の凹凸すら感じ取れなかったことだろう。狡噛はの腹から手を離すと、そのままふたたび、を掻き抱いた。は目を丸くする。余計なものを何も語らない狡噛の、胸の内奥だけに秘められた熱が垣間見えた。渇きを帯びた呼吸がの耳許で響く。その一呼吸で、の内部にはナイフでも作れないほどの深い傷跡が刻まれていくこと。身を以って知っている。
 は狡噛慎也がいなくとも生きていける人間だ。けれどそれはあくまで生命の存続、という意味に於いてのみの話。が一個の人間として芯のある生を続けていくためには、例えどんな汚濁を身に纏わせていたとしても、目の前の存在が必要不可欠だった。それだけは明確な事実だった。
 背筋を抜けた予感がある。きっと離れられはしない。例えばふたり、リードと首輪だけでつながった関係性だったとしても。最後の瞬間がふたりを貫くその黎明まで。きっと、何処にも行けやしない。
煙草のにおいが繊維の奥まで染み付いたシャツに頬を埋め、はもう一度、大きく息を吸い込んだ。
「会いたかった」
 その言葉は、果たしてきちんと声に出せていたのだろうか。張本人であるさえも与り知らないことだった。目の前の存在以外、すべてのものが色褪せてしまう瞬間。誰に言うわけでもなく、は心だけでつぶやいてみる。ねえ、この腕の中で朽ち果てていけるのなら、いっそ。

(14/09/30)