聖域

 シックなモノトーンで色付けされた夢の中で、いつだって彼の姿を幻視する。上等な三つ揃いのスーツに身を包み、懸命に、それでも一筋縄ではいかない職務に懊悩しながら日々を昇華していた彼を。誰よりも真面目で、そして不器用であったがゆえに、彼はおのれの任務に対して正面から向き合おうとしていた。考えてみればそんな背中にこそ、この思いの源泉はあるのかもしれない。にとって狡噛慎也の背中はみちしるべだった。荒々しい海の向こうで絶えず光の道を打ち立てる灯台や、迷いの森で木に刻んだしるしの如く、彷徨い果てたじぶんを力強い力で救い上げてくれる。見ているこちらが気恥ずかしくなるほど直線的なまなざしで、大丈夫か、と肩を揺すぶってくれる。だからじぶんはこんな場所に息づいていられた。手の中で震える方位磁石が指針を探し当てたからだ。
 たどたどしくもいじらしく成長した思いを言動にして伝えたとき、狡噛は驚いたように目をまるくして――それがとても可愛らしくて――ありがとう、と言った。遂に報われた恋の結末はありふれた永遠のにおいに満ちた平穏に違いないのだと、はそう思っていた。半ば盲信していた。
 あの日、あのとき、あの墜落まで。



 今この瞬間まで目前に克明に存在していたはずの夢が、目を開いたときにはもう、四散し滲んで思い出せないだなんて。短い睡眠と長いまぼろしから抜け出たあと、は幾度かまばたきを繰り返し、すぐ隣で眠りについている男の顔を眺めた。壁面にまるく嵌め込まれた間接照明のおぼろな橙が、年齢不相応なほどあどけない面持ちを浮き上がらせている。
「そういえば、ずいぶん可愛い顔で眠るんだよね、このひと」
 の口端がゆるむ。見ていた夢をすっかり忘れてしまったことを除いては完璧な目覚めだった。時間はまだ真夜中を過ぎたころだけれど。からだに回された腕を外すのに苦戦しながらも、嘘のようにあたたかいベッドの中を抜け出す。が着ているパンツスーツには皺が寄ってしまっていた。裸足のまま部屋を出て――その前に、一度だけ振り返る。シーツの中、変わらず穏やかな寝息を立てている狡噛を認めて、ひどく安堵を覚えた。
「やっぱり、可愛いな」
 勝手知ったるシャワールームでからだを清める。肌の表面を消毒していくかのように熱いシャワーが心地よい。髪から滴る水滴を厚手のタオルに吸わせながら、下着すがたで通路を歩いた。ぺたぺたとペンギンに似た足音。目的地は資料部屋だ。煙草の紫煙と鈍色の過去が沈殿して澱と化したその場所に足を踏み入れるたび、は猛烈な疎外感に包まれる。どこか得体の知れない薄暗闇にでも迷い込んでしまったのではと、大げさな不安すら覚えてしまう。
 突き当たりの壁一面に貼り付けられた写真群と事件資料には、三年前の記憶が紛れ込んでいる。
 珍しい、紙にプリントアウトされた一枚。はしばらくそれから目が離せなかった。すっきりと整った三つ揃いのスーツが似合う狡噛の横で、いたずらっ子そのものの笑みを浮かべている、もう、この場にはいないひと。彼、佐々山光留と狡噛は何故か馬が合った。生真面目が服を着て歩いているようだった狡噛と、世のすべてに諦念を覚えながらも目をぎらつかせていた猟犬の佐々山。組み合わせることは不可能だと思われたふたりなのに、不思議だった。は佐々山に軽い嫉妬まで覚えたものだ。笑える話だけれど。
 おい、おまえ狡噛とはどうなんだよ? ――そんなからかい混じりの言葉さえ、今でも明確に思い出せる。
 ぶるりと背が震えたので、洋服掛けに放置されていた白シャツに袖を通す。一見すると細身に見えて実は恰幅がいい狡噛のシャツはただただ大き過ぎて、はまるで服に着られているような気分に陥る。長い袖は三度折り返さなければ手首が出ないけれど、裾は腿の半ばまで隠してくれる。寝間着にはふさわしい。
 さあ、もう一度眠ろう。はゆっくりと踵を返し――ぎょっとした。
「……え、いつの間にいたの」
 扉のそばに狡噛が立っていたのだ。は驚きから息を詰めたが、一瞬後に深々と二酸化炭素を吐き出すと、腕を組んで不満をあらわにする。まるで気が付かなかった。
「今、だな」
 狡噛は少しばかり眠そうに瞬きをしている。襟が曲がっていた。
「すごくびっくりしたんだけど」
「それはオレの台詞だ」
「起きたら私がいなかったから、びっくりしたってこと?」
 はにやにやとして首を傾げてみせる。が、すぐさま狡噛に一蹴されてしまう。
「そうじゃない。そんな恰好で薄暗い部屋にいてみろ、傍から見たらただの幽霊だ」
 辟易とした声音で指摘され、はくちびるを尖らせた。けれど、狡噛の言い分もごもっともだ。はじぶんの格好を眺めてみる。環境によっては白装束の女幽霊に見間違えてもおかしくない。
 は狡噛のもとまで歩み寄ると、そっと手を絡めた。シャワーを浴びたばかりで熱さをはらむの指先と、ひんやりと冷たいもう片方の指先が、嵌め込みパズルのようにしっくりと馴染む。
「幽霊とは失礼な」
「悪い」あくまでも表面だけで、実際のところ何も悪びれていない言葉。は狡噛の脇を小突く。
「悪いって思ってないよね、それ……。あのさ、私、目が覚めたからシャワー浴びてたんだけど、狡噛くんも起きちゃったの?」
「ああ」
「そっか」狡噛の眠りは浅いのだ。それはもよく知っている。
「まだ二時だぞ」
「うん。またすぐ寝るよ」
 狡噛の手を引いたまま、ぺたぺたと歩く。
「ただ、喉が乾いてて……」
 しんと静まり返ったリビングで冷蔵庫を開く。実にあまいクリームのにおいがの鼻腔をくすぐった。同じ銘柄のミネラルウォーターと機能食ばかりが並んだ庫内では、品のあるケーキボックスの存在は場違いでしかなかった。
「さすがにこの時間にケーキはまずいよね」
 狡噛のほうを振り返って問いかけると、彼は壁に寄りかかった体勢で眉を潜めた。
「腹減ってるならそこにゼリー飲料があるだろ」
「こんな味気ないのじゃ嫌だ……けど、しょうがないか。食べるのは我慢する」
 は渋々ミネラルウォーターのボトルを掴んだ。喉の奥に滑り落ちていく、冷え切った無色が気持ちいい。ふと気づくと、狡噛が手を差し出していた。
「はい」
 飲みさしのボトルを手渡す。狡噛はそれを受け取ると胃に流し込むように飲んだ。彼の、喉許の隆起がごくりと動くようすを、は見つめる。じぶんの視点よりいくぶんか高い位置にあるそれが有機的に機能しているさま。男性的な喉、鎖骨の隆起……おいしそうだ、と思う。
 ――空になったペットボトルが狡噛の手によって潰される非情な音。
 は、狡噛の首に飛び付いた。
「……おい」
 狡噛は大して驚きもしなかったようだ。怪訝そうに目を細めつつも、しかし、引っ付いてきたの腰を支える。
「少しだけ」
 は腰に回った腕のたくましさに安寧を感じつつ、瞳を閉じた。あたたかい体温と煙草のにおい。ちいさな耳にくちびるを寄せ、触れるだけのくちづけを与える。
「このまま」
 がつぶやく。
「ベッド連れてって」
 呆れ果てたと言わんばかりの嘆息が、の後頭部をくすぐる。は狡噛の首に腕を回したまま、ひっそりと瞳を閉じた。器用にも横抱きの体勢へと変わる。ごつごつとした狡噛の肩に片手を回し、俯瞰の風景を楽しむ。頭上には狡噛の無愛想な表情があった。どれだけ矮小だったとしても、何だかんだと言いつつの要求を呑んでくれるのだ。彼は。そんなぶっきらぼうな優しさにすっかり頭まで浸かっている自分を確認するにつけ、は自嘲の笑みをもらしそうになる。これは私的領域に於ける職権乱用に入るだろうか。それとも、甘んじて看過されるだろうか。腐れ縁の人間が持ち込む厄介事だと。
 思ったよりもずっと安定感のある横抱きに、は感心した。狡噛はが知る人間のうち最も屈強だと自信を持って断言できるひとだった。そんな人間に抱えられていながら不安定さを覚えるはずがない。心身を極限まで追い詰めるストイックなトレーニングを時間の許す限り反覆し続けてきた狡噛の体には、やはりまぎれもない執念染みたものが纏わりついているのだ。とて監視官職をこなすのに必要とされるだけの体力はじゅうぶん備えている。が、狡噛はその比ではない。怨敵を彼自身の拳で打ち砕くその日を切望し、飽きることなく筋を疲労させ、汗を流し、力を蓄える。そんなふうに狂的なひたむきさは、の内にはない。あってはならない。
 だからだろうか。狡噛といると、彼は圧倒的に異なる組成を持つ人間なのだとつくづく思うのは。宜野座伸元や他の人間に言わせれば、それは当然だった。一般市民と潜在犯のあいだには確たる隔たりが存在する。精神の汚染度、社会的危険性、その他各種の不安要素。――この世界に「差別」という壁はない、すべての人間はみな等しき価値と権利を持つ――そう、されている。しかし現実は、これだ。
 監視官のは、潜在犯の腕で、寝室に運ばれた。あるじの入室を感知し、間接照明が自動的に点灯する。ぎしりというスプリングの弾みと共に、はすっかり体温を失ったシーツに下ろされた。
「ありがとう」
 ふああと大きなあくびを浮かべ、壁際にいそいそと這う。ベッドが再度軋んで、の隣に狡噛が寝転がった。
「あれ。寝るんだ」
「お前は明日非番だからいいんだろうが、俺は仕事だ」
 あっさりと寝る体勢に入った狡噛は苦々しさを隠そうともしない。はくちびるだけで笑って、じぶんはしばし読書でも嗜むことにした。ヘッドボードに手を伸ばし、適当に一冊掴む。運試しのようなものだ。タイトルもあらすじも見ぬまま辿り着いた一冊で未来の自分を占う。くだらないジンクスのようなものだ。
 一冊選んだつもりが、二冊の文庫本を手に取っていた。プルーストの「失われた時を求めて」と、サン=テグジュペリ「星の王子さま」。は危うく吹き出しそうになった。何とも不一致な組み合わせである。それもそのはず、現代でも愛され続けるフランスの児童文学は、がこの部屋に置き忘れたものだった。薄いそれをおもむろに開いてみれば、中盤に栞が挟み込まれている。にはここまで再読した記憶もなければ、こんなシンプルな栞を所有していたこともない。そのふたつが導く推論に、は思わず口端をゆるめた。主としてハードボイルドを好む狡噛が、ともすれば難解な世界を平坦な文体で描き切った小説に思考と集中を巡らせたとは。微笑ましいとさえ思う。
 なんだか読書をする気が失せてしまって、は体勢を変えて狡噛へと向き直った。彼はいつの間にやら眠りについたらしく、例のあどけない表情で、規則正しい呼吸を繰り返すだけの生きものになっていた。
 茫洋とした横顔の輪郭。すっと通った鼻筋と、薄いくちびる。呼吸に合わせてかすかに震える長めの睫毛。
 テグジュペリは「大切なものは目に見えない」と言った。ならば今、のすぐそばで睡眠に浸るこの男を、いったい何と定義付ければいいのだろう。
「ほんとうに」
 可愛いよ、と続く言葉を喉の奥に飲み込む。口の端に乗せた瞬間から意味を失っていく言葉たち。が彼に伝えたい言葉はそれこそ幾万と数えられるのに、どうしたって音に還元できない代物がある。消えない慕情や余計なお世話、身の程知らずな願い。口にできない言葉たちを胸にしまい込みながら、と狡噛はそばにいる。身近な距離の代償は言葉の欠落だった。けれど、大事なことを何一つ伝えられなくともここにふたりがあればいいのだと、は判断している。聖域に生きる神さまでもあるまいに、すべてを手に入れることなど無理だ。じぶんの身の丈に合う社会で、手頃な幸福に甘んじる。けれどそれでも幸せなのには変わりなかった。は狡噛のためにじぶんの抱えるすべてを捨て切れない。そして狡噛も、それを望んではいないのだ。
 ――狡噛くんの寝顔を見ていると、こんなことばかりを考えている気がする。
 は心だけでひとりごち、「星の王子さま」を閉じた。つい数時間前、誕生日祝いはケーキ以外に用意していないよと、は確かにそう笑った。狡噛を困らせるのは不本意だ。けれどのショルダーバックの中には新品のネクタイが化粧箱ごと仕舞い込まれている。明日の朝、それを無言で狡噛に結んでやるのもいいかもしれないと、徐々に深くなる眠気に身を任せながら結論付ける。それぐらいの短い幸せならば、今のふたりにも許されるかもしれないと思ったから。

(13/08/16)