聖域

 たった数秒の内に咀嚼され、元のかたちを失う苺。あんなにきれいな雫型をしていたのに、もう、ただただ消化を待つだけの物体へと成り果てる。けっして元には戻れない。
 狡噛慎也は、今、苺をひとくちで嚥下したところだった。見るも鮮やかな赤を失ったショートケーキは、それでもまだすまし顔で皿に鎮座している。
「苺は最後に取っておくタイプじゃなかったの?」
 狡噛に問うたのは、ケーキをこの宿舎まで持ち込んだ張本人だった。彼女は刑事課所属の監視官で、名をと云う。の、しっとりと潤ったふたつの眼球が見つめてくる。何のてらいもなく、軽い疑問を呈しただけといった風情で。
「ああ」
「めずらしいね」
 は肩を竦めると、ふたたび手許のショートケーキへと集中した。狡噛は彼女がケーキを消費する経過をしばし眺める。みずから足を運んでようやく手に入れたケーキなのだと、先ほど熱弁を奮われたばかりだ。確かに有名店の名に恥じない美味さだった。余分な甘さを纏わないクリーム、天塩をかけて育てられた有機栽培の苺、ふわふわと弾むスポンジ。
 今日この日を祝するというより、気になっていたケーキを買うための口実作りとして狡噛の誕生日を利用した、そんな意味合いが強いんだけど……と、ばつの悪い顔をしてが打ち明けたのが、つい三十分前の話になる。狡噛は非番で、いつものように宿舎でトレーニングに打ち込んでいた。今にスキップでもしそうな表情でがやって来たのが二十二時過ぎだったか。
 彼女の訪問を断る理由など、狡噛には持ち得なかった。例えばそう、まだ狡噛がエリート職の花道を歩き続けていたころ、と深い関係にあったとしても――そして狡噛の墜落以来、その関係が決定的に変質していたとしても――何にせよ、狡噛はをがらんどうの部屋に促した。
 ホログラムによる内装装飾がいっさい施されていないこの場所で、高級品のショートケーキはやけに色鮮やかに見えた。ところどころヒビが走る壁、つやのある白い生クリーム。空虚に回り続ける鈍色のシーリングファン、赤々と熟れた大粒の苺。コントラストが目に痛い。
「さすがにふたりでワンホールはきついよね」
「ああ」
 洋菓子も嫌いではないが、ホールとなると手に余る。狡噛は煙草に火を点けた。ガラステーブルの上、半月に欠けたケーキがリキュールの芳醇なにおいを漂わせている。
「かと言って一度手を付けたものを一係のみんなに出すのもできないし」
「残ったら残ったでお前が後で食えばいいだけの話だ。俺はもういらん」
「じゃあ、ここの冷蔵庫に入れておいてくれる? 時間かかるけど食べ切るから」
 狡噛が頷くと、は嬉しそうに口角を上げて、きれいに切り分けたショートケーキへとフォークを刺した。白く甘い波が割れて、の口内へと運ばれていく。
「この、スポンジとスポンジの間の、クリームと苺の部分が好き」
 そんなことをひとりごちながら、彼女は幸せそのものの顔をする。狡噛が真横で煙をぷかぷか浮かべていても気にならないらしい。いつもなら文句のひとつやふたつは投げてくるはずなのだが、美味い物にはマイナスの感情を緩和させる効能もあるようだ。
 中ほどまで吸った煙草をアルミの灰皿に押し付ける。狡噛は、苺の冠を失ったケーキにふたたび口を付けた。苦い煙に浸されていた舌は甘さに飢えていたようで、たっぷりと掬ったクリームがやけに美味く感じられる。あっという間に食べ終えてしまう。
 思えば、狡噛は毎年きちんと誕生日祝いの機会に恵まれてきた。幼いころは母親が、学生の日々は友人が、監視官時代は一係の奴らが、狡噛のそばでケーキをつついていた。そして数年前から現在に至るまではが。
 狡噛が執行官に落ちたのと同時に、とのあいだに結ばれていた関係は自然的に潰えたはずだった。けれど、何故かまだ、こんなふうにしてそばに在る。猟犬と飼い主という枠内で息づきながらも、ふたりのあいだに流れる安寧の空気はずるずると引き延ばされ続けている。
 執行官の狡噛が監視官のと個人的な関わりを保つなど褒められたものではない。サイコ=パスの健康状態が何より重んじられるこの世界では、重篤な間違いと言えた。けれど、は、大丈夫だからと主張して、にこにこ笑っている。過去の昇華だけを求め続けて生きている男のそばで、のんきにケーキなんかを食べている。
 あまつさえ、
「そうだ、狡噛くん、お誕生日おめでとう」
 こんな祝言まで口にする始末。
「ここに来たと同時に言うべきだったんじゃないか」
「少し焦らしたの。何よりもまずケーキ、だったから」
 の言葉には嘘も裏もない。それが狡噛にはまぶしい。羨ましくはないが、どうか彼女がこのままであればいいと、そうは思う。切に願う。
「……伸びたな」
 の背に垂れる髪に触れ、狡噛は思ったままを口にした。は少し驚いたようだった。目を丸くし、また微笑む。彼女はいつだって一定の安穏と笑みを纏わせて生きている人間だ。の手に握られたしろがねのフォークが、光った。
「だいぶね」
「切らないのか」
「うん、次にパーマ当てたいから。狡噛くんも伸びたんじゃない?」
 は手許の皿を置くと、狡噛の短く跳ねた黒髪に指を伸ばした。
「いっつも跳ねてる。ハリネズミみたい」
 彼女の常套句が飛び出す。狡噛からしてみれば、ただ邪魔にならない程度に放っているだけなので、ハリネズミなどと評されるいわれはなかったが。指先で狡噛の髪をつついたあと、の集中は再度ショートケーキへと注がれる。最後のひとくち。芯まで甘ったるく熟れた苺が、それとよく似た色をした口唇に放り込まれて――。
 ごくりと飲み込まれる赤。
 飲み込まれてしまう、赤。
「ごちそうさま」
 が、ふたりぶんの皿とフォークをシンクへ片付けるのを、狡噛は眺めた。情けなかった。赤い苺と口唇の取り合わせに目を奪われ、引き金を引かれ、けっして潔白とは言えない類の感情が生まれてしまったことが。ついさっきまで存在しなかった欲が狡噛の内奥に我が物顔で居座り、あれこれと口を出し始める。触れたくなったら触れればいいのだと。そんな、簡単なようでいて困難なことを、指図してくる。
 残りのケーキを箱に納め、ミネラルウォーターと機能食ばかりが並んだ冷蔵庫へと仕舞い込むと、がソファへ戻ってきた。狡噛の右横で、くすんだ青いソファが軽い軋みを上げる。は大きなあくびをひとつかみ殺し、手首の情報端末で時間を確認していた。しかし、どうやら帰るつもりはないらしい。「おいしかったね」などと、ケーキの感想を述べている。能天気に。
「帰らないのか」
 だから訊いた。言外に帰れと含ませて、彼女にとっての最適な選択肢を狡噛みずから差し出してやる。これ以上ここにいたら何をするか分からないから、帰れ、と。やはり情けない提案ではあったが、口にしておくべき事柄だったからだ。
「うん。帰らない」
「…………」
「いつものことだから、大丈夫でしょ?」
 そう言って、眠そうに目を瞬かせる。目尻がとろんと下がっていた。子どもでもあるまいに、は満腹になったらすぐ眠気を催してしまう。場を受け流すために煙草を吸おうと思えども、が狡噛の右腕に頭を預けてきたものだから、気安く動けなくなってしまった。
「寝るのはいいが、ベッドに行けよ」
「まだ寝ないから、少し、こうしてて」
 上腕部に感じる確かな重みと温もりがうごめいた。の髪のにおい、生クリームの甘い空気、紫煙の淀み、ふたりの吐き出す二酸化炭素、それらすべてが複雑に混ざり合い、狡噛の意識を悪いほうに刺激する。さっき食べたケーキが胃の辺りでクスクス嘲笑っているような、そんな錯覚を感じた。脳の髄が、ぐらり。
 分水嶺を越えるときは突然だ。
 気が付くと、狡噛はを腕の中に引き入れていた。小さい背を包み、体の凹凸を合わせるようにして抱きすくめる。なんという安寧。こうあるべきだったのだと、妙な確信さえ抱かせる接触。狡噛は目を閉じた。胸元で、がもごもごと口を動かす気配がする。
「狡噛くんから、煙草以外のにおいがする」
 たった今気づいた事実を報告すると、は満足げな表情を浮かべた。煙草以外のにおいとはケーキのことだろうか。自分が纏うにおいにしてはあまりにもやわらか過ぎるそれを想像すると、狡噛の口からは小さな自嘲が漏れた。
「さっきさ」
 が言った。
「ん?」
「髪、切らないのかって、聞いたでしょ。私が髪を切らないのは、君に撫でられるのが心地いいからなんだよね、実際のところ。長くなればもっと撫でてもらえるんじゃないかとか、そういうことを考えてる」
 が狡噛を見上げる。かすかに焦げ茶色を滲ませる双眸が、こちらをまっすぐに貫いていた。
「髪、撫でられてると心地いいんだ」
 彼女の望み通り、ゆったりとした髪を流れに沿って撫でたり、指で梳いてやる。は目蓋で視界を遮断し、狡噛に体重のすべてを預け、髪のあいだを行ったり来たりしている武骨な指の感触に浸っているようだった。
 ほどなくして規則正しい息が聞こえ始めたので、さすがの狡噛も苦笑するほかなかった。起こしてしまわないようにをそっと抱えると、宿舎の奥に向かう。資料部屋のソファで短い睡眠を得るのが狡噛の常だが、寝室も一応存在する。シングルベッドがひとつ壁沿いに置かれているだけの、むやみやたらと面積だけがある部屋で、滅多に使わないからか空気が少し埃っぽい。を寝かせ、シーツを肩まで引き寄せてやる。空調を入れたので風邪を引く恐れもない。
 無垢な寝顔を三秒間だけ眺める。
 目に入る何もかもが女だった。ほのかに香る髪も、白い鼻梁も、アイラインを彩る睫毛も。目に入る何もかもが、今の狡噛には毒でしかなかった。
 早く退室しなければと踵を返す、が。生ぬるいものに手首を掴まれてしまう。
「狡噛くん」
 わずかな驚きとため息交じりに振り返る。深く寝入っていたはずのが、ぱっちりと開かれた瞳で狡噛を見上げていた。ほとほと呆れてしまう。
「何となく寝たフリしてみたんだけど、バレないものだね」
「いい度胸だ」
「今から寝るから」
「じゃあ早く寝ろ」
「うん。だからほら、こっち、来て」
 そう言って、隣の空きスペースを手で叩いて示す。狡噛は三秒ほど真顔で黙考してから、仕方なく従った。大の大人ふたりが転がるにはスペースが足りないベッドで、必然的に身を寄せ合う。
「いつの間に狸寝入りの腕を上げたんだ」
「著名人いわく、女は役者らしいよ」
 はふふんと鼻を鳴らし、呆れ顔の狡噛に伸し掛かった。その体勢のままで、そうっと、額を合わせてくる。がよくやる行為のひとつだった。吐息が触れ合うほどの距離で額同士を触れ合わせ、特別な何かをするでもなく瞳を閉じる。がいったいどんな理由でこんな接触を好むのか、ほんとうのところは狡噛には分からないが、やたらとあたたかくなることだけは身をもって知っていた。
「狡噛くん、おめでとう」
「二度目だぞ」
「お祝いは何度言ってもいいでしょ。またひとつ、三十路に近付いた人に」
 至近距離でお見舞いされた嫌味に狡噛が眉をひそめると、は声を出してからからと笑った。彼女は体勢を変え、体温であたたまりつつあるシーツに横になる。橙の間接照明がの輪郭をぼんやりと照らした。肘をつき、ゆっくりと瞬きをしている。
「お祝いがプレゼント代わりになるとは思ってないけど」
「そんな代物を寄越す気があったとは驚いたな」
「割と真剣に考えた結果、何もあげない、というところに落ち着いたよ」
「そりゃありがたい」
 狡噛はそう言って、ヘッドボードに置きっぱなしにしていた煙草とジッポを掴んだ。上体を伏せ、フィルターに火を点す。肺の最奥まで沁み渡っていく慣れた苦味が心地いい。スッと立ち上った紫煙に、は渋面を作った。そのようすを認めた狡噛が笑う。
「吸うか?」
 からかいで目を細め、人差し指と中指に挟まれた一本を、顎でしゃくって示す。
「冗談止めて」
 低く毒づいてから、は狡噛に倣ってうつ伏せた。シーツを引き寄せ、狡噛の胸元にごろりと転がり込んでくる。生クリームでも、紫煙でもない、の香りがする。狡噛の奥がずきりと痛み、そして疼いた。失えないものはいつだっていいにおいがする。淡々としているが平穏な日常や、心を通じ合わせた友人がそうであるように。
 煙草の灰がに落ちないよう、狡噛は気を払った。はおもむろに手を伸ばすと、ヘッドボードに積まれた文庫本のうち一冊を掴み上げる。表紙には、蛇が絡みついた大樹の下で会話を交わす一組の男女――アダムとイヴが描かれていた。
「エデンの園?」
 が不思議そうにタイトルを読み上げる。知らないのだろう。狡噛は、短くなった煙草を灰皿に押し付けてから、題字の下に記された著者名を指でなぞった。
「ヘミングウェイだ」
「あ、何冊か読んだことあるよ」
 狡噛ほどではないが、も本は好きなほうだ。
「へえ。意外だな。どれだ?」
「老人と海、日はまた昇る、武器よさらば」
「随分と老人臭い物を選んだんだな……」思わず苦笑する。
「高等教育課程の頃にね。陰鬱な話だなーって思ったんだけど、何とか最後まで読めたの。エデンの園は……割と性的な話じゃなかった?」
「ああ」
 狡噛は首肯する。いずれ必ず失わなければならない楽園の幸福――それがこの本の主題だというのは、言わずにおいた。
「狡噛くんは、けっこう何でも読むもんね」
 ぱらぱらとページを捲りながら、は片肘をついた。
「これ、読み途中?」
「いや。まだだ」
「読み聞かせてあげようか」
 の顔にいたずらっぽい笑みが覗く。
「遠慮する」
「残念。じゃあ、今度私に読み聞かせて。狡噛くんの声聞きながらだと、よく眠れそうだから」
 三ページほど目を通してから、は「エデンの園」を閉じた。
「きょうはおめでとう。おやすみ、狡噛くん」
 三度目の祝言と眠りの挨拶とを同時に口にして、は狡噛の返事を待たずに瞳を閉じてしまった。そしてあっさり眠りについてしまう。今度こそほんとうに意識を手放したようで、狡噛が頬を軽く抓っても目は開かないままだ。ただ、寝息だけがこだまする。狡噛だけが取り残される。
 狡噛はうっすらと笑って、端末で時刻を確認した。あと少しで日付を跨ぐところまで来ている。今日という日、いずれ必ず失われなければならない楽園の幸福が、確かにここには存在していた。

(13/08/16)