雨ならば子守唄

 夢から唐突に醒める瞬間の冷徹な感覚に慣れることができない。生まれてすぐ、いや、生まれる前から続けてきた「睡眠と覚醒」という行為のはずなのに、無意識の海から自意識の空へと顔を出し、思いっきり呼吸をし出すのは、いつだってほんの少しの苦痛と驚愕を伴った。
 びくりと跳ね、デスクから起き上がると、無理な体勢で惰眠を貪っていたために身体が軋んだ。オフィスにはもう誰もいない。というより、私が戻ってきた時点で誰もいなかった。当直当番のふたりは出動しているのか、はたまた食堂にでもいるのだろう。本来ならば人が詰めていて騒がしいはずの場所がこうも空っぽだと、むしろ、気持ちが悪いほどだ。
「……痛っ」
 回した肩が、こきり、と嫌な音を立てた。
 昼間、二係からの応援要請に応じたまでは良かった。まさかあそこまで扱き使われるとは予想しておらず、一係に戻ったのは九時過ぎだっただろうか。残っていた仕事を後回しにして帰ることもできたのに、疲れ切った四肢がそれすら許さなかったのだ。チェアに腰かけたが最後、真っ逆さまに落ちるように眠っていた。
 端末は十時を差している。鏡を見なくても、自分が悲惨な表情をしているのはすぐ分かった。肌が吊っている。眠たげな目元と下がった眉が示すのは疲労でしかない。バッグを引っ掴み、逃げるようにオフィスを出た。ただ望むのは、安心した心地で眠りたい。それだけだった。



 平日深夜のファミリーレストランにいるのは、いつもここで夕飯を取っているようなくたびれた風情の人と、何やら一生懸命作業に打ち込んでいる人ぐらいだ。ウェイトレスはもちろんドローンの仕事である。丸みを帯びた……どこかマトリョーシカを彷彿とさせる、愛着あるルックスの機械に、奥の席を案内された。
「エビのチーズリゾットひとつ。あとコーヒー。ホットで」
「かしこまりました」
 ドローンがテーブルを離れる。飲み物だけはすぐに提供された。ティスプーンで黒い濁りをかき回すのに合わせ、コーヒーの表面に反射した蛍光灯の白がぐるぐると回転する。そこにミルクの渦が巻き、ずっと見ていたら催眠にでもかかって気絶してしまいそうだった。
 感動的に美味しい訳でもないリゾットを機械的に口に運ぶ頃には、さっきの眠気はどこかへと消えてしまっていた。やたらと歯ごたえのある人口エビを飲み下し、舌に残るクリームソースの甘さをコーヒーで流す。
 端末に触れてメッセージ機能を呼び出したのは、ほとんど無意識の行動だった、と思う。
『これから行ってもいい?』
『俺に許可を取る必要なんてのがあるのか?』
『もう遅いから一応聞こうと思って』
『好きにしてくれ』
『ありがとう』
 釣りを受け取る手もそぞろに、すぐにレストランを後にした。背中越しに、人工音声の「ありがとうございました」が聞こえた。

 レストランから歩いてすぐの裏通りに、世にも珍しい「本物の煙草」を扱った専門店がある。このご時世、麻薬よりも強力とされる煙草の中毒性と発がん性を恐れ、大抵の人間はバーチャル世界の疑似的な喫煙で済ませている。けれども本物はなくならない。薄暗い世界からの根強い人気が絶えないのだ。もともと、煙草自体が政府から完全に禁止されている訳でもない。手に入れようと思えば割と簡単だ。ただ、ちょっとばかり値が張るだけで。
 この店を訪れるのは一週間振りだろうか。分厚く古臭い木製のドアはやけに重く、入るだけにも力が要る。奥では高そうな葉巻を蒸かした店主が座っていた。
「またですか。ここはあなたみたいなお嬢さんが来るところじゃないんですがねぇ。それに随分と非常識な時間のご来訪と来ている」
 ひどく低い、老成した狐のようなご挨拶でのお出迎えだ。
「野暮用なんですよ。カートンみっつ」
 指で三を示すと、白煙の向こうで店主は渋々頷いた。来るたびにかなりの金額を落としていく私は結構な上客のはずだ。
 非喫煙者の私がこの店に何度も足を運ぶ理由は、ひとつ。外を自由に出歩けない部下――監察官のため、私たち監視官は彼らの欲する代物……酒や化粧品や本などを提供しなければならなかった。煙草店の常連なのにはそういう業務上の理由がある。
「ご贔屓に、どうも」
 床から天井まで一続きになっている木棚のひとつから、店主は血管の浮かんだ手で青緑色のカートンを引き出した。彼の頭には白いものが混じっているが、せいぜい四十代初めかそこらだろう。葉巻をくゆらせる仕草が板に付いていて、マフィア映画の中に生きるゴッドファーザーだと言われても手放しで納得してしまいそうだ。
「お世話様。また来ます」
 傷だらけのカウンターに札を置き、店主の手からカートンを受け取って外に出た。良く知ったものではない煙草のにおいが肺にへばり付く。何とはなしに、嫌だった。
 もと来た道を戻るのが面倒で、局までタクシーの世話になった。街全体を覆うようにして存在するホログラム広告はむしろ痛々しいまでに眩しく映り、眠気など、より彼岸へと遠ざかっていった。この街は眠らない。この街の夜は終わらない。
「あ、ここで降ろして」
 ゆったりとブレーキがかかり、タクシーが路肩へと停車した。
 昼間にはサラリーマンやOLで賑わう公安局ビル前の歩道には、人っ子ひとり見当たらない。冷たい孤独に満ちた空間へと様変わりしていた。開いたドアの向こうから十二月の空気が遠慮なく吹き込んでくる。支払いはICカードで済ませた。背中越しに、また、人工音声の「ありがとうございました」が聞こえた。



 執行官宿舎の廊下はやけに足音が響く。一歩一歩進むたび、ヒールの耳触りな高音が隅々まで行き渡るのだ。やたらと頑丈で、防音設備だけは整ったつくりをしているから、この音が室内にまで染み込んでしまう心配はないだろう。認証システムに右手を翳し、目的の、紫煙のにおいが沈んだ部屋へと歩を進めた。知らず知らずのうちに唾を飲んでいる。この部屋は恒常的に薄暗く、地下だということを判断材料から覗いても、時間間隔が全く掴めない。
 リビングへと続く、金属の階段を下っても、あるじの姿はない。ここにあるのは平坦な沈黙と、キッチンの、絞り切れていない蛇口から時折滴るしずくの音だけだ。資料室なのだか寝室なのだか区別のつかない奥地へと入り込む。気分は、地雷原のジャングルに踏み込む解放軍の兵士だ。
 ソファで寝るのは止めたほうがいい、とは、言えない。嫌味に長い足を肘掛けに投げ出して、その人は、おそらく浅い睡眠に身を浸していた。
 捜査資料と参考写真ばかりが納められたこの部屋は、来訪者に本能的な恐怖を抱かせる。この人が……この男が、三年間に渡って希求し続けてきたものが満ち満ちて、よその人間を徹底的に拒否している。けれど私は踏み出した。ソファの近くまで歩み寄り、着ていたトレンチコートを脇のハンガーにかける。手土産として、タバコのカートンをみっつ、資料の置かれたガラステーブルに置く。どんな顔で寝ているのだろうか。腕で隠された寝顔を拝見しようと覗き込んだ瞬間、その人は勢い良く瞳を開けた。ハッ、という息の詰まる音。私の存在に気付いて起床したというよりも、耐え難い悪夢からの目覚めという形容がピッタリだったので、少々身構えてしまった。
「……どうしたの」
 視線を何度か彷徨させ、荒れた息を整えている狡噛くんが心配になり、問うた。何もかも、すべては唐突に行われ――ぐん、と体が勢いよく前のめりに倒れる。私の手首を何かが掴んでいた。どくどくと、鼓動が熱い。次の瞬間にやってきた、何か頑丈で、だいぶ温度が高いところに体が落とされたような感覚に目を見開く。
 ソファもとい狡噛くんに倒れ込むような形で、数秒が経過する。耳元にかかる息は焦燥と悔恨を含んでいた。背に逞しい腕が回されたことに気付いても、こんな体勢では、私からは手が伸ばせない。とりあえず、肩をなるべく優しく叩いて合図する。……何の合図?

 そう、根拠のない「大丈夫」の合図。

 間もなくして腕の枷が外されたので、彼の上から退いた。そして、寝転がったまま物言わぬ人をそっと起き上がらせる。随分と簡単になすがままになってくれたものだ。彼の肉体をソファの背もたれに預けさせる。彼の長い脚の間に体を割り込ませる形で、私は、彼の前に跪いた。これじゃ、いったいどちらがお姫様なのか分からない。軽く彼を見上げるような形になり、必然的に視線がぶつかる。彼はたぶん、いつも通りの、こんなもの何てことない、という仏頂面を決め込んでいるつもりなのだろう。それでも私には、今にも泣き出しそうな幼子の顔にしか見えない。人が涙を流そうとするとき、空気がわずかに潤むのだ。そう、今、この瞬間のように。そっと、そうっと、両肩に手を乗せて、こちら側へと促した。
 ――こつり。
 額を合わせると、温もりでさえひとつの匂いとして感じられるほどの距離に埋まる。どちらからともなく、示し合わせた訳でもなく瞳を閉じ、今度は私から背に腕を回した。私ではすっかり包み尽くしてやることのできない、広いはずの背が、はぐれてしまった子どものそれのように、ちっぽけで、尚且つ情けなく感じられる。
 肌越しに伝わってくるものは何も温度だけじゃない。彼が夢の内側でどんな目に遭ったのか、その仔細が身に迫って感じられるような気さえした。ぎゅっと、強く、合わせる。数秒を置き、生きもののたまごを包み込むような繊細さで、抱き返される。肩口に埋まる黒髪の、さらりとした感触すら悲しみのかけらを纏わせていた。ゆっくりと、背を撫でる。頭を撫でる。子守唄を言い聞かせてやるのは音痴の私には無理だったが、結果的にはそれで良かったのだろう。しばらくすると、ふたつの体は離れ、ふたつの人間に還った。
 彼の目はすっかり元の調子を取り戻していた。あまりにも真っ直ぐで、自分の信念だけを見据えることのできる瞳がそこにはあった。
 私はようやく安心して、ふっと口端をゆるめる。
「おみやげ買ってきたよ。みっつも」
 視線でテーブルを示すと、狡噛くんは浅く首肯した。ふう、と私は腕を組んでみせる。
「お礼ぐらい言いなよね」
「助かった」
「うん、よし。いい子」
 利口な飼い犬にするように頭を撫でてから遠ざかると、彼はさっそくカートンに手を伸ばした。軽い音を立てて包装紙が破られる音を背後に、私は壁に貼られた幾つもの写真を眺める。ことさら目を引くのは、私も彼も今よりまだずっと幼稚だった当時の一枚。似合わないことにきっちりとスーツを着こんだ狡噛くんの隣に、今ではもういない人が映っている。彼の性格を伺わせる、いたずらな笑み。ずっと見つめているのは気が引けて、私はぐるりと踵を返した。ぼうっとしている狡噛くんの指先では、今にも濃淡色の灰が落下しそうだった。
「あっ、落ちる」
 言うが早いか、ぼとりと、カーペットに灰色が墜落した。私がしまったという顔を浮かべると、彼は何も気にすることなく、今まで煙草を持っていたのと同じ手で濃淡色を掬い上げ、ガラスの灰皿に捨てた。ぎょっとしてしまう。つかつかと歩み寄り、彼の手を掴み上げた。
「……見事なヤケド」
「まあ、そうなるだろうな」
「またこういうことする……ああもう、ほら、こっちおいで」
 患部に触れないよう気を遣いながらも、彼を強く引っ張った。カーペットにできた丸い焦げ跡を横目に、キッチンという取り調べ室まで連行だ。
「お前、思っていたよりもずっと力が強いんだな」
 狡噛くんは苦笑を隠し切れていないが、大人しく従ってくれた。いや、こんな事態のときぐらいは従属してもらわないと困る。蛇口から勢いよく噴出した水で人差し指と親指を冷やす。微かに赤みを帯びた二本の指先を見ていると、どうも流れる血をイメージしてしまった。
「……っつ」
 彼が目を歪ませる。
「当然。痛いでしょ? いい気味だよ。冷やせば大丈夫だろうけど」
 この部屋、応急処置グッズとかないし。
 半ばひとり言のようにつぶやく。ざあざあ。滝のように水が流れては、私の手もろ共、狡噛くんの火傷を冷やした。
「お前は心配性過ぎるきらいがあるんだ。俺の母親にでもなる気なら遠慮しておくぞ」
「こんな手のかかる子、やだよ。ほんと、狡噛くんはお気楽にそう言うけど、煙草の灰を手掴みする人が目の前にいたら誰だってこうなるってば。意外と宜野座さんもすぐ傷作ってくるし、どうして一係には傷つきやすい男の人が多いんだろう」
 傷つきやすい、の部分を強めて言った。
「そうか? ギノはそうでもないだろ」
「こないだの、アパートで待ち伏せの爆発食らったとき、見た? 宜野座さん、一段と不機嫌そうな顔して、手に包帯巻いて戻ってきて」
合点がいったのだろう、狡噛くんが頷く。ほんのわずか、からかうように笑んだ。
「ああ。あれか。縢が笑ってたやつだな」
「うん。でも、正直ちょっと笑っちゃったな。あの人も、人間らしく弱いところがあるんだって」
 こうやって何気ない会話を交わしていると、さっきの狡噛くんは何だったのだろう、とまで思える。頑なな態度はそのままに、けれど怯えの一端を体に染み込ませ、夢の中でどんな亡霊と向き合ったのだろう? 気になって訊いてみたとて、きっとはぐらかされるだけの真実。そんなものに際限なく捕われていてもしょうがない。きっと、そこに私などを介入させてはならない。彼個人でケリを付けなくてはならない、そんな、独立した部分なのだ。
「……私がちょうど来たことに感謝してね」
 狡噛くんの指先が流氷のようになるまで冷やしてから、蛇口を絞めた。
 彼をソファに座らせる。まさぐったポーチの中から絆創膏を二枚、探り当てた。ガーゼなどの応急グッズは一通り入っていたはずだ。まだ、私自身にさえ使ったことのないそれを、まさかこの人に施す羽目になるとは。誰の助けも要らないような、防護壁に似たたくましさを持つ人に。
「ないよりはマシだと思うから」
 水滴を拭き、清潔なガーゼを当て、絆創膏で長い指をくるりと一巻きする。走り回るわんぱくな少年が転ぶシーンにこそふさわしい絆創膏は、今、こんなふうに大の男の指先を防護する羽目になっていた。私にとってのこの人は、まさに、わんぱくな少年に近い。声を出して笑ってしまう。
「できあがり」
「随分といろいろ出てくるもんだ」
 揶揄しているようにも、褒めているようにも思える言葉だった。私は更に笑った。からからと笑った。
「無駄に色々入ってるの。自分じゃ吸わない煙草とか、自分じゃ飲まないお酒とか」
「自分に使わない応急道具も、だな」
「正解」
 自分には必要のないものばかり懐の中に抱え込んでいる。ポーチをバッグに閉まってから、狡噛くんの横に落ち着くことにした。ふと気付くと、この部屋に来るまでに持て余していた疲労は遠い場所に置き去りになっていて、不思議な心地になった。
今、眠れたら、きっと夢すら見ずに深く落ちることができるだろう。三年前から常に浅い眠りばかり繰り返す男を傍に感じながら、そんなことを想像した。
「なあ、
 やぶから棒に名が呼ばれ、望まれるがままに顔を向けた。
 彼が私の名前を呼ぶのは、あまり良くない。
「なに」
「……いや」
 ああ、もう。そんな、所在なさげな顔でこちらを見ないで欲しいものだ。ねえ、君はいつだって詰めが甘い。抑え込んだ感情の根幹を外に漏らさないように生きるなら、もっとひとりぼっちにならなくてはいけないよ。孤独に生き、孤独に歩み、孤独に死ななければならない。こうして、自らを壊す原因になるかもしれない他人の肌に触れたりしてはいけないのだ。誰とも関わらなければ、思い出を築かなければ、後悔を生み出さなければ、消えない亡霊に囚われたりもしない。つくづく私はそう思う。そして私はこうも思う。君は、完璧な復讐鬼にはなれない。私も、そんな人間にはなれそうにない。仕様がない。もう一度だけ、額越しに脳みそをくっ付けるようにして額を合わせ、腕で抱き締めてみる。

 流れと勢いのまま、ずるりとソファへ倒れ込んだ。もしかしなくても、この人はこのまま眠るつもりなんだろうか。眠れない私を置き去りにして、自分だけ、自分の閉鎖世界に戻る気なんだろうか。
 そんなのはずるい。
 温かい感覚に包まれるがまま、私も意識を手放すための準備をし始めた。
 眠りについたら、彼よりも先に目を覚まそう。
 彼が悪夢から逃げ惑った瞬間に、できる限り、寄り添ってあげられるよう。
 彼と同じ夢を見ることのできない自分を抑え込むことすら無理だというのなら。

(12/11/25)