Set Fire To The Rain

 しとしと。降りしきる雨しずくのようなピアノが流れ出すのと同時に目を覚ました。コンクリートの壁と天井に四方八方を囲われている。おぼろげな視界の解像度は徐々に上がってゆく。自室でない部屋で迎える目覚めは、いつも、ほんの少しだけ怖い。けれど、耳に溶けていく、隅がちょっとだけ擦れた……甘い芯のある女性の歌声が、神経を優しく宥めてくれた。部屋のあるじを探すものの、どこにも見当たらない。どうしてだろう、空気の中にはその人の気配がまだ濃厚に残っているのに。煙の苦み、呼吸の余韻。その人がさっきまでここにいたと、部屋が伝えてくる。

 くすんだ青のソファから起き上がると、肩が少し痛んだ。筋が緊張している。変な体勢で寝ていたためだ。
 地下では分かるべくもないが、どうやら雨は降っていないようだった。もしそうならば、微かながらも降りしきるしずくの音がここまで染み込んでくるはず。つまり、この雨音に似たピアノの正体とは――回答は明確に提示されている。手首の通信端末から流れ出していた曲。一時間きっかりで目覚めるように、アラームとして設定していたのだ。今は、夜の十一時を少し越えたところ。私が仕事後にこの部屋を訪れてから三時間が経とうとしていた。
「そんな落ち着いた曲で目が覚めるのか?」
 耳許に違和感なく浸透する声に振り返る。奥の部屋から顔を出したのは、例の人。ちょうど、タイミングよく視線が合う。注意力がまだ散漫で、明らかな眠気を引きずった瞳のまま三秒ほど相対したとき、唐突なる安堵が広がる。浅過ぎる眠りのあとに初めて出会う人が彼だったという単純な事柄に対して、驚くほどホッと落ち着くのだ。
「……好きなの。好きだから目が覚める」
 狡噛くんの背後で自動ドアが閉じた。彼の口元にはお約束の一本が挟み込まれ、掴みどころのない煙を上げている。まだ流れ続けている歌声を止めようと端末に指を伸ばしたものの、もったいなくて思い留まった。彼女の声はこんな真夜中にこそ似合うので、まだしばらく歌い続けてもらおう。
 なんてせつなく、あまいこえ。ちっぽけな端末の中で稀代のディーヴァが歌い続ける。ピアノ、ドラム、バイオリン。エフェクターや加工音声を多用する昨今には珍しく、シンプルな三つの楽器だけを用いた旋律が、彼女のスモーキーボイスを彩る。くっきりと縁取る。これ以上ない形で引き立て、曲として最上のものへと昇華させている。やはり、この歌以上に目覚めにふさわしい曲はない気がした。
「この人、こんなに渋みのある声してるのにまだ二十代なんだって。凄いよね」
 確か、彼女は私と同じぐらいの年齢だった気がする。それを知ったときの驚きはまだ薄れていない。彼女も、いつか行われた職能検査では歌手の才能があると太鼓判を押されたのだろうか。
「俺の目の前にもそんな声をしてる奴がいるな」
「年取ってるって言いたいの?」
「ガキっぽいってことだ」
 このやり取りこそが正しくガキっぽい。隣へと腰を下ろした男を憎々しげに一瞥し、スカートに寄った皺を伸ばす。少しでいいから眠らせて欲しいと頼んだのは間違いだっただろうか。ベッドを促されたけれど、それでは本格的な眠りについてしまう。それだけは駄目だ。他でもない監視官が執行官宿舎に宿泊するわけにはいかない。けれど、頭の芯は更なる眠りを求め疼いているのだった。アラームとしての曲が流れ続ける今も、眠気の糸を完全には断ち切れないでいる。私に纏わりついて、離れない。この場所で長い眠りに落ち着いてしまえばいいじゃないかって、囁く。どこよりも居心地よい、この場所で眠れと。
「随分と眠くなる歌だ」
「子守唄なんて可愛らしいものじゃないよ。ずるい男に見切りを付ける女の歌なんだから」
 心の底から愛したけれど完全には報われきれない現状に、いっそのこと火を点けてしまおう……そんな、どこかの映画のようなワンシーンがイメージされる一曲。この歌手の持ち歌の中には攻撃的な内容が含まれるものが割と多い。包容力のあるソウルフルな声質とはなかなか結び付かない印象だが、こうして聞いているぶんにはいっこうに構わない。歌詞よりも、歌声に惹かれている部分が大きいからだろう。
「とんでもないな」
 熱い灰をステンレスの灰皿に落とすと、狡噛くんが足を組んだ。私が寝ている間に着替えたのだろうか、いつものスーツ姿ではない。
「曲の歌詞が?」
「そんな曲をアラームに設定してるお前がだ」
「え、だって、耳に心地いいじゃない。気持ちよく起きれるんだ。ピアノが雨音みたいで、ほどける感じで目が覚めるから」
「雨音は眠るときに聞くと良いんじゃなかったのか」
「普通はね。私は逆だったけど……じゃあ、狡噛くんは寝るときにでも聞くといいよ」
 頼まれてもいないのに、音声データを彼の端末まで送信する。彼の手首では短い電子音が受信完了を知らせた。そっと伺った表情の深層は相変わらず読み取れない。眠そうにも、疲れているようにも、いつも通りのようにも見える。ただ、この人には過度の気遣いが存在しないから、嫌なら嫌だとはっきり制してくるだろうし、つまり、私の行動はさほど問題でもなかった訳だ。
「それがお気に召さないなら子守唄でも歌ってあげようか?」
「笑えない冗談だ。、お前が酷い音痴だってのはギノでも知ってる事実だぞ」
 上手を取って茶化したつもりが一転。細目で見下ろされつつ告げられた言葉の槍で、他でもない私自身が一時停止する。次の瞬間、ほとんど反射に近い動作で噛み付いたのだが。
「何でそんなこと分かるの!? だいたい聞いたことないでしょ」
 私が腕を強く引っ張って抗議するなり、狡噛くんは実に面倒くさそうにため息を吐いた。この人は今、の癇癪がまた始まったか、と思ったに違いない。それが分かってしまうから余計に腹立たしい。
「そんなもの聞かなくても分かる。鼻歌歌いながら歩いてるのを知られてないとでも思ったのか? たかが鼻歌なのに音程がさんざんズレてるのを聞いたときは耳を疑ったけどな」
 確かに、誰もいない通路や部屋で鼻歌を嗜んでしまうのが私の悪癖である。そんな幼稚性を狡噛くんのみならず一係の皆にまで把握されていたかと思うと、あまりの恥辱で平常心が潰れてしまいそう。何より、音痴が露呈してしまったのがいちばん恥ずかしい。すべては私の認識が甘かったことが招いた自業自得だが、くちびるからは茫然としたつぶやきが漏れる。
「……うそ」
「俺がこんなことで嘘を吐くと思うか」
「…………思わない」
「だろ」
 まるで誘導尋問だ。会話の着地点に関する不満は今にも爆発しそうなほど膨らんでいるが、これ以上の余計な言葉で口答えをしてみせたとて意味などなさそうだ。結局、いつもの場所へ落ち着いてしまうのが目に見えている。はあ、と床にまで沈んでいきそうなため息で場を濁すしかない。ついでと言っては何だが、お約束の位置……硬い肩へと頭の重石を乗せた。具合のいい場所にあるのだから仕方がない。
「あー……もう。二度と鼻歌なんか歌わないように気を付ける」
「そうした方がお前のためだろうな」
「ほんと、いつどこで誰が見てるか分からないんだから」
 くたばれ管理社会とは口が裂けても言えないが、それぐらいの不満は許して欲しい。そのまま視線を横に滑らせると、狡噛くんが次の煙草を口に運ぶところだった。その喫煙スパンはどうにかならないのだろうか。チェーンスモーカーとはまさに彼のためにある言葉である。
 テーブルに投げ出されていたジッポを掴む。反対の手で風避けを作りながら、生まれた火をそうっと差し出す。少しの間を置いてから、ぼんやりと膨らんだ炎の中心に向かって、彼が顔を近付けてくる。じじ、とフィルターが焦げる音。スッと立ち上る煙。オレンジ色がふたりぶんの頬を照らし上げた。彼は最初の煙を肺腑の最奥にくまなく染み込ませるようにして吸い込み、ゆっくり……吐き出す行為すら完全に楽しむように、煙を外界に吹き戻した。
「煙い」
 白く淀んだ煙などただの有害物質でしかない。付近を漂うそれを右手で払ったところ、より広く霧散してしまい逆効果になった。わざと咳き込んでみせたものの、狡噛くんは意地悪げに口角を上げるだけだ。
「火を寄越したのはどこのどいつだっけな」
「これ見よがしに煙草を咥えたのは狡噛くんだったね。お互い様」
 用の済んだジッポをテーブルに戻す。ああ、そういえば、まだ曲を流したままにしていたのだった。アラーム機能が停止し、そのままリピート再生に切り替えられていたため、彼女は、鮮烈で繊細な恋心を相変わらず歌い続けている。何度浸っても飽きることのない声。雨音の甘さに非常によく似ているピアノが鼓膜をくすぐった。
 あと三十分で日付が変わってしまう。
「――このままだと居眠り運転しそう。シャワー借して」
「待っててやろうか」
「え?」
「何でもない」
 狡噛くんの意図が読めずにいたが、それでも私は風呂場に向かった。煙草の匂いがすっかり染み込んだシャツとスカートを明日も続けて着る訳にはいかない。外見はホログラムでどうとでも変化させられるが、匂いばかりはいかんともしがたい。帰宅し、クローゼットから新たな一着を引っ張り出さなければならないだろう。
 ああ、この部屋から出ていくのを既に決定事項と定めている自分に気付き、微笑みがこぼれる。きちんと戻る場所があるのだという一定の安心と、どんなときも最後の理性と常識を貫くことができる精神の滑稽さ。だってすべてはどうしようもないこと。問題は、完全回答のない命題のどこで妥協点を見つけるか。今のところ、私はこれで上手く納得できているのだから大丈夫だ。
 シャワーのコックを捻ると、少し熱めの湯が噴き出してくる。髪、頬、顎、胸、臍、脚。順を追い、あたたかな雨粒が皮膚の上を滑り落ち、排水溝に吸い込まれていく。耳に届くのは、まるで大雨のバックグラウンドミュージック。執行官宿舎には、ホログラム内装装置もアバターによる諸機能も備えられていないため、ありのままのものだけに包まれていられた。湯のぬくもりも相まって非常に心地よい。ひとしきり浴びた後、もう一度コックを捻る。雨は止んだ。
 面倒なので髪を乾かしてから戻ると、ソファに寝転がる姿があった。どうやら眠っているらしい。
 ――ああそうか、待っていてくれたの。どこからともなく湧き上がってくるいとおしさから、そっと頬に触れた。長くはないが美しい睫毛が彼の瞳を縁取っている。私より幾分もたくましい手首の端末からは、さっきプレゼントしてあげた一曲が流れているではないか。どうやら、このメロディと歌声は彼にとって最上の子守唄となったらしい。静かに、甘く切ないスモーキーボイスを邪魔しないようにして、部屋を後にした。

 公安局ビルの地下駐車場から愛車のアウディを走らせる。首都高は深夜を迎えたとて緩むことを是としないようで、さまざまな車が夜の東京にライトの光線を引き、かしましい。ホログラムのネオンも相まって、煩わしい。作業的な運転で眠ってしまわないように例の曲を流そうかと思ったものの、止めておいた。彼女の歌声は、今頃あの人がひとり占めしている。
 伸ばした指先、適当に選局したラジオからは定時の天気予報が流れ出す。
 ――今夜から明日にかけ、東京は長続きする雨に見舞われるでしょう。大きな傘をお忘れなきよう。
 フロントガラスに一粒の雨が落ちた。

(12/11/04)