Trigger Cleaning

「お。何だ、戻ってきたのはだけか。伸元はどうした」
「庶務課に用があるって行っちゃいましたけど」
「ハハ、まーた嫌味たっぷり聞かされて、今にも世間をぶっ壊しそうなツラで帰ってくるだろ」
 言葉の端に軽い笑みを滲ませながらも、征陸さんの目はディスプレイから動かない。みずから聞いてきた割には大した興味もなさそうだ。
 狭いオフィスをぐるりと見渡す。
「……ですね。コーヒー飲む人ー?」
 上がった手のひらはふたつ。年期を感じさせるダークシルバーの義手と、女性らしい形の爪がうるわしい手。これは私の仕事のひとつ。隅の給湯スペースでインスタントコーヒーを淹れ、あたたかいマグを征陸さんと六合塚さんのデスクへそれぞれ置く。六合塚さんは小ぶりな角砂糖を何個か落としていた。
 朝夕の冷えが徐々に厳しくなってきたことを除けば、きょうも普遍的な平日だ。一係のオフィス内では執行官たちが各々の暇つぶしや雑務に打ち込んでいる。それを見ている限りではずいぶんと余裕がある部署だと思われてしまうだろうが、実際はそうでもない。一係に属する執行官は四人、監視官は二人。計六人で殺人を含む凶悪犯罪を取り締まれというのだから、なかなかどうして無理がある。まあ、けれど、改善の予定は終ぞ立たない。とりあえず、所定位置、左奥のデスクに腰を据える。大型ディスプレイに表示された未処理の諸々を見るなり、げんなりとしてしまった。一日中画面に向き合っていたのに、終わる見込みがまだ立たない。
「そういえば、宜野座さんから聞いたかな? 私はさっき聞いたんだけど」
「なーにをー?」
 気分転換に問うと、向かって左側の席で携帯ゲーム機を弄っていた縢くんが首を傾げる。格闘ゲームのチープなミュージックが鳴り響く。勝利の証明らしきファンファーレ。レベルアップ。
「今年はね、監視官がもうひとり増えるんだって」
 それが、先ほど宜野座さんから聞かされた話の内容だ。
 十一月から、新規採用の女性監視官が一名、一係に配属になるのだという。
 私が一係で働き始めてからはや数年が経つが、その間の新任者は皆無だった。省庁における職能適性チェックは殊更厳しく、加えて好評価を獲得するのは非常にむずかしい。毎年この季節を迎えると、また誰も来ないのか――と漏らしたものだ。刑事課は慢性的人手不足という悪性腫瘍を持て余している。そして。とどのつまり、私にもようやく後輩ができるということ。それも同性だ。彼女の性格やらはとりあえずさて置き、素直に嬉しい。
「へー、これまた珍しい」
 縢くんの眉が上がる。興味を示したようだ。
「女の子だよ」
「えっ、マジ!?」
 地の果てまでどうでもよさそうだった態度から、一転。急展開。チェアのキャスターをうるさく鳴らして近付いてくるなり、デスクに身を乗り出し勢いよく食い付いてきた縢くんのせいで、危うく椅子から摺り落ちそうになった。
「ちょ、ちょっと、落ち着いてよ」
「無理無理、落ち着ける訳ないじゃないすか! うっしゃあ、ようやく職場に花が……」
 さっそく下心を膨らませ始めたのか、彼は小型犬にそっくりな瞳の中に桃色のきらめきを飛ばし始める。ゲンキンな人。驚愕などあっさりと通り越し、むしろ吹き出してしまう。彼の付近には冷静そのものの六合塚さんが座っているため、ふたりの凸凹なコントラストも面白い。拍車を駆ける。
「で、どんな子なんすか!?」
「え? うーん、人柄までは何とも。情報ぐらいはもう共有化されてると思うから、調査書見てみよう」
 マウスを動かし、タスクバーからデータベースを起動させる。ものの三秒で表示された調査書には、まだどこか固い表情をした女性の写真が添付されている。くりっとした、幼さと確かな意志を同時に感じさせる瞳と目が合った気がした。
「ほら、この子だよ。可愛いね」
「うおおマジだ……! あーっ、早く来月になんねーかなあ~」
 心なしか赤らんだ頬を覆い、縢くんがチェアをくるくると回転させ始めた。嬉しくてたまらないといったようす。お気に入りの餌を与えられた犬を彷彿とさせる。本当に、ゲンキンな人。だからたまに忘れてしまう。目の前の人が、同僚の人々が、基準値を大幅にオーバーした犯罪係数の持ち主であるという事実を。
「どれ。ほう、随分とまあ若いお嬢さんだな。一係も華やかになったもんだ」
 縢くんの騒ぎを見て興味が湧いたのだろう、征陸さんがディスプレイを覗き込む。
「征陸さんと並ぶと、孫とおじいちゃんみたいになるかも」
「おうおう、随分と言ってくれるな、姫さん」
「冗談ですよ」
 一係随一のベテラン執行官が大げさに肩を竦めるのに合わせ、天井のスピーカーから電子音声が流れ出した。
『――五時になりました。第一日勤の方は就業終了となります。お勤めご苦労さまでした』
 ガタン、と席を立つ音がふたつ重なる。
「失礼します」
 ひとつは六合塚さんの涼やかなもので、
「じゃあオレも退散しまーっすと! お疲れっしたー」
 もうひとつは縢くんだ。
 相変わらず見事な切り替えの速さだ。ふたりに手を振り、送り出す。つややかなポニーテールの背中と、典型的な今時の若者姿の背中が遠ざかる。オフィスに残されたのは三人だけ。くすんだベージュ色のトレンチコートを椅子にかけた中年男性と、書きたくもない始末書に頭を痛ませる私と、先ほどから一言も口にせぬままディスプレイに向かい合う、男性。

 本日の当直である宜野座さんが戻って来たのはしばらく後になった。私は先日起こった立て籠もり事件の残務処理に追われ、彼がオフィスに入って来たことに気付くまで時間を要した。
監視官」
「…………。ん? え、ああ。宜野座さん」
 はっとして顔を上げると、張り付けたような仏頂面と出くわす。彼の肩越しに、午後七時を示す液晶時計を認めた。
「まだ帰っていなかったのか?」
「はい、あと少しで終わるので。征陸さんならすぐ戻ってくるそうです」
「ああ」
 ほんの一瞬、宜野座さんの仏頂面に別の何かが混じったのを認めた。今夜は征陸さんも当直なのだが、今は他課からの呼び出しを受けて席を外している。それにしても、あまりよろしくないシフト設定だ。代わりたくはないが。
「宜野座さん、コーヒーいかがですか」
 タブレットに指を滑らせながら、宜野座さんが目だけで頷く。コーヒーサーバーから注がれる、濃い目に調節した液体の薫り。宜野座さんはミルクも砂糖も不要だ。
「じゃあ、私、お先に失礼します」
「ああ」
「コーヒー、サーバーにまだ残ってますから」
 給湯スペースを指差す。軽く頭を下げ、オフホワイトのショルダーバックを肩に負う。そうして私が自動ドアを潜ったのなら、オフィスに残るのは宜野座さんが叩くタブレットの音と空気清浄ファンが回り続ける音だけになる。時間のせいか、廊下には人気が見当たらず、広がる空虚さで自分の立ち位置を見失ってしまいそう。そう、ほんの一瞬だけ。次に目蓋を開いたときには元通りの正気を取り戻し、地下へと降りてゆく。エレベーターのガラス越しに見下ろす首都の夜景は、人工的な星々を散りばめたように虚構的。向かうのは自宅ではない。私よりずっと先にいつの間にか帰ってしまったひとりの執行官。彼の根城はノナタワーの地下に位置しているのだから。
 この仕事を始めた当時はずいぶん驚いたものだ。執行官宿舎が占める面積は予想外に広大である。各々が個室を宛がわれ、その部屋自体もひとりが暮らすには十分過ぎるほど。過不足なく住むことができるが、さすがに老朽化しつつある。加えて地下のため窓はなく、常に薄暗く湿気が上がりやすい。その点では監獄の様相を呈している。さながら牢屋兼住居だと言ったのは――きっと征陸さんだったろう。
 監視官たちは執行官宿舎への自由な立ち入りが全面的に許可されている。何時なんどきも監視官の猟犬として働くのが執行官のさだめ……これは、他でもない宜野座さんのせりふ。停止したエレベーターを出、ぼんやりと照らされた廊下の奥を目指す。古ぼけたリノリウムの床、色褪せた煉瓦の壁。部屋番号の下にある認証システムに手のひらを翳す。
『静脈配置・生体反応・感情起伏照合中――……。データ一致、正常。公安局刑事課一係所属監視官、様。どうぞご入室下さい』
 普遍的な女性電子音声と共に、薄暗い部屋へと続く道が甲斐甲斐しく拓ける。濃い煙草のフレーバーを含んだ空気が鼻腔にどっと流れ込む。おじゃましますの一言もなしに、そのまま奥へと忍び込んだ。部屋のあるじの姿が見えない。こつり、こつり。自分の足音がひどくよそよそしい。宿舎自体に拒絶されているようだ。紫煙の存在感は更に増すばかり。運動器具が雑然と並べられた横に鈍い色のソファがあって、それが私のお気に入り。バックを放り投げたとき、背後にて自動ドアが開く、短い音。
「……
「ははー、お邪魔してます」
 よれたシャツと褪せたジーンズの姿を見るに、シャワーでも浴びていたのだろう。狡噛くんは私に一瞥を投じ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して口に含む。私の存在など気にもかけていないような応対が、むしろありがたかった。
「もうご飯食べた?」
「適当に」
 くちびるをゆっくり拭うと、床に視線を落としながら彼は答える。
 こうして突然訪れようと、文句ひとつ言わないのが面白い。それが監視官への義務だと思っているのだとしたら、余計。いとも自然な動作で、横に座った人の肩に頭を預ける。一日の疲労がほどけていくような感覚に包まれる。何も起こらなかった一日なのに、それでも最低限の労働で四肢が重くなっていた。
「お腹減った……」
「食堂行かなかったのか」
「あ、そういう発想に至らなかった。早くここ来ようって思ってたし……何かもらってもいい?」
 彼が頷くなり、私は冷蔵庫を拝見しに立ち上がる。肩と筋が凝り固まって仕方がないからジャケットを脱ぐ。冷蔵庫には飲料水から買い置きの惣菜まで一通り揃っており、私はためらいなく鮭のおにぎりに手を伸ばした。そしてミネラルウォーターも一本片手に振り返ると、狡噛くんが性懲りもなく煙草に火を点けるところだった。
「隣で吸わないで」
 自室で何をしようが彼の勝手だけれど、煙草の煙は私がこの世で最も苦手なもののひとつだ。ヘビースモーカーだった父親を思い出す。その煙が嫌だとヒステリックに喚いていた母親も追加でイメージしてしまう。現在はふたりとも潜在犯として幽閉されており、もう顔を見ることはないのだが。
「無理な相談だな」
「これでも健康に気を使ってるんだってば、うわっ」
 嫌悪感もあらわな態度を隠さずにいたら、顔に煙を直接かけられてしまった。視界が灰色に覆われ、目尻にうっすらと涙が滲む。紫煙の向こうで男が微かに笑んだ気配がし、靴のヒールで足の甲を突いてやった。
「最悪」
 連鎖的に軽く咳き込んだ胸を抑え、けれど再び屈強な肩へと身を預けてしまう。天井に埋め込まれたLED照明のオレンジが、むやみに広い空間と、私たちの顔に朧な影を落としている。
「そういえば、新しい監査官のこと、聞いてたよね?」
「ああ」
「いい子かなあ」
「それこそどうだろうな。第一、いい監査官に出会った試しがない」
「嫌味ったらしいな」
 ぎろりと睨み付けた。すると、包装が取られた鮭おにぎりが差し出される。文句を言っても仕方がない、大人しく受け取る。
「でも、最低限、宜野座さんの言葉にへこたれないような人だといいな。人出は欲しいんだし」
 本音だった。
 それからはもう会話がない。私が米を咀嚼する音、狡噛くんが飽きもせず有毒な煙をたしなむ音。それだけが響いて、それだけで満足を覚えた。随分と空腹だったから、小ぶりなおにぎりふたつなんてあっという間に消費してしまった。
「ごちそう様。よし、私、帰るよ」
 おにぎりの包装をダストボックスに突っ込んで、バックを再び手に取り立ち上がる。足を組んで口元にフィルターを押し当てている男と視線が合う。灰皿には、無残にも真ん中辺りを折られた、用済みの吸殻たちの山。この部屋に辿り着いてから、ノスタルジックなアナログ腕時計の長い針が六つの数字を通り越した。たかが三十分、されど三十分。有益なる無駄遣い。ただ、私たちだけの空間で顔が見れればよかった。何がしたいという訳ではなかった。
 まだ湿っている黒い髪の下で、微かな青を含んだ瞳が、こちらだけを見ている。
「明日非番じゃなかったのか」
「うん、そうだけど」
「時間はあるんだろ」
「……うん、そうだけど」
 その先の言葉を、首を傾げて待ち望む。小賢しい気持ちばかりが重量を増してゆく。自分が挑戦的な笑みを浮かべているのが分かった。
「…………」
 結果として、一投されたのは言葉ではなく、低く這う体温を持つ腕だった。促されるまま、もう一度ソファにただいま。褪せた皮とスーツのスカートが擦れる短い音がした。どうして、この場所に猛烈な安堵を覚えてしまうのだろう。どうして、この場所じゃなければだめなのだろう。でも。きっと、わるいことは為していない。私のサイコパスは、常にクリアカラーの色相を保っている。つまり、この社会を牛耳るシステムに許された感情なのだ。からだを満たすそれにわざとらしい名前を授けるのは野暮な気がして、目の前の虹彩に焦点を合わせた。背に手を回す。歯車が噛み合う。ゆるやかな最後の一手は、引き金にかけた人指し指を信じるだけ。

 そうだ、今日は、引き金掃除にうってつけの日。

(12/10/29)