みことすがら

 さみしいものはみんな冷たくなってしまうんだ。
 だから、大嫌いを通り越して憎くなる。もしかしたらこの場所にはもう私だけしか残されていないのではないだろうか、なんて、馬鹿げた考えが生まれてしまうほどの静寂に、四方八方を囲まれているの。
 あまりにもさみしい。喉から吸引される乾いた空気の硬度がまっすぐに保たれ、日光に疲弊した草木たちがすべて寝静まるとき。いくつもの日々を経た石畳の廊下では、ただ歩いているだけなのに、耐えがたいほどの孤独が増幅される。さめざめとさみしい。血が流れた任務のあとに残るのは、抗い切れない生への執着心。生きていて良かったという安堵。ふたたび身体を納めるのは、円柱型の箱庭をかたち取った私たちのホーム。大きな棺桶のなかで生を味わうという矛盾。――たったひとりを捜し求めて走り続けることの、必死な惨めさ。
 そして、私の身体はいつだって冷え切っている。
 ねえ、けれど。目的の場所までは、あと、もう少し。得意中の得意だから、我慢ならばいくらだって重ねてみせる。神さまが望むような良い子に振る舞えさえする。「神田くん、さっき帰ったよ」。細い残像を残す言葉がリフレインしている。先ほど顔を合わせた室長によると、彼は教団に帰着するなり、傷の手当ても受けずに自室へと向かってしまったらしいのだ。
 さんざん痛め付けられたように古ぼけたドアが行く手に立ち塞がっている。ここまでの短くない疾走ですっかり切れた息を整えようと、中腰で深い呼吸を繰り返す。膝に手を付いた。明るく目立つ色をしているはずの髪も、こんな場所では漆黒のヴェールにしかならない。壁の至るところに灯された蝋燭の光が空気の揺らめきと同調して、動く。私は、はあ、と一呼吸。荒れて、荒れて、一向に納まらない。一秒でも早く顔が見たいのに。一音でも多く声が聞きたいのに。
「っは、あ」
 ようやっと落ち着いた。戸惑いと焦燥を完全には消し尽くせないままに、先走った指先を、シルバーのドアノブにそっと触れさせる。
 ――ぞっとするほど冷たい。
 予想外の温度におののいた心臓が、一際大きく跳ね上がる。
 この薄っぺらい壁を隔てた向こうに会いたくて仕方なかったひとが居ると考えるだけで、胸が高揚して頭が沸騰しそうになる。何をためらうことがあるというのだろう、今すぐに開け放って、そのひとの瞳を見据えて、いのちの在り処をひとつひとつ確かめたいのに、妙な緊張感が四肢を強張らせてしまう。だって、私、今、泣き出しそうな表情をしているはず。こんな表情を晒したくはない。
「おい」
 そうして数秒留まっていたら、聞き慣れた声と風貌が、ドアの向こうで私を出迎えてくれた。怪訝そうに細められた瞳。見紛うわけもない。……たったひとりのそのひと、だ。
「いつまで突っ立ってんだ」
 まさか彼のほうから迎えてくれるなど――予想していたはずもなくて、真顔で黙り込んでしまった。呆れてか、しっとりと湿った息を吐いた彼は、私の手首を引くなり、おぼろな月光が射す部屋へと促した。軋んだ音と共にドアが閉まる。ぱたり。相変わらず何もない殺風景な部屋。だから、私たちの存在だけが際立つ。

 ふたつの眼球は彼を捉えて離さない。
 ――しなやかな黒髪。
 ふたつの鼓膜は彼の声しか認識しない。
 ――高潔な音の重なり。

 私の持つ感覚のすべてが、そのひとだけをしっかりと感じ取った結果、泣き虫な透明がこぼれ落ちそうになった。
「……おかえりなさい」
「ああ」
 くちびるから生まれ出た言葉と共に力が抜けてしまったが、それに目敏く気付いた彼が優しく抱き留めてくれる。体重のままにしな垂れかかった。渇望していた胸元に崩れ落ちる幸福。耳許で響くあたたかな心音が、あまりにも、いとおしい。いのちが重なる感触だ。ただただ嬉しくて、広い胸板に顔を埋めれば、それ以上の言葉は何も生まれて来ないのが常だ。百パーセントの満足。じゅうぶん。
 情けない話、堪え切れずに涙が滲んだ。ぶっきらぼうにも宥めてくれる彼の手のひらは、こないだのそれと何ら変わりはない。まるで幼子のようにしゃくり上げる私の身体を……すっぽりと包み込んでしまう彼の匂いが、する。遠い異国の香のような、おごそかで神聖な和の香りだ。嗅覚の経路からしあわせが広がってゆく。
「コムイさんが言ってた。傷は、いいの?」
「もう治った」
 彼がけろりと言うので、それ以上の追及は避けるしかなくなってしまう。傷を負ったということは、少なからずの赤色を流したということだ。その、この世界では当然とも取れる事実が胸に重い。傷は痛みを齎すから。黒く淀んだ傷跡は熱を持つけれど、決してあたたかくはならないから。冷たいままだ。
 でも、良いのだ。私も、彼も。どちらも。その肌に浴びた血液の量が、被った傷の数が、最後に会った時よりずっと増えていたとしたって、根本的なところは何ひとつ変わっていないから、かまわない。彼は彼のまま、私は私のまま、溜め込んでいたぶんの膿を、しばしの抱擁で浄化してみせる。背に手を回し、麻のシャツに深い皺を寄せた。どれほどそうしていたのかは分からないが、気付けば、窓から覗く三日月の角度が先ほどよりも高くなっている気がした。目のまえの胸に音もなく手をついて、離れた。
「お香か何か焚いてる? いつもにおいするんだけど」
「そんな面倒な真似するかよ」
「だよね? ……でも、不思議なにおい。とっても、落ち着く」
 すん、と鼻をピク付かせると、例の香りがふんわりと漂う。離れ難さが深度を増し、無言のままふたたび身を寄せた。そうして今更気付いたのは、シャワーを浴びたのだろうか、彼の肌がじんわりとした熱を持っているということ。清潔感のある温もりと、こなれた香りのふたつに覆われて、私の心はなだらかになってしまう。極度の安心から眠くもなる。
 さっきから何も突き離さずにいてくれる細長い指先に自分のそれを絡ませると、やんわりと誘導して寝台へと腰を下ろした。神田は私の左に座っている。向かって右には大きな嵌め殺しの窓があり、降り注ぐ月光が儚い色を石畳のうえに落としていた。パズルみたいだと思った。
「神田。……神田」
 愚かなひとつ覚えのように名を呼んでいても、それ以上の何かを聞こうとはならないから、不思議だ。
 任務先はどんな街並みだったのか、美味しいご飯はあったのか、緑に溢れていたのか。私たちの本懐、イノセンスの有無。逃げてしまいたい戦闘の有無。ひとのいのちは、ねえ、どれくらい流れたのか。
 けれど、そんなこと、聞いてどうなるっていうの。今、ここには彼がいて、私がいる。顔を並べている。同じ酸素を肺腑に巡らせている。五つの指先を絡めている。それだけで、他には何も願えなくなるほど、じゅうぶんだったから。隣の彼は余計な言葉を生まないし、けれど、私の言葉にはちゃんと反応してくれる。肌に触れても文句ひとつ出さない。実に楽だった。
 彼の指同士のすきまに私の指を差し入れて、ぎゅうと嵌め合わせる。指先で作るパズルに彼も協力してくれた。視界の隅に入った、整ったかたちをした爪たちは、海辺の砂に無造作に混ざる貝がらに見えた。すぐそばにあったものだからついでだと、彼の肩に頭を乗せてみたのだが、重いとも言われなかった。代わりに――私の頭のうえには、もうひとつの頭が乗せられる。胸が温度を持ったのは気のせいではないだろう。最後に、繋がったままだった手を腿に置くと、いよいよひとつの生命体になれたような心地がした。
「神田、髪、結わせて」
 ふたりきりのときにはいつも望んでいるお願いごとを今日も口にすると、彼は鋭い瞳だけで良の返事を返した。手を離すのは惜しかったけれど、さっさとブーツを脱ぎ、長いこと主人を喪ったままだったベッドへと乗り上げる。ギシリと痛そうに軋んだ。広い背中に向かい合うと、白シャツと黒髪のコントラストが夜へと混じって一体化してしまいそうで、何も言えなくなってしまう。
 団服のポケットに入れて来た髪紐を取り出し、シーツのうえに伸ばした。長めの、深い群青色をしたじょうぶな組み紐で、私が作ったものだ。指通りの滑らかな髪をそっと中央へ寄せ、彼の背のまんなかに人差し指を立てた。
「ふたつ結び?」
「断る」
「もう、冗談だってば。ひとつね。そうだな、いつもと逆の、右耳のそばでいいかな」
「邪魔じゃなけりゃ何でも」
 にべもない返答に笑いをこぼす。腰まである、規則的に切り添えられた黒を右耳のほうへと寄せ、ひとくくりの束を作る。横からそっと窺った彼は目蓋を下ろしていて、芸術的な睫毛が美しいカーブを描いているのが見えた。余分なクセのない直線的な髪は扱いやすく、思い通りに纏ってくれる。
 大人しくされるがままになってくれている彼の背が――、一ヶ月ぶりに見る彼の背が、どうやらとても好きだなあと感じたので、つい、くちびるを触れさせたくなってしまった。けれど、どうせならくちびる同士が良かったから、くすぐったい衝動を胸のなかにしまい込み、シーツのうえに寝かせていた紐を手に取る。髪の束を幾度か巻くようにして纏め上げ、最後の仕上げとして小さな蝶を作り上げる。余った紐が、露わなうなじに線を引く。黒を留める青は、彼が頭を動かすたびに揺れて、きらりと艶めいてくれるだろう。できるなら、そのようすを飽きるまで見つめていたい。
「はい、できたよ」
 ああ、という低音にくちびるの角度をゆるめて。静けさだけを抱いた夜闇のなかに白く浮き上がる……とっても無防備に思える首に、するりと腕を絡ませた。何の反応もないけれど、何の反論もないことこそが了承のあかし。したいがままに肩口へと顔を寄せれば、芯まで黒い髪が私の頬を掠め、えもいわれぬ甘さに浸れてしまう。すっかり、ふたりきりだ。
 彼の表情を確かめる勇気はなかった。彼の瞳に映り込むものを確かめたくはなかった。今は、ただ。私の腕にそっと触れ返してくれた、長く細く骨ばった指先が伝えて来る確かな情愛だけで、じゅうぶん。小さな部屋、私たちのためだけに存在する、私たち。

「この髪紐、あげるから。使ってあげて」
 ふるえる言葉をまぶしてみせた耳許は、あたたかかった。

 最初で最後の、きみへの贈り物。
 いつの日か私の形見になる。

(07/03/08)