青の深度

 どこまでもが青だ。空の色をもっと濃厚に、とことん煮詰めてやったような青藍。この島はそんな青に四方を囲まれている。島は海に浮かんでいるのだから当然だと言えばそこまでだけれど、ヨナはその事実を反芻して考えた。この島はとても小さく、一日あれば余裕で一周できてしまう。秘境の地など、あるべくもない。けれど、本土からさほど離れていない場所に位置するため、市民が無理のない範囲で週末の非日常を過ごすには最適だと重宝されている。ヨナの周囲にもそんな市民のすがたが多くあり、かしましくない程度の賑わいを見せていた。そのなかには仲間たちの背も紛れている。皆、各々の時間を満喫している。ヨナはすぐそばの白い砂を掬い上げてみた。さらりと、指のあいだを滑り抜けて零れ落ちてゆく。落ちた砂粒たちは小さな山を作った。
「海辺でたそがれるヨナに問題です。この砂はなぜ白いのでしょう?」
 落ち着いた、それでいて可憐さを残した声に振り返る。女性が立っていた。白いリボンがぐるりと巻かれた、大きな麦わら帽が彼女の笑顔に淡い影を落としている。彼女は、滅多に着ることのないワンピースの裾を海風で揺らしていた。ココ護衛部隊のひとり、だ。
「……海が汚れていないから?」
 ヨナは、少し逡巡してから答える。
「半分正解だよ」
 はにっこりと唇を引くと、ヨナの隣に腰を落ち着けた。砂がさらりと微かな音を立てる。さわやかな風も吹き、潮のにおいが濃厚さを増した。
も、先ほどのヨナと同じように手で砂を掬ってみせる。
「この砂たちは、ずっと前は岩だったんだ。堅い岩石が波に削られ続けるうち、砂に変わっていった。それで、その岩というのが白っぽかったから、こんなふうに白い砂浜になったわけなの。単純だね。元となる岩石の性質で砂浜の色は変わる。でも、海水汚染が原因で砂の色が淀むこともあるから、ヨナの答えは半分が正解」
は物知りだ」
「ふふ。ありがとう」
 ヨナが漏らした素直な感想に、は嬉しそうに口元をほころばせる。実際のところ、彼女は仲間内でいちばん博識なのではないだろうか。少なくとも、ヨナは、にそういったカテゴライズをしている。本来ならば彼女のような年齢の女性では持ち得るべくもない知識の糸が、その頭の中に数えきれないほど紡がれている。は、仲間内との談笑の折々で知識の片鱗を垣間見せていた。
 そんな彼女に教えられた知識をもう一度踏まえた上で、ヨナは砂浜に視線を落としてみる。以前とは百八十度も違った印象を受けた。白い粒が寄り集まって岩石を成しているすがたを想像し、砂と岩石の間に隔たるイメージの差に愕然としたのだ。
「……ふ。ふふっ」
 ヨナをじっと見つめていたがくちびるに手を当てた。風に花がそよぐように、の背が揺れる。
「何?」
「君の考えてることが手に取るように分かったの。大きな岩を想像した?」
 図星を言い当てられ、ヨナは小さく頷く。はひとの心情を見透かす能力にも長けているのだろうか。少年は疑問に思った。
「そういう素直なところってヨナの美点だと思うな。……あ、ねえ、せっかくだからちょっと入らない? ルツたちもいるし」
 はヨナの銀髪を愛おしげに一撫ですると、寄せては返す群青を指差した。その先には腰辺りまで海に浸かっているルツたちがいる。ヨナは相変わらずの無表情のまま頷き、立ち上がった。砂に足が沈み、望むように進めない。さくり、さくりと、形容し難い音がする。ふと足許を見やると、ヨナの手のひらよりもずっと小さいカニたちが列を成してまっすぐに歩いていた。彼らのほうが砂浜の歩行をずっと上手にやってのけている。
「ルツ、トージョ、ヨナも混ざりたいって」
 波がくるぶしをくすぐる位置にまで来ていた。年甲斐もなく、日ごろの鬱憤晴らしに海遊びをしていたルツが振り返る。太陽と同じ色をしている髪が跳ねた。
「おー、ヨナ坊じゃんか。いーぜ。は入らねーの?」
「ワンピース脱がないといけないから先に遊んでて。あ、前みたいにヨナを投げないでよ?」
 水色の裾を引っ張りながら忠告をひとつ置いて、は踵を返した。
「珍しいな、が海に入るなんて」
 トレードマーク兼アイデンティティの眼鏡を額に乗せ、トージョがつぶやく。武器商人のふるさとは海だと言っても過言ではないくらい、ココたち一行は多くの日々を船上で過ごしている。そのため、休憩を兼ねて各地のビーチに寄る機会が少なくない。けれど――少なくともヨナの記憶では――が泳ぐ姿を見たことがなかった。たいてい、岩場で涼みながら本を開き、紙の間に広がる世界に没頭している。
「良かったなあヨナ坊、の水着は貴重だ」
「ふうん」
「ったく、ヨナ坊はまだまだガキだな」
 いつの間にかそばに来ていたアールにからかわれようと、ヨナはいつもの無表情を崩さない。小柄ながらも戦士として磨かれた身体を海水に浮かばせる。上も、下も、青だ。時折、ヨナの肩には水が打ち付けられ、ぱしゃりという音を立てる。耳朶に水滴が伝う。ココのそばに居場所を見付けてからというもの、ヨナの世界面積は驚くほどの広がりをみせた。以前は、海など目にしたことすらなかったというのに。今はこうして、海鳥の声色が耳に優しい。ぬるい海水の愛撫が心地よい。
「ヨナ、わたしと泳ごう」
 白い綿を浮かばせた青から目を逸らせると、着替えてきたらしいがいた。彼女の指先は、少し離れ岩場を指している。あそこまで泳ごうという提案なのだろう。ヨナは頷き、体勢を整えた。
「ヨナが勝ったら、美味しいもの食べさせてあげる」
 まぶしい太陽を背に、は屈託なく笑った。



 が酸素を求めて水面から顔を上げたとき、ヨナは既に岩場に辿り着いていた。案の定の結果に微笑みながら褐色の背に近付いていく。皮膚から幾粒も伝った海水が、乗り上げたコンクリートの岩場に濃い染みを広げる。はあ、と思い切りの一呼吸。見上げた空は、心なしか青の濃度を増していた。
「ヨナ、早いよ」
が遅いんだ」
「嘘。全力で泳いだんだけど……」
 その言葉に嘘偽りなどなかった。事実、の肺も腕も足も、揃って疲労を訴え出している。
「……ヨナは人魚なの?」
 問いながら、は白い鱗を輝かせる褐色肌の人魚を想像した。とても、とても、美しい。
「まさか、違うよ」
 ヨナの返答は、相変わらず最短かつ端的だ。はくすりと笑う。無表情と見せかけて、この子の内側には豊かな感情が広がっている――彼女は思う。すっかり海水を吸って頭に張り付いてしまっている銀髪に触れると、ヨナの虹彩の中に、ごくごく僅かな戸惑いが生まれる。
「銀色の髪と褐色の肌を持つ人魚だなんて、さぞかし人目を引くだろうね。おまけに瞳は赤いなんて」
 は、ヨナから視線をこれっぽっちも動かさず続ける。知りたがりの本能が、好奇心のかたまりが、ヨナの瞳の奥に鎮座している何かを探したがっていた。
ヨナは何も言わない。
「……。よーし、あっち、行く? さっきから皆の視線感じるし。皆のヨナを独り占めしちゃ、怒られちゃうね。特にココさん」
 は立ち上がり、体に張り付く水着の端を指先で引っ張った。水平線の向こう側まで見えてしまいそうだ。海上には幾つものヨットが散らばっている。様々な色彩と模様を凝らした帆で穏やかな風を受け、夏の孤島にはこれ以上ないほどよく似合う地中海的風景を広げていた。
、もう一度泳ごう」
 ……はた、と。は振り返った。ただただまっすぐな瞳とぶつかってしまう。
「いいよ。どこまでも泳ごうか」
 悪戯っぽく笑ってみせたに、ヨナは、うっすらとした微笑みを返した。

 どぼん、と水音。
 大小も色も形も違う、ふたつの肉体が海に睦んだ。

 水を掻く指先はぬるい水温に晒されて、すっかり痺れている。ばしゃり、ぱしゃり、ばしゃり。仲間たちの背中を目指し、とヨナは暫しの水泳に意識を集中させる。皮膚のすべてを水に包まれ、羊水に浮かぶ胎児のような心地に浸る。には、潮騒の音がやけに遠く感ぜられた。

(12/10/30)