Diced Diamond, Died

「どうして殺したの?」
 無機質なオフホワイトに覆われた病室に、言葉は吸い込まれていく。その人の、枷がぐるりと一周してある手首は、ベッド脇の柵に括り付けられており痛ましい。そんな重しを科さずとも、私のドミネーターに撃ち抜かれた彼女は身動きひとつ取れない状態のはず。とにかく、あくまでひとつの形式として存在する代物なのだ。私の無意味な質問も、彼女の自由を奪う枷も。
「……どうして、殺したの?」
 私は繰り返す。
 ゆうべ最愛の恋人を手にかけたばかりの執行対象は、視線だけは天井から動かさぬまま、ようやくその重い口を開いた。



 若い女性が恋人の首を一息で掻き切るという猟奇事件だったとしても、報告書はいつも通り簡単に仕上がってしまった。ほとんどテンプレート化している作業だ、何ら難点はない。固まった肩を回しながら眺めたオフィスには誰の姿もなかった。この一室と通路を隔てるガラスドア越しに、同様に人っ子ひとり見当たらない対面のオフィスを覗く。最低限の明度に絞られたLED照明が「がらんどう」を強調している。そういえば、もう九時をとっくに過ぎていた。きちんとした福利厚生の恩恵を受ける公務員なら帰宅していて当然の時間だ。

 仕上がったばかりの報告書を上司の端末へ送信する。エンターキーの一押しだけで、今回の凄惨極まる事件は遠い向こうへ飛んでいった。ミッションコンプリート。憂鬱に満ちた事情聴取も午前中にこなした。清潔な病室のシングルベッドで……そこに死なせた恋人の姿でも思い描いているのか、天井をぼんやりと見ていたあの女性。痴情のもつれから色相を淀ませ、犯罪係数を大幅に上昇させ、愛したはずの人をみずから殺め、私の手から放たれたパラライザーを身に受けて。そして。この幸福な社会から異端として隔離されることとなった、女性。
 ――これ以上考えるのは、もうやめよう。
 遅ればせながらも、前述したような恵まれた公務員の一員になるべく、荷物を纏めてオフィスを後にする。あくびがひとつ漏れた。当直担当の縢くんと弥生ちゃんはおそらく食堂にでもいるのだろう。

 決して褒められた決意ではないと重々承知していたけれど、駅のホームで乗車位置に並んだときにはもう、宜野座さんの自宅へ向かおうと決めていた。車内ドア上部に設置された液晶画面では、明日の千代田区で予想されるエリアストレス数値がアナウンスされている。ストレス対策サプリの出番はなさそうだ。ふだんと違う目的駅に若干の違和感を抱きつつも、ローヒールをかつりと鳴らして下車する。数十秒ごとに表示が切り替わるホログラム広告で彩られた電車は、あっという間にホームを去った。数秒遅れで大きな風が吹き抜け、髪が一気に乱れる。病室の清潔過ぎるにおいが漂った気がした。
 もう随分と訪れ続けているその部屋の、番号も位置も佇まいも、私の脳裏には明確に記憶されていた。インターフォンを鳴らしたときに遭遇する、不機嫌極まりないといった住人の応答も。
「こんばんは」
 渋々といった様子で開いたドアの先、宜野座さんは相変わらずの無表情で私を見据える。音もなくため息を吐かれた気がした。レンズの向こうにある彼の瞳に焦点を合わせるなり、私の体内に巣食う何かがホッと息を吐く。
 彼がくちびるを曲げたまま背を向けたので、閉じかかったドアに身を滑り込ませるようにして部屋に入った。自動的にロックが掛かる。がしゃりという、些か大げさに過ぎる音が、死刑囚用牢屋の南京錠をイメージさせた。
「お邪魔します」
「――いつも言っているだろう、来るならそうと連絡しろと」
 曖昧な笑みではぐらかす。住人の趣味なのだろう……内装ホログラム機能が切られた、家具と装飾の少ない殺風景な部屋。促されてもいないうちに腰を沈めたソファの合皮が身体にしっくり馴染んだ。
 彼の言葉の裏を返し、好意的な解釈をするならば、連絡を入れさえすれば来ていいという意味になる。私の口端がふっと緩むのに合わせ、宜野座さんの表情が更に険しくなる。
「……
「うん、ごめんなさい」
「反省する意図がないのに謝るのは止めろ」
「はい」
 にへら、と気の抜けたような笑顔を浮かべる。もちろん反省はしていた。他人の自宅を訪れるというのに連絡を入れないなど非常識だと考えている。けれど、どうも私はこの上司を困らせてやりたいという気持ちを常々持て余しているのだった。
キッチンへと向かう上司の背をぼんやりと眺め、声をかけた。
「ご飯、食べました?」
「とっくに済ませたが」
 かちゃり、という陶器を扱う生活音が聞こえる。
「それは残念。あと、さっき報告書を送ったんですけど」
「ああ、確認した」
 戻ってきた彼の手から白いマグを受け取る。「ありがとう」。外気で冷却された手はまるでいびつなつららが五本並んでいるようで、マグ越しのコーヒーが温もりを染み込ませてくれた。ひとくち飲みこめば、それが内膜にまで浸透する。ほんのりと甘い。角砂糖一個の気遣いがありがたかった。ふたくち目をすぐに頂く。
 丁度こぶしふたつ分の距離を置いた場所に宜野座さんが腰かけ、ソファが軽くワンバウンドした。液晶から流れる深夜ニュースは昨日の猟奇事件に一ミリも触れぬまま続いていく。私が、私たちが、目にしたことや手にかけたものは、こうやって何気なく薄れていく。
 すぐそばの人は口を噤んだまま。少し下がった眼鏡の位置を気にすることもないまま、コーヒー(おそらく余計なものが一切混ぜられていない)を飲み続けるまま、私のそばにいるまま。
 会話の中身も、満ちる空気も、オフィスにいるときと大して変わらないのが事実だ。けれど、ふたりきりかつ彼の自宅という重要なファクターが、ただの時間を安寧溢れる代物にまで昇華させる。
 私は今、本当の意味で呼吸をしていた。
 半分ほど質量の減ったマグをテーブルに置いて、そっとくちびるを開く。
「宜野座さん、手、出してください」
 いきなりの要求に、彼の怪訝そうな視線が寄せられるのが分かった。
「……何だ、唐突に」
「何も怖いことはしませんよ。でも、右手、貸してください」
 まるで注射を怖がる子供を宥めすかしているようで、喉の奥で笑いを殺した。
疑わしげに目を細めながらも、彼がこちらへと左手を伸ばす。私はバッグの中からハンドクリームを引っ掴んで腿の上に転がした。平たく、私よりもずっと長い指を五本も持った左手にそっと触れる。ジュエリーボックスを開けるときよりずっと丁寧で厳かなる手付きにて、触れる。思いのほかあたたかい。この温もりは、飲んだばかりのコーヒーより、私に馴染む要素をずっと多く含んでいるではないか。
「マッサージ、してもいいですか?」
 首を傾げて了解を求める。数秒の沈黙が流れた後、きっと彼はこう言うのだ。「好きにしろ」。
「好きにしろ」
 ほら、こうなった。嬉しさから瞳をほころばせて、遠慮なく彼の手のひらに触れ続けた。本当はマッサージ専用のオイルがあればベストなのだが、ハンドクリームでも事足りる。上を向かせた手のひらに、気持ち多目のクリームを捻り出す。まずはそれを均一に、指先から手首に至るまで塗り広げていく。周囲に散らばったチェリーブロッサムのフレーバーがメルヘンな空気を作り出すのに、当の本人は穏やかさの欠片もない仏頂面を張り付けている。
「指、きれい」
 ほとんどひとりごとに近いつぶやきだった。
 すらりと長く伸びた指の先にはきちんと設計されたかのように完璧な形の爪が嵌め込まれている。その、ダイヤモンドを平たく均したような透明にも、クリームを軽く塗り込む。
「痛くないですか? あと、力はこれくらいでいいですか?」
 親指の付け根をゆっくりと強く押す。宜野座さんは何も言わず、二度ほど頷いただけだった。彼の鋭い視線が私の手元に食い入るように注がれていて気恥ずかしい。
ただの素人に過ぎない私でも、こうして揉み解してやるだけで手のひらが軽くなるのを知っている。血流が良くなり、冬の手のひらに熱が齎されるのだ。
「思いのほか上手いな。どこで覚えたんだ」
 大して感心もしていないのだろうが、宜野座さんはそう褒めた。
「サロンでやってもらったらすごく気持ち良くって、それで覚えようかなって――ん、ここ凝ってる」
 親指の根から手首まで続くなだらかな丘を一際丁寧に押し解す。
「……」
「あ、痛いですか?」
「少しな」
 ほんのわずかながら額の中央へ寄った眉を持て余し、宜野座さんはそんな強がりで私を笑わせる。
「はい、次は左手出してください」
 充分に柔らかくなった彼の右手を解放してやり、今度は左手に取りかかる。棘のある言葉で私を刺すのは止めたのか、宜野座さんは口を噤み、されるがままを甘受していた。眼鏡のレンズ越しに覗く端正な目元を一瞥すると、またしても視線が直線を結んだ。私たちはふたりとも、随分と遠慮なく視線をかち合わせることのできる人間だ。
「宜野座さん、胃腸が弱ってるみたいですよ。きちんと食べてないでしょ」
「手に触れただけでそんなことが分かるのか」
「まあ。それなりに」
 ツボを押した感触と宜野座さんの反応のふたつを鑑みた上で導いた、忌憚のない私の意見である。
「嫌じゃなければ、消化のいいもの作って差し上げますよ」
「そんなもの、クッキングマシンで事足りる」
「ですけどね。たまには、人の作ったものも良いかなって」
 視線は宜野座さんの手に落としたまま、微笑んでみせた。
「そういえば君は料理をするのか」
「はい。でも、さすがに毎日はしませんよ。今時便利なマシンがありますし。でも、そう、たまーに、包丁で野菜を切ってみたり、卵を割ってみたりしたくなるんです。工作に似てるからかな。あと、スープを煮込むときの音が好きで」
 銀色の艶が美しい鍋の内側で具材が美味しくなっていくようすを想像するだけで、脳裏にはささやかな幸福が広がった。そういえば、短くない付き合いの中で、宜野座さんに料理を食べて貰ったことはなかった。
 左手の薬指を挟むように押し、それを長いことキープする。五本ある指をくまなくマッサージするにはいかんせんそれなりの時間がかかるため、何気なく宜野座さんの表情を伺ったときには五分強の時間が過ぎ去っていただろう。
 ――私の手はスイッチを切られたように止まってしまった。
「…………うそ」
 寝ている。
 すう、という規則正しい息が、静寂の満ちた部屋にひとすじの衝撃を走らせた。
 ふむ、と私は顎に指を当てた。
 確かに、マッサージ中に眠りたくなる気持ちは十分分かる。けれど、あの宜野座さんがそんな状態に陥るなど、いったい誰が予想したというのか。私の手も思考も、何もかも、一瞬で動くことを止めた。
 触れた箇所から断続的に伝わってくるものが、心なしか甘くなった。彼の呼吸音と鼓動が重なる。わずかに俯いた寝顔をこれ幸いとばかりに眺めた。長い前髪の分け目から覗く瞳には目蓋の封がなされていて、鋭い眼球の代わりに確認できるのは整った睫毛だけだった。男性にしておくには勿体ないと、素直な感想が漏れる。
 きっと、疲れているんだ。
 私の拙いハンドマッサージだけであっさりと表層意識を手放してしまえるぐらいには、疲労が層を成して重なっているはずだ。愛おしみから頬に指を伸ばしかけるのを、思い留まる。少しでもいい、彼が安らぎを味わえていればそれでいい。握ったままの手に温もり以外の何かが灯る。黒く濁る炭素を生む、ちょっとやそっとでは消せない炎。

『あの人はのうのうと眠っていたわ』
『だから、アタシはあの人の喉に手をかけたの』
『呼吸するみたいに嘘を吐く人だったから、呼吸を奪ってあげようと思った訳』
『人なんてあっけなく死んじゃうのね』
『あーんなに、愛してたのに』

 ふと、午前中の取り調べを思い出す。
 あの女性は、そんなふうに攻撃的な言葉を並べ立て、自身の起こした事件を私に語り聞かせた。私は淡々と質問を突き立て、記録し、できるだけ早く病室を去った。
 彼女の心情を慮ることはできない。許されない。自らの為にも、してはならない。
 だから私は、すぐそばで無意識の海に浸かる人だけを見つめることにした。その瞳が再び開いたとき、いのいちばんに認識してもらうために。早く目を開けて欲しいと祈るのに特別な理由はなかった。今、私の目の前には決して失えない唯一がある。

(12/11/16)