Season of Sweetness

 その古書店を出たのは、もう夜と呼べる時間帯に差し掛かろうとしていた頃合いだった。初老の店主との会話が思いのほか盛り上がってしまい、腰を上げるタイミングを見失ってしまったのである。同好の士との出会いは貴重だ。時を忘れ、出された紅茶が冷めてしまうことも忘れ、話題を膨らませてしまうのも、仕方のない話ではあった。
 目的の品も無事に手に入り、心は満たされ、浮き足立つ。私は茶の紙袋に包まれた古書を胸に抱え直すと、帰路を急いだ。
 街はすっかりハロウィン一色の様相である。カボチャを整形し作られたランタンがあちこちに浮遊し、おぼろな橙の明かりで路地の煉瓦壁を照らしていた。行き交う住人は皆思い思いの仮装に身を包み、賑わう目抜き通りを楽しげに闊歩する。お化けや魔女の格好をした子どもが多い。住民が一丸となって盛大にハロウィンを祝うことで有名な街らしく、その熱量には目を見張るものがあった。
「ねぇねぇ、おねえちゃん!」
 祭に沸く街のようすを眺めていたところ、ふいに服の裾を掴む小さな手があった。振り向けば、白い幽霊の仮装をしたエルーンの少年がふたり、無邪気な笑顔で私を見上げている。顔がよく似ていた。双子だろうか。
「何か用かな? 可愛い幽霊さん」
 身を屈め、視線を合わせた状態で問うと、彼らはパッと花が咲いたような笑顔を見せた。
「トリック・オア・トリート、だよ!」
「ふふ、そうだね。じゃあ、これをあげる」
 ジャケットのポケットから取り出したチョコレートを数粒ずつ、小さな手のひらに乗せてやる。橙と紫の可愛らしい包装紙を見て、ひまわりにも似た笑顔が浮かぶ。
「ありがとう、おねえちゃん」
「どういたしまして。気を付けて遊んでね」
 元気に頷くと、子どもは元気いっぱいに駆け出し、雑踏の只中へ消えていった。ポケットにはまだ幾らか菓子が残っているから、宿へ辿り付くまでに今のような子どもに出くわしても、充分間に合うだろう。
 だが、そんな甘い予想は簡単に裏切られてしまった。
 初めに出会った双子が、友達に私の存在を伝えたらしい。一体どこから現れるのか、子どもたちは引っ切り無しに駆け寄ってきてはお約束の台詞を口にするので、困り果ててしまった。あまりの神出鬼没さは、本物の幽霊のようだった。当然、菓子の在庫など瞬く間に切れてしまい、街中の出店で飴やクッキーを山ほど買い足す羽目になった。いささかくたびれてしまったが、腕白で悪戯上手な子どもたちの陽気に釣られて、思いのほか楽しむことができた。
 きのうから宿泊している宿屋は街の外れに位置しており、到着までには少し時間を要した。人気のまばらな細い通りに面する、煉瓦壁の3階建てがそれだ。さすがにこの辺りではもう子どもを見かけない。閑散とした夜の群青が広がり、天空を穿つ月から降り注ぐ冴えた光が、私の足許に細長い影を落としている。すっかり空っぽになったポケットに手を入れ、カボチャのランプに照らされた宿の入口をくぐった。ロビーで編み物をしている経営者の老婦人から鍵を受け取り、傾斜の厳しい階段を昇る。すれ違う客はない。ハロウィンの催し物目当てで足を運ぶ観光客は中心部の宿を利用するから、この辺りの施設では閑古鳥が鳴いているのだ。
 二階の突き当たりが私の部屋だった。やけに重い真鍮の鍵を差し込む一瞬前、はたと動きを止める。耳に痛いぐらいの静寂。分厚い木材のドアの中、確かに人の気配を感じたのだ。私は息を潜めると、腰のホルスターに納めた小型のナイフに手をかけた。極力音を立てずに開錠し、そっとドアノブを押せば、きい、と幽霊の声にも似た音を立てながら、扉がゆっくりと開いていった。
 入口の直線上。通りに面した大窓のすぐそばに、影があった。
 ぎくりとして、半歩後ずさる。やけに細く、背の高い……蝙蝠のような輪郭から目が離せない。すらりとしなやかに伸びた体。闇に溶ける暗褐色の外套。窓から入り込む月光が逆光となり、顔は見えなかった。
「遅いな」
 ハロウィンに乗じて姿を現した亡霊ではなかろうかと半ば本気で思ったとき、その影は、随分と聞き慣れた声を発した。
「…………ユーステス」
 影の正体が既知の人物であったと気付いた瞬間、体が一気に脱力した。私は大げさな溜め息を吐き、後ろ手にドアを閉じる。よくよく見れば、影には犬のような立派な耳があるではないか。
「肝が冷えたんだけど……。来るなら言って欲しいな。ていうか、どうやって入ったの?」
 手に握ったままだったナイフをホルスターに納める。いかにも困り果てたという声音で追及すれば、影はこともなげに答えた。
「窓だ」
 悪漢でないだけ御の字かもしれないが、この心臓の高鳴りと冷や汗に対し、どう責任を取ってもらえばいいのだろう。溜め息混じりにガス灯と燭台に火を灯すと、薄暗い室内がようやく照らし上げられた。相変わらず窓際に佇んだままのユーステスを見る。
「あれ……何、その恰好?」
 確かに普段とは異なる衣装だとは思ったが、薄暗い視界では仔細の確認まではできなかった。だが明度を上げた今、ユーステスが身を包んでいるあの衣装は一体なんだろう? 基調に敷かれたのは紳士然とした黒のスーツ。蝙蝠の羽根を思わせる長い外套の裏地には真紅があしらわれており、ハッとさせられるような色気があった。柔らかそうな右耳のすぐ横には羽根飾りが差されている。
 そう、これでは、まるで――。
「ヴァンパイアの仮装?」
「仮装ではない。変装だ」
 心外だと言わんばかりにユーステスは答えた。聞けば、組織の任務に於いて必要性があったため袖を通しただけだと言う。こんな仮装染みた変装を要する仕事とは何だと当然の疑問が浮上するが、問うのは面倒だった。返答があるとも思わない。そんなことより、質問ならいくらでもある。
「そっか。それにしても、よくここにいるって分かったね」
「グランから聞いた」
 まあ、順当な出所だ。己が所属する騎空団の団長に、居所を教えておくのは当然の義務である。団員は散開して行動することも多い。私もそのひとりで、今回は自らの目的――聖晶獣に関する民話を収集した珍本――のために一時グランサイファーを離れ、この街にやって来た。だが偶然にも、グランとルリア達も同じ街を訪れている。ハロウィンで賑わう地で暫しの息抜きだということだった。まさか、ユーステスまで居るとはさすがに予想外だったが……。どうやら彼に与えられた任務は既に完了したらしい。そのままグランサイファーに帰還する予定だったが、グランたちから私の居所を聞き及んで、こちらへ来たのだと言われた。
「あーあ、もうバレてるんだろうな……」
 グランがこの宿をユーステスに教えた理由。そんなもの、考えなくともすぐに理解できる。
「お前、隠しているつもりだったのか?」
 平然と答えるユーステスが少しばかり憎らしい。隠匿していたつもりも、するつもりも、余りない。ただ、妙な気恥しさがあるだけだ。
「ううん、訊かれたら答えようとはぼんやり思ってたけど。……そっかぁ、グラン知ってるんだ」
 随分と年下だというのに、侮れない男である。やはり団長なだけはある、ということだろうか。奇妙な徒労感を覚え、目の前のユーステスにもたれかかると、ジャケットの滑らかな感触が額に伝わった。手を伸ばして確かめた羽根飾りも、フェイクなどではない。全てがきちんと一級品だ。こんな脚の長いエルーンにぴったりと合う衣装など、オーダーメイドとしか思えない。彼が属する組織とやらは、想像以上に潤沢な資金を持っているようだ。衣装の趣味も悪くないようだし……。
 ふと思い立ち、私は一歩引いて、ユーステスの全身を眺めた。彼は怪訝そうに目を細めたが、一向に気にせず、そう、じっくり。たっぷりと。普段とは装いを変えた男の姿はシンプルに新鮮だ。しかも、狂おしいほど似合っている。パーツだけ見れば冷徹で端正なつくりをしている彼には、闇のような黒や艶やかな真紅もよく合うのだ。服装に特別こだわりのないタイプだからこそ、たまのおしゃれが類まれな劇薬と化すのかもしれない。新たな発見をした気分だった。
「すごい、かっこいいね」
「……そうか」
「正直、見蕩れてる」
「………そうか」
 賛辞を重ねるたび、ユーステスの沈黙が僅かに延びる。薄いアイスブルーの瞳は、少し、揺らいでいるように見えた。感情の起伏が表情に現れにくいタイプの男だが、今、彼は確かに、照れている。こういう瞬間に遭遇するたび、私は、――到底こらえ切れなくなってしまう。彼をベッドに座らせて、上から覆い被さるように口唇を塞いだ。この、薄く柔らかく生暖かい器官との睦み合いに勝る優先事項なんて、何ひとつありはしない。滑らかな白手袋に包まれた指先が、後頭部をゆっくりと撫でてきた。長い腕が背に回る。
 たまらず舌を絡ませたあたりで、些細な違和感を覚えた。そっと口唇を放す。誘っているとしか思えない、膨大な熱を飼った瞳と目が合う。私は右手の親指を使って、ユーステスの上口唇を軽く捲り上げた。
「……きみ、いつの間に牙なんて生えたの?」
 そこには、まさしく刃のような牙が一揃い、犬歯の位置に納まっているのだった。物珍しさから指の腹で撫でてみたところ、きちんと硬質だ。
「そんなものを好き好んで生やした覚えはない。仮装の一環だ」
 彼が喋るたび、生まれたての息が手のひらにまぶされてくすぐったい。
「本格的過ぎるよ」
 ユーステスの歯を不躾に撫でていた指を離し、私は苦笑する。猛獣を思わせる牙と、氷の宝石にも似た顔貌は、これ以上ないほどしっくりと合致していた。細部に至るまで気を抜かない彼とその組織には頭が下がる。妙な話ではあるが。
「本物の吸血鬼には、こんな可愛い耳はないけどね」
 エルーン族特有の獣耳を優しく撫でると、ハロウィンに現れた吸血鬼が、口を開いて鋭利な牙を見せつけてきた。あっと身を引く間もなく、今度は自分が引き寄せられてしまう。有無を言わせぬ、しかし強引ではない腕によってベッドに転がされた。ものの三秒でマウントポジションを奪ったユーステスは、口を噤んだまま外套を脱ぎ捨てると、私の上にゆっくりと覆い被さる。月光の色をした髪が重力に従って揺れ、普段は隠れがちな彼の右目があらわになった。真っ直ぐに、こちらを見据えている。
「吸血鬼が眷属を作る方法は知ってるか?」
「血を飲むんでしょ? ヴァンピィたちに聞いたことがある」
「そうらしいな」
 ユーステスは白手袋を外すと、ぞんざいにシーツへ放り捨てた。絹に包まれていた、浅黒く細長い指先が、私の喉元に伸ばされる。ひんやりとした感触に身を震わせる間もなく、肩口には頭が埋まった。浮き上がる筋に這わされる舌は驚くほど熱く、喉の奥から短い悲鳴が漏れる。気を良くしたのか、ユーステスは息だけで笑う。急激に体温が上がっていく自分を認識する。たまらなくなって目蓋を閉じると、首筋の薄い皮膚に、何か、先端が尖ったものが――ふたつ、立てられた。
「あ」
 動物が獲物を半殺しにする過程のように、ユーステスの歯は、やわやわと薄い皮膚を食んだ。このまま勢いよく噛み付かれるかもしれない、という本能的な恐怖が脳髄に走る。だが――一方では、皮膚に浅く沈む歯がもたらす刺激を、確かにひとつの快感として受け取っている自分もいるのだ。
「う、……っ、……なんで、噛むの……」
 ユーステスが、私の首許から顔を上げる。視界がぼやけない程度の近距離で、軽く睨みつけてやることぐらいしか、私に出来ることはない。
「吸血鬼らしい振る舞いをしてやろうかと思ってな」
 そんな、いけしゃあしゃあと。唖然として、空いた口が塞がらない。
「忘れたか? トリック・オア・トリートだ」
 今日この一日だけ許される常套句を、よりにもよって今、ふたつの体温で温まりつつあるシーツの上で、ユーステスは口にする。私はボトムスのポケットに手を入れた。奇跡は起こらない。何もない空間を探り当てる指に緊張が走る。いよいよ、諦めた。
「……お菓子、ないよ」
「そうか。残念だったな」
 そう答えた彼の声音に喜悦が含まれていたのは、私の勘違いでは、なかっただろう。


 翌日の昼下がり、肩を並べてグランサイファーに帰還した私たちを見付けるなり、グランはニコニコと人のいい笑みを浮かべた。明確な言葉こそなかったが、彼の笑顔は私に「ぜんぶ分かってるよ」と告げているような気がしてならない。自分では上手く隠し果せていると思っていた秘密が、とっくの昔に周知の事実であったことを、未だ飲み込み切れずにいる。
「ユーステス」
「なんだ」
「グランサイファーに居るときは、少し、控えよっか……」
「何をだ? 主語のない会話はやめろ」
 見上げたユーステスは平然として、今日も今日とて賑やかな船内のようすを細目で眺めている。私は彼の脇腹をごく僅かな力で抓り、そのまま走って逃げた。そう、まるで、悪戯をはたらく子どものように。
 こぢんまりとした私室に戻り、戦利品である古書を仕事机に乗せる。ふいに、壁に立てかけてある鏡が気になった。服の襟を大きく開いた状態で、自分の姿を確認する。数秒後、微かに腫れた口唇から、気の抜けた溜め息が漏れ出ていく。ハロウィンはたった一日きりでも、こればかりは時間の経過を待つほかない。微かに痛み、甘い熱を孕む頭を上げ、もう一度鏡の中を覗き込んだ。祭のあと。首筋にはハッキリと、誰かの悪戯の痕跡が残されている。

(16/11/13)