嬰児と愛猫

 あの人に会うまでに髪を切ろうと思っていた。

 イギリスの冷涼な気候に慣れ切った体は、インドネシアの湿気と温度を三秒感じただけで項垂れてしまう。暑さに耐え兼ね、クリップで髪を留めてやれば、あらわになったうなじが少しだけ涼しくなる。温暖な地域に滞在するならば長髪などお荷物でしかない。肌はどこもかしこもうっすらと汗ばみ始めている。不快感が拭い切れない。今すぐロンドンに戻ってしまいたいのが正直なところだ。
 異国の言語が行き交う国際空港を出るなり、まぶしい光景が目に飛び込んでくる。四方へと這うように枝を伸ばした熱帯の木々、アスファルト上に発生した陽炎で歪む景色。入国ゲートを出てからたかだか数分程度しか経過していないというのに、体はすっかり火照っていた。午後を迎えた南国の太陽はいっそ殺人鬼ですらある。暑い。それしか考えられない。
、タクシーを使うべきだわ」
 横に並ぶリネットがタクシー乗り場を指差す。まったくもって同感だ。南国が孕む熱から一時退却するために、キャリーバック片手に空調の効いた車内へさっさと乗り込むことにした。
「グラン・メリアまで」
「はいよ。お客さん、お仕事で?」
 走り出すタクシー。後部座席を軽く振り返る運転手は肌の芯までこの国の陽に焼かれていた。
「はい。しばらく滞在するんですけど、おすすめのお店とかあります?」
「うーん。どうだろうなあ。オレが言うのもなんだけど、治安も良くないからね。夜の一人歩きはやめときなよ。まあ、お客さん日本人みたいだし、やっぱブロックMが定番かもな」
 ブロックMとはジャカルタ随一のショッピングエリアだ。インドネシア入りするにあたり、噂ぐらいは耳にしている。レストランやデパートが多く立ち並ぶ区域で、日本人をターゲットにした店舗も多い。私にとって比較的過ごしやすい地域と言えるだろう。ただ、やはり気がかりなのが治安だ。いくら護衛のリネットが居るとはいえ、気安い調子で出歩く気分にはなれない。
「ありがとう」
 運賃とチップを渡し下車すると、目の前には不可思議な形をしたホテルが悠然と聳え立っていた。これがグラン・メリアだ。二棟の白い長方形を屋根型にくっ付けた後、その前部に空いたスペースに、長方形よりやや背の低い正方形をぐっと詰め寄せてやったような――大雑把に言ってしまうとそんな外観だ。
「変な見た目だけど、豪華だね」
「そうねえ。一応は三ツ星ホテルの名がある訳だし」
 リネットは悪戯っぽい笑みを浮かべ、ストレートのブロンドを熱風で揺らした。現地人やビジネスマンで混み合う通りを抜け、エントランスをくぐる。広々とした吹き抜け構造のホテルロビーは上質なデザインで纏め上げられ、豪華絢爛たる熱帯地を完璧なまでに体現していた。大理石で統一されたフロア、マットなゴールドに輝く天井と無垢色の柱のコントラスト。一瞬で空気に飲まれる。果たしてこんな身に余る場所に泊まってよいのかと一瞬疑問に思ったが、予約手続きを済ませたのは会社側なのだから問題ないだろう。
 HCLIの提携会社へと足を運ぶ機会が増えたのは、今年に入ってからだ。私が一段階の昇進を果たしたことによる悪影響のひとつとも言える。研究室に閉じ籠もってディスプレイを睨む仕事ばかり続けていたものだから、室長補佐になった今、月に三度程度で下される出張命令には辟易としていた。今回のように国外へ足を運ぶことも少なくない。また、兵器開発事業を旨とする私たちの出張には少なからず危険が伴うため、リネットのような護衛担当員の随伴が義務付けられている。
「すみません、予約を取った者なのですが」
 フロントでは何と日本人女性のスタッフが対応してくれた。名前と用件を告げると、女性はゆっくりと頭を下げた。彼女の、深みある赤の制服すらインテリアの一部としてしっくり溶け込んでいた。
「はい、ご予約を承っております。様ですね。この度は当ホテルをご利用頂きありがとうございます」
 異国の地で聞く日本語の何とくすぐったいことか。私は照れ臭くなってしまった。あるいは嬉しかったのかもしれない。仕事と日常生活の都合上、英語ばかり使役しているためだろうか。礼儀正しいホテルマンの後ろにつき、エレベーターで上階へと向かう。ともかく、母国語が通じる環境というのはありがたい。
 部屋はダブルで、じゅうぶん過ぎる広さだった。突き当たりの大きな窓から遠慮なく差し込む夕陽のきらめきがレースカーテンを透かしている。壁に沿って並んだベッドの対面には現代的な液晶テレビが備え付けられていた。
 豪勢な一室に、私はいっそ気が引けてしまう。
「まあ、素敵なカウチ」
 室内の安全点検を終えたリネットがつぶやく。彼女の長い指先が、カウチの流線を愛でるように撫でる。思う存分ゆったりと腰かけられるであろう、そのカウチには、可愛らしい大きさのクッションが散らばっている。レトロとモダンの折衷といった雰囲気だ。
 荷物から衣服を出し、すべてハンガーにかけておく。冷房が効き過ぎて寒いくらいだった。とりあえず、今日はもう何も予定がない。社の方に無事ホテル入りした旨を連絡してしまえば、自由な時間の始まりだ。移動に時間を食ったからか、窓の外では赤く滲んだ陽が暮れ始めた。外出するのはどうも気が進まないし、長いフライトによる疲労もある。けれど、せっかく施設が充実したホテルにいるのだし、じっと部屋にいるのもつまらない、かもしれない。
 ライティングデスクに置かれたホテルのパンフレットが目を引いた。
「リネット、ここ、バーラウンジあるみたいなんだけど行ってみない? おごるよ」
 点々と灯り始めた夜のネオンを眺めていたリネットだが、私の言葉に振り向く。
「あら、いいの?」
「いいよ、たまにはおごらせて」
 いつもお世話になっているお礼だと加えると、リネットは肩を竦めて苦笑を浮かべた。
「そっちじゃないわ。あなた、いつの間にお酒強くなったのかしら?」
「……うーん。じゃあビュッフェにしようか。ここの有名みたい。――あ、日本食もある」
 パンフレットには寿司の写真も載っていた。
「素敵」
 リネットはにっこりと微笑んだ。さすがに二日酔いを引きずったまま取引先に向かう訳にはいかない、今日はノンアルコールで我慢しよう。
 上機嫌のリネットを連れ、部屋を出ようと思った矢先、それは鳴り響いた。
 タブレットを見やる。のっぴきならない名前が表示されていた。――通話ボタンを押すか否か。数秒悩んでしまった。声を聞きたいのは確かだが、彼との会話の先にあるものがどうにも怖くて、ためらいに揺れる。
 隣では、実に愉快そうな表情のリネットが私のジレンマが行く先を見守っていた。
 けれど、結局、繋いでしまうのだ。
『やあ、。久しぶりだね』
「……久しぶりだね、キャスパー」



 用意周到とは、まさしく彼を形容するにふさわしい熟語だ。電話口でジャカルタにいることを告げると、何と彼も滞在しているとのたまうではないか。呆れ果て、ぽかんと口を開いたまま数秒固まってしまったが、別段珍しいことでも何でもない。キャスパー・ヘクマティアルとはそういう男なのだから。いつだって突然電話をかけてきて、会いたいという言葉で私を絆し、最後にはまた自分の世界へと帰っていく。
『インドネシアはお気に召したかい?』
 意味もなく楽しげに話すキャスパーによると、彼は数日前からインドネシアでの仕事を続けていて、明日の昼には次の目的地である日本へ向かうのだという。
『君が構わないなら、今からそちらに行ってもいいかな』
 私はわざとらしくため息を吐いてから、いいよ、とだけ口にした。我ながら、おおよそ半月振りに会う恋人への態度とは思えなかったが、気にしていたら負けだ。
 キャスパー一行がホテルのドアをノックしたのはそれから一時間後、時刻が夕方から夜へとシフトした頃合いだった。
「ハーイ、
「チェキータさん。お久しぶりです。エドガーさんたちも」
 ドアを開き、中を促す。ひらひらとチェキータさんが手のひらを揺らした。雇い主を囲うようにして警護する男性陣にも頭を下げる。そして、彼等の真ん中に、その人がいるのだ。
「仕事は順調みたいだな、
 久しぶりに顔を合わせるキャスパーは、相も変わらずとらえどころのない微笑みを携えていた。白皙の美貌には似つかわしくない笑みだ。
「それほどでも。というか、ずーっと研究職だったのに、今は出張が多くて慣れないの」
「すぐ慣れるさ」
 いくら広い一室とはいえ、大の大人が六人も居座れば狭く感じる。部屋の安全を一通り確認した後、キャスパーの護衛ご一行は私の制止も聞かずにさっさと出て行ってしまった。チェキータさんの、意味ありげに投げられた視線と「ごゆっくり、プリンツェーサ」の言葉がやけに余韻強い。プリンツェーサとは姫を意味するロシア語だったっけ――でももうそんな言葉で嬉しがる年齢ではない。
 そこでハッとする。要らぬ気を利かせたか、リネットまでもが退室しているではないか。顔には決して出さぬよう、けれど激しく動揺した。あっという間にふたりきりになってしまった部屋で、落ち着きを上手く捕まえられずにいる私。とりあえずキャスパーをソファへ促して、私も隣に腰を下ろす。こうして顔を突き合わせるのは十五日振りになるはずなのに、昨日もこうして顔を合わせていたかのような親近感を懐く。もう何年も続いている間柄なのに、いつだって新鮮さと緊張感に包まれる。
「……私がジャカルタにいるって知ってたでしょ」
 私はいよいよ諦めるしかなくなって、口火を切ることにした。
「ついでにこのホテルに泊まるってのも聞いたからな」
「やっぱり。タイミング良すぎるからおかしいって思ったんだよ」
 私の淹れたコーヒーを一口飲んで、キャスパーは口元をゆるめた。
「でも、僕が今夜空いてるっていうのは完全なる偶然だ」
「私の出張に合わせて仕事を入れたとかじゃなくて?」
「まさか。君も随分と自惚れるようになったなあ。でも、もっと自惚れてくれたって構わない」
 フフーフ、という独特の笑いを浮かべてから、キャスパーはそう口にした。そして瞳をそっと細め、銀色の睫毛で頬に半透明の影を作る。それが予感だった。抱き寄せられる予感だ。
 予感はものの見事に的中し、次の瞬間には予想外にたくましい胸元に嵌め込まれてしまう。あたたかさにまどろもうとする瞳を閉じて、彼の首元にそっと頭を乗せた。シャツにファンデーションのまだらを残さないことは社会人のマナーのひとつだ。ほのかに甘いにおいが鼻腔を満たす。その香水の名を、私は知らない。知ったら最後、購入したのちに手元に末永く置いてしまうだろう。
「……化粧が移っても知らないからね」
「君に限ってそんなミスはしない」
 背に手を回すのが気恥ずかしくて強がってみせたとて、キャスパーには通用しない。うう、と不貞腐れるしかなかった。まるで猫にするように、彼は私の頭頂部に頬をすり寄せてきた。
「なんでこんなに暑いとこ来ちゃったんだろ。ロンドンに帰りたい」思わず本音が漏れる。
「そう言うな。『こんなに暑いとこ』ばかりで仕事をしているこっちの身にもなってくれよ」
「仕事なんだものしょうがないでしょ」
「なら君にも同じことが言えるな」
「……降参です。あーあ、ロンドン帰りたいなぁ」
「料理はインドネシアの方が美味いぞ」
 きっぱり言うと、キャスパーは私から体を離し、その代わりに首元へと手を伸ばしてきた。相変わらず随分と大きな手だ。そしてまた、猫にするように、私の喉を撫でさする。私もまた、猫がするように、瞳を閉じて心地よさを示した。やぶさかでもない、といった感じで。あいにく、ごろごろと喉を鳴らすことはできなかったが。
「インドネシア料理って、そういえば食べたことないかも」
「勿体ない人生を送ってきたんだなあ、は」
「ずっと会社に缶詰めだった人を労わる言葉がそれなの? キャスパーはバーガーが食べられれば世界じゅうどこだって構わない人なんだし、アメリカ支社がお似合いだと思ってたんだけど」
 何の因果でこんな暑いところに生きる羽目になっちゃったんだろうね、と私は続けた。すぐそばの男は真っ青な瞳を一度だけゆっくり瞬かせて、そのあと深みのある笑みを浮かべた。
「その点に関しては僕も同意だ。まったく、何でアメリカ地区担当になれなかったんだか」
「バーガー好きのキャスパーに対するフロイド社長の嫌がらせに一票」
 ふたりして声を出して笑う。窓の外、あんなふうに夜景がすばらしく綺麗な異国にいて、私たちは延々とくだらない、気の休まる会話に興じた。
 髪をゆったりと撫でる指先の感触がいつまでも残り続けるのを覚悟しなければいけない。

 こうして私はまた、髪を切るタイミングを逃す。

(13/08/24)