Paradise is nowhere.

 そのひとが無心でタブレット端末を確認する横顔を、オルガ・イツカはしばらくのあいだ飽きもせず眺めていた。液晶に滑らされる手指はあくまで細く滑らかなのに、土埃や差し油で汚れている。動き易さを第一に考えた服装も、同様だ。
 彼女は液晶を睨んでいた瞳を、隣に立つCGS――クリュセ・ガード・セキュリティ――の整備士へと移した。液晶上部を指先で叩いて示し、煙草を吹かす彼に確認する。
「ねえ雪之丞さん、参番組の機体の、脚部の修理パーツ、ちょっと在庫怪しいね。次の納品に含めておく?」
「ああ、それなんだがなァ、何分予算が降りねえもんでよ」
 そう答えるのは、雪之丞と呼ばれた恰幅のいい中年整備士だった。彼はこのCGSでも腕利きの整備士であり、主にモビルワーカーを担当している、オルガとも馴染み深い一人だった。紫煙を肺腑の奥にまで吸い込みながら、すまねえな、と苦い表情を作る。
「うーん、そっか」
 芳しくない雪之丞の返事に、そのひとは――は肩を落とし、息をつく。彼女とて、こんなちっぽけな民間警備会社にそこまでの余裕があるとは思っていない。モビルワーカーの銃弾補填さえ渋る有様の会社なのだ。大体、彼女のような――彼女の『叔父』のような――武器商人を呼べるのが月に一度あるかないか、というお粗末な点でも察しているだろう。
「まだしばらくは大丈夫だと思うけど……とりあえず、私が次に来るまでは持つかな。ここのモビルワーカー、旧式の旧式ってところの型だし、修理パーツの発注ひとつでも手間かかるからね」
「おう。何とか上さんには相談しとくからよ。……っと、わりぃな、俺ァこの後その上さんに呼ばれてんだ。何か入用ならそこのオルガに言ってくれ」
 雪之丞からオルガへ、意味深な視線が投げられる。何をする訳でもなく近くの壁に寄りかかっていたオルガは眉を顰めてしまった。俺は小間使いか何かなのか? いや、日常訓練の合間の暇潰しという名目で、在庫チェックに励むのところへ顔を出したのは確かだが……。
「じゃあな」
 ひらひらと手を振り、颯爽と去っていく、どっしりとした後ろ姿。オルガは「おやっさん」と呼び慕う彼のからかいに舌打ちでも鳴らしたい気分になったが、何とか抑えた。反らした視線の先、オルガより幾分も背の低い小柄な女が、操作していたタブレットを荷物に押し込み、後片付けに取り掛かっている。彼女がきびきび動くたび、高く結い上げられたポニーテールが揺れ動いていた。
「んーでも私の仕事もほとんど終わりだから……ねえオルガ、」
「おう」
 呼ばれた。壁に預けていた肩を離し、ワークブーツの足を鳴らしての許へ向かう。荷物をまとめた彼女の横に並ぶと、自然、見下げる形になる。一仕事を終えたは、幾分かスッキリした顔でオルガを見上げた。そして直ぐ、何かに気付いたように目を顰める。
「? なんだよ」
「や、オルガ、また背伸びたなと思って」
「そぉかあ? お前、先月も来ただろ」
 オルガは大げさに、そして皮肉気に肩を竦める。身長なんて測定していないから、真偽のほどは分からない。のポニーテールがオルガの胸の辺りで揺れる。は確か、オルガよりひとつかふたつ年上だったはずだが、成長はもう完全にストップしているようだ。会う度に長くなる黒髪とは裏腹に、背丈は平均的な段階で止まっている。
「男子三日会わざれば刮目して見よ、ってことわざがあってね」
 そんなは、傍らのモビルワーカーに寄りかかりつつ、言う。まるで耳にしたことのない話に、オルガは目を細めた。
「なんだそりゃ」
「男の子は短期間で急成長しちゃう生きものだ、って意味でいいと思う。オルガはほんとうに背がおおきいねえ」
「おいおい、俺の姉貴かよ」
 あはは、とは屈託なく笑った。その幼い、化粧っ気のない頬は、姉のイメージからはまるで遠い。
「オルガはあんまり、弟って感じはしないね」
「だろうな」
「むしろ私が妹っていうかさ……」
「それは勘弁願いてぇけどよ」
 はいつも、武器商人を営む『叔父』と共にCGSを訪れる。CGSが保有する武器は、彼女の叔父の伝手でCGS社長たるマルバが購入したものが殆どだ。は叔父の事業を手伝う傍ら、移動の多い彼に付き添い、火星のあちこちへ足を運んでいる。
 だからだろうか。はいつも、オルガの知らない事柄をよく話す。ことわざ、おとぎ話、街に蔓延るうわさ。
 CGSに溢れる少年兵たちは皆、のような外部業者の訪れを基本的には歓迎している。外から吹込む風が、少年の好奇心を刺激し、満たすこともあるからだ。
「あ、そうだ、お兄ちゃんって言えば、ビスケットってどこにいる?」
「ビスケット?」
 ふいにの口唇から出た仲間の名前に、目を丸くする。
「うん。ビスケットが好きそうな本、いくつか持ってきたから、貰ってもらおうかなって」
 それはビスケットも喜ぶだろう。彼はCGSの少年兵の中でも珍しい、識字能力がある。加えて趣味は読書だ。の気遣いを喜ぶに違いない。――というところまで考えて、オルガは自分の眉間に浅い皺が寄っていることに気付いた。皺の理由にはくだらない心当たりしかない。振り払うように、目を閉じた。
 ――そのタイミングで、がオルガの腕を叩く。
「ね、そういえばオルガにも渡したいものがあって、」
 そう言って、は自分の荷物を探り出した。屈んだ背中のカットソーが捲れ上がって背中が見えている、というのは後程注意するとして、オルガはしばし彼女を見守った。そうして一分も経たないうちに、目的のものを発掘したのだろう、彼女はささやかな笑顔と共に腰を上げ、それを掲げた。
「これこれ。」
 ちいさな小箱だった。小さく振ると、かたりという、中身の詰まった音がする。どうやら菓子の類のようだが、品名までは確認できない。オルガはの手許を覗き込んだ。
「ん? なんだこりゃ」
「チョコレート。叔父さんがね、地球に住んでる知り合いから貰ったらしくて、私にもくれたんだけど……」
 が赤い小箱を開くと、スティック状の包みがふたつ現れた。鈍い金色を放つ包み紙に覆われ、いかにも高級品の様相を成している。結構な厚みもあるそれを、は細い指先で転がした。
「ふたつしか入ってないでしょ? ほんとはみんなにもあげたかったんだけど、ね。申し訳ないけど、私たちだけの秘密ってことで、食べようよ」
 なるほどな、とオルガは頷く。確かにこういった嗜好品は少年兵にとっては褒美にも近い品だ。は叔父経由で手に入れた嗜好品をこっそりとオルガたちに流してくれる。しかしそれはいつも、全員に行き渡る数が予め用意されていた。今回のように「ふたりだけで」など初の出来事である。
 オルガは指を伸ばし、の手に転がるチョコレートを、ひとつ摘まんだ。
「なら、ありがたくいただくか」
「うん」
 包み紙を剥がし、艶のある色をしたチョコレートを取り出す。子どもの中指ぐらいの長さがあったが、ふたりとも惜しむことなく一口でいただいた。数秒後、舌上でとろけはじめた甘い熱に、の目許はすっかりゆるんでいた。オルガの視線に気付いた彼女が顔を上げ、視線がからむ。おいしいね、と瞳が告げている。
 オルガは目許をほころばせ、彼がいつもそうするように、礼を告げた。
「サンキュな」
 モビルワーカーを納めた第二ハンガーでは、しばらくのあいだ、いとけない子どものようなふたりが微笑んでいた。

(15/10/17)