Venous Blood

 いつもと何ら変わりのないはずの夜に隠れた綻びでも、三日月・オーガスならいとも容易に見付け出してしまうこと。
 はそれをすっかり忘れていた。ぎくりとした胸の内を表情には出さぬまま、今、向かいに佇む三日月の瞳を見つめる。彼の双眸にを責める色はまるでない。ただ目の前の現実に相対する、力強さだけがあった。それでも尚、何か無意識の内に犯した小さな罪を咎められているような居心地の悪さを感じてしまうのは、自意識過剰だろうか。
「オルガのにおいがする、」
 すん、と鼻を鳴らして。口を噤んだを促すように。もう一度、三日月は重ねて言うのだった。深夜、ふたり以外に人気のない基地通路には、彼の平坦な声音がよく響いた。は胸の奥を強く縊られたような気持ちになって、代わりに右手で強く握り拳を作った。
 今夜も変わらず機械室でトレーニングにでも励んでいたのだろう、わずかに見下ろす三日月の額は少し汗ばんでいた。つい、三十秒前。が微笑みと共にその額を撫でたとき、三日月はぽつりと口にしたのである。からオルガのにおいがする、と。
 予想外の指摘に驚き、は思わず三日月から手を離そうとして――できなかった。さすが彼は行動が早い。よりいくらか身長の低い小柄な三日月の、けれどそこばかりはより一回りも大きな手のひらで、手首を掴まれていた。
 あまり長さはない、しかし皮下の骨の太さをありありと感じさせる三日月の指に触れられながら、はあろうことかオルガの指を思い出していた。まったくつくづく、ふたりは似ていない。ともすれば水と油。猫と犬。AとZ。なのにこんなにも、同質。
「今まで一緒にいたから。社長室で」
「ふうん。そう」
 余計な詮索をしないのが三日月の常だ。その性質にひとすじの感謝さえ抱きながら、は未だ熱の残る身体を捩らせた。
「……三日月は? これから寝るところ?」
 に問われた古馴染みは、ちいさく首を横に振った。
「いや、これから夜警当番。交代の時間なんだ」
 ギャラルホルンの襲撃以後、元CGSの面々は管制塔での夜警を欠かさないように努めている。三日月はその重要な役目を率先して請け負っているらしい。管制塔の最上層で闇夜に落ちた荒野を見下ろす姿をゆうべ見かけた。
 何が起ころうと不思議ではないこの状況で、自分が先程まで浸っていたものを思い、は密かに自嘲する。三日月に未だ捕われたままの手首に一瞥を落とす。彼の肌はよりも少し黄味が強い。爪は短く切り揃えられ、手の甲には擦過傷が走っている。も似たり寄ったりだ。機械油と鉄錆、土埃に慣れた肌。
「あのさ。
「うん?」
「眠れそうにないんだったら、管制塔にでも居ればいいんじゃないの?」
 三日月のちいさな口から想定外の提案が飛び出して来たために、は驚き、目を見開いた。
「よく、眠くないって分かったね」
「目が冴えてるから」
 その目許をわずかに緩ませ、三日月はの手を解放した。何度か瞬きを繰り返し、は逡巡する。日付を跨ごうとしているにも関わらず全く眠気がやって来ないのは確かだったが――野生動物を思わせる直感的な指摘は、三日月が幼い時分から持つ特徴のひとつだ。「オルガのにおいがする」然り。
 そういえば、どんなに上手く嘘を吐いたと思っても、三日月には簡単に見抜かれたことがあったなと、はふと幼い時代を思い出した。三日月と、それからオルガと三人、狭い路地の隙間で食糧と体温を分け合っていた過去の光景。
「管制塔……。じゃあ、そうしようかな。三日月と久しぶりに話もしたい。私がいても平気?」
「平気じゃなきゃ提案しないよ。あそこ、結構寒いんだ。人が多いと助かる。……ていうか、話すって、何を?」
 三日月は心底「わからない」といった顔を浮かべた。
「いろいろ。いっぱいだよ」
 例えば、彼の手首に嵌められた手作りのブレスレットであるとか。話題ならいくらでも提供できる気がした。何せも三日月も、ここ数日で怒涛の経験を積み重ねている。ネタには事欠かない。
 気を取り直し、三日月と基地本部のエントランスへ向かう。
 火星の十一月はそれなりに冷える。外へ一歩踏み出した瞬間、の肩はぶるりと震えた。すると、するりと右の手のひらを繋がれる。三日月の、いつの間にかよりも育ってしまった左手は、昼日中の陽を吸い溜めたようにあたたかかった。
 ちらと見た三日月の横顔に、彼らが進む明日への不安がないことを認め、安堵を覚える。三日月には迷いがない。いや、迷う暇がない、と言った方が正しい。一瞬の判断が未来を決める世界に長く居る人間は大抵がそうだ。潔さを盾に風を切り、強く歩いていく。は三日月の背が好きだった。泥だらけになりながらも、生命力に満ち溢れた、みっつ並ぶ隆起。
「寒い。大分冷えてきたね」
「その割に、の手はあったかいけど」
「そう? 三日月の体温が移ったのかもしれない」
 見上げる星々は今夜も儚い瞬きを煌めかせ、荒野を無感情に見下ろしている。管制塔に向かう短い道すがら、三日月はジャケットの右ポケットに幾度か手を突っ込み、乾燥させた火星ヤシを摘まんで食していた。
「ひとつちょうだい」
「ん、」
 分け前をねだれば、口唇の前に一口大の果実が差し出される。餌を差し出された雛鳥の要領で口に含み噛み締めると、深みのある甘さが舌上に広がった。ハズレではなかったらしい。
 管制塔は当然の如く無人だ。人間の息づかいのない、無機質な建築物へと足を踏み入れる。三日月が、一階に常備されたカンテラライトに火を灯した。ギャラルホルンの一件で損傷した管制塔は電気系統が故障しており、蛍光灯の利用ができない状況になっている。薄暗い通路に、三日月との、種類の違う足音がふたつ響く。
 最上階に辿り着くと、三日月は窓際のデスクにカンテラライトを置いた。おぼろげな橙色が彼のいとけない横顔を照らす。
「今から、夜明けまで?」
 彼が頷いた。数時間の夜警など慣れた仕事なのだろう。何てことはないという表情で、デスク脇の椅子を二脚窓際まで移動させ、その片方に腰かける。
 は暫し、目前に広がるクリュセ郊外を見下ろした。荒野に四方を囲まれたこの基地からは星空が良く見える。ちいさな星々の瞬きが、未来の分かれ道に立たされたみなしごの基地を見守っている。
「……やっぱり少し寒いね」
 外に面した窓硝子は全て砕け散り、吹き曝しの状態である。割れた破片の処理は終わっているが、窓硝子の交換までは手が回っていない。何の遮蔽物もなく夜風が入り込み、は身を縮こまらせた。すると、
「毛布ならあるけど」
 はい、と背後から柔らかい温もりに包まれる。グレージュのブランケットからは様々な他人のにおいがした。共用なのだろう。一旦は包まれたそれを身から外し、じゅうぶんな面積があることを確認してから、は三日月の隣、空き椅子に腰を下ろした。
「はい。三日月も入って、」
 ブランケットを捲り上げ、視線で促す。数秒の間もなく、三日月はすぐ内側に身を滑り込ませてきた。十分な面積のあるそれを、ふたりの身体にぎゅうと巻き付ける。三日月の着ているジャケットがに触れ、押し潰された。乾いた大地のにおいがした。
「子どもの頃もこんなことしたね」
 懐かしみながら、三日月に視線をやる。顔同士の距離が近くとも妙な気恥ずかしさが生まれないのは、付き合いの長さがそうさせるのだろうか。三日月は頷きながらそっと身を寄せてくる。その視線はクリュセの荒野に真っ直ぐ注がれたままだ。
 隙間なく触れ合うふたつの肉体。の身体の深層にはまだオルガの体温が残っている。三日月はそれが、恋しいのだろうか。はだいぶ見当違いなことを考えた。
「ねえ三日月。地球と火星では、見える星座があんまり変わらないんだって」
「よく知ってんね。また本?」
「ううん。これは地球にいた人から直接聞いた。だから三日月、きょうの星、覚えてて。後で地球に着いたあと、答え合わせしようよ」
「覚えてられる自信ないよ。俺バカだしさ」
「じゃあ私が覚えてるから」
「頼りにしてる」
 優しい口角で三日月が笑うので、もそれに倣った。隣り合う肩があたたかい。夜明けまでのあと数時間、こうして穏やかに体温を分け合えるといい。星座の名前や配置なんていくらも覚えていないが、いつか地球の大地の上で、今夜を思い返したい。

 の肩に顔を寄せ、三日月がまた、すん、と鼻を鳴らした。

(15/12/05)