完璧な映画

「目蓋の裏で完璧な映画を上映するんだ」
 もはや幾度目か知れないあやまちを犯す段になったとき、マクギリスはの耳許で親切に囁いたのだった。
 彼の手は、の衣服を懇切丁寧に剥ぎ取っている途中だった。信じられないものを見るような目で、はマクギリスを見上げる。重力に従って垂れたブロンドに、だけを捉える一対の碧玉。何ひとつ欠点のない横顔を、寝室のムードライトがぼんやりと照らし上げている。
 この人は今、何と言ったのだろうか。
「君の思うがままの登場人物を、銀幕で自由に動かしてやればいい。何せ君の幻想の監督は君だ。どんな出来だろうと誰も咎めやしない」
 凍て付いた氷のように冷え切った、大きな掌がの鎖骨に触れる。骨まで凍らせるような温度に、思わず背筋が跳ね上がる。マクギリスは息だけで笑った。にはその気配が感ぜられた。
 手足には何の枷も嵌められていなかったが、逃げ道など最初からひとつもなかった。自由な身体に宿る精神は、とっくに牢獄入りしている。懲罰は未だ何ひとつとして始まっていない。これまでの経験則から理解している、マクギリスが自分に齎す万事を思い返すだけで、の脆弱な芯は崩壊寸前だ。

 口に出された音が己の名前だと判断するまで、五秒はかかった。じゃれつく猫にそうするように、なだらかな喉の起伏を愛撫される。白手袋の、きめ細かい絹だけが持つ滑らかさが身体の上澄みをなぞるたび、息さえも微かに震えた。期待に、恐怖に、あるいは病熱に。
 そうだ。――完璧な映画を、上映する。
「それが君の出来る、唯一の抵抗じゃないか?」
 滑らかに取り去られた衣服はベッド下に墜落し、以後は沈黙を続けている。もはや下着しか身を守るもののないとは対照的に、マクギリスの纏うギャラルホルンの隊服には乱れと云うものがまったく存在しない。
 樹の根を思わせる彼の指先が離れていく。手袋を外す気になったらしい。覆うべき中身を失った白の絹がシーツに落ちる。マクギリスは爪の形まで完璧だった。その事実を、視界的ではなく、触覚的な情報によっては得た。もの言えぬ口唇に長い指が二本、差し込まれている。やわく、傷が付かぬように掴み上げられた赤い舌。粘ついた粘膜を指の腹で丹念に撫でられるたび、背の中心に電撃が走った。
「……ふ、」
 そうこうしている間に続けて一本、咥内への侵入者が増えた。耳を覆いたくなるような粘着質の水音が断続的に鳴り響き、がらんどうの寝室を歪な熱で満たしていく。性に慣らされた身体だけが、の心を置き去りにしたまま、自分勝手に昂ぶっていった。上顎で円を描く人差し指。指の股に挟み込まれた舌が助けを求めて泣いている。ことさらに敏感で脆弱な舌を、いたずらに引っかかれてしまう。歯医者でもあるまいに、歯列を確かめるように丁寧に動く指には呆れさえ覚えた。
「ん、う………ッ」
 くぷり、と口端から唾液が溢れる。それを合図に、マクギリスはの内側から指を抜き取った。指先が、指の股が、手の甲が、てらてらと濡れ輝いているのが傍目にも歴然としており、はもういたたまれない。
「歯を立ててはくれないのか」
 そしてこともあろうにマクギリスは、今しがたまでの口唇を支配していた指をみずからの口内へ差し入れた。は瞠目する。マクギリスは爛々とした瞳だけで笑んでいる。指先や関節にねっとり絡み付いていたの唾液を、余すところなく舐め上げている。白い歯と赤い舌がハレーションの如くちらちらと垣間見えるたび、頭の髄がくらくらした。――くっきりと隆起の浮かんだ喉が、ごくりと「何か」を嚥下する。
 駄目だ。もう耐えられない。は視線を逸らそうとした。しかし、浅はかな考えは案の定跳ね除けられた。マクギリスが、その分厚い上体でに圧し掛かり、呼吸さえも略奪したためである。いつの間にかうっすらと透明が滲んでいた目を見開くと、薄闇の中、ぼやけた視界に金色が過ぎる。重石でも乗せられたように、身体はもう動かない。
「―――っ、ん!」
 マクギリス、と友人であった筈の男の名を呼ぼうとしても出来ぬ相談である。彼の口唇。上の方が、下よりも分厚い。蛇を思わせる狡猾な舌。それらがの口内に侵入し、唾液の交換に熱を上げているのだ。至近距離で混ざり合う吐息には抗えない魔力があった。
 いったい何度こうして来たことだろう? 指の数だけではきっと足りない。
 大抵の人間がそう在るように、は罪悪を好まない。だがこれは何だ? 酷い悪夢を見ている気がする。夢の癖に終わりが存在しない、断続的な煉獄の渦中に放り込まれてしまった。
 凹凸だらけの獣道を、マクギリスに片手を引かれながら歩いている自分。草いきれの中に組み敷かれ、理性のない生き物のような交わりを受け入れる自分。そんな自分を今まさに支配下に置いている目の前の男。彼がその身の内に一体どのような衝動を抱えて生きているのか、ただの友人であるところのは知らない。想像なら幾らでも可能だが、真実には程遠く、届かない。
 美の極致に達したパーツのみで作り上げられた肉体の内に、彼は一体どれほどの地獄を飼い慣らしているのだろう。そっと見つめたマクギリスの瞳は、変わらず碧色のままだった。その鋭さは幼い時分から欠片も変化していない。
 この男はよりも深く自身を知っている。そう気付いたのはいつのことだったろうか。自らの奥底に秘めてきた「その人」への叶わぬ恋心を、マクギリスに見抜かれたとき? 初めて寝てしまったとき? ここだ、という明確な区切りの記憶はない。自覚のないまま海底に沈んでいる。
「ふ……ぅ、あっ」
 執拗な口付けはおそらく前座なのだ。束の間の休息を与えられ、息を整えていると、下着の紐を両方纏めてゆっくり下ろされる。背に回された指先が留め金を外し、軽い解放感が広がった。手付きこそ慈愛が籠もっていたが、を見下ろすマクギリスの瞳は流氷のように凍り切っている。
「俺をガエリオだと思えばいい」
「できない」
「何故?」
「貴方とあの人は全然違う」
 一考にも値しない提案だ。すぐさま却下の姿勢を取ったに対し、マクギリスは僅かに目を細めて返答した。
「……あの人、か。物は試しと言うだろう? ――『やあ、久しぶりだな。元気にしていたか? その顔では相変わらずと言ったところか?』――」
 マクギリスは得意顔になって、劇の台詞をそらんじる。は愕然とした。涙に滲んだ目を見開き、信じられないと云った顔で抵抗を試みる。両腕はシーツに抑え付けられ、ぴくりとも動かない。
「やめ、て」
 いやだ、と激しく首を振っても、演劇には幕が下りなかった。
 脳裏に過ぎる、あの青い瞳と菫色の髪。きれいで残酷な思い出。がただひとり、恋い焦がれたその男。
「――『お前はいつも変わらんなあ。まだ嫁入り先は決まらんのか』――」
「やめて!」
 忍耐の限界に達し、は悲愴にも叫び声を上げた。
 身体が震える。思い出がじくじくと焼け焦げる。あの清い彼は、目の前のこの男になど、まるで似ていない筈なのに。愚かなは夢想してしまった。彼の指が、愛おしげにの肌へ触れるその瞬間を。相互に行き来する愛の幸福を。どうしてそれは手に入らないのだろう。妾腹とはいえセブンスターズに生まれ落ちたこの身が得られぬものなど、おおよそ何ひとつとして存在しない筈だった。
。君が彼を想って涙を流すとき、酷い欲情に駆られる俺をどう思う?」
 マクギリスの指が頬をゆっくり撫で上げていったとき、自分がまだ泣き続けているのをようやく認識した。限界まで雫を溢れさせた瞳は熱を孕み、おそらくは焦燥と絶望に血走っていることだろう。
「君はいつも礼儀正しいな。ベッドで他の男の名前を持ち出さない心がけは、尊敬に値するよ」
 開かされた脚の間に手のひらが伝っていく。びくりと身体が跳ね上がるのを、マクギリスは息だけで笑っていた。は人体の仕組みを恨めしく思わずにいられない。惚れた男以外に抱かれても、性的な喜びを得てしまう簡単さ。人間とて動物の一種、繁栄を目的とした生殖行為の必要性は理解できる。でも、ならば、心なんて不要なはずだった。セックスは只のセックスで、そこに余計な情愛を持ち込みたくはなかった。
「あ、あっ……、あ!」
 見なくても分かる。聞かなくても知っている。ぐずぐずに濡れた脚の間は彼の指の付け根までを容易に飲み込み、与えられる快感に飢えて蠕動している。間を置かずして追加された二本目が、優しく、時間をかけて、あたたかい粘膜を引っ掻いた。マクギリスの一挙動にいちいち過敏な反応を示す己が身体を切り裂いてしまいたい。腰の辺りでわだかまっていた性感が脳髄にまで伝播し、はまた、涙を流した。
 反らした喉に歯を立てられる。
 歯を立てられるのではと一瞬恐怖して――けれど、変わりに到来したのは直截的な快楽だった。
「ッや、だ、ああっ」
 親指の腹で赤い核を擦り上げられ、胎の内側が追加の粘液を滲ませはじめる。では決して届かない奥まった場所にまで、マクギリスの長い指なら簡単に触れてしまう。肩がガクガクと震えた。吐き出してばかりだった呼吸が再度、有無を言わせぬキスで停止されてしまう。蜜のように艶めいたブロンドがの鼻先をくすぐった。微かなオード・トワレのにおいが漂う。ムスクが、鼻腔をくすぐる。
 もっと残酷に抱けばいい。手っ取り早く、暴力でに押し入り、自分勝手に腰を動かして、犬畜生のように射精すればいい。なのに、マクギリスは絶対にそんな短絡的な方法を選ばない。理解できなかった。いや、してはならないのだとは直感した。
「もう、や、だ、マクギリス、やめて、おねが……」
 既に狂っている頭が更におかしくなってしまうから。頭の中の無垢なあの人に泥水でもぶちまけているような気分になってしまうから。
 その実、本当に止めて貰えると期待して、口にしている訳じゃない。「ノー」の返事は寧ろ、マクギリスの背徳に更なる火を点けてしまうだけだ。キャパシティの限界に達した頭がパニックを起こし、勝手に口走ってしまうだけなのだった。マクギリスもそれを知っているからこそ、舌先と指先の冒涜に拍車をかける。はそれから1分も経たぬ間に今夜はじめての頂点を迎えてしまった。限界を越えた快感がなだらかに下降線を辿り、一旦は楽になる。解放される。
「は……」
 どろどろの箇所から指先が抜かれた。未練がましくその指を追いかけるように、泡立った体液が流れ落ちてゆく。シーツに滲むグレイの染みがいびつな円形を作る。はあ、と再度深い息を吐いた。
 だが、休んでいる間は与えられない。マクギリスが、余分な力の入らないの脚を無遠慮に開いた。手早く上着を脱ぎ、下穿きの前だけをくつろげると、用意していた避妊具を性器にかぶせる。磁器めいた白人の肌からは想像もできないほど、グロテスクな容貌をしたそれに。林檎を腐らせればこんな色合いになるのだろうか、と妙に冷静な思考の一部分では考えた。
「っん、あ、入って――る、」
 の粘液を纏わせるように芯を擦りつけてから、彼はゆっくり、腰を進めた。彼の一部はいっさいの抵抗なくの内側へと飲み込まれていく。根元まで埋まり切ったあと、マクギリスは徐々に身体を揺すぶり始めた。反射的に短い悲鳴が上がってしまう。マクギリスは汗で髪が張り付いた額を拭う素振りも見せぬまま、へとその上半身を倒した。分厚い、男の、重み。やわらかい乳房が彼の胸のあたりで潰れた。ふと、マクギリスの表情が気にかかった。だがこの体勢では確認できまい。やや乱れた呼吸と、引っ切り無しにを穿つ反復運動だけしか、認識できない。
 限界まで引き抜かれて、再度打ち込まれるたび、自分を犯す性器の太さと熱さと硬さを万遍なく思い知らされた。先端のくぼみがどろどろの穴の縁に引っ掛かるたび、喉の奥からは甘ったるい女の声だけが飛び出していく。
「ひっ……あ、あっ」
 の手は縋り付くものを持たない。映写機の稼働音が頭の中だけに響いている。フィルムに映されるのは過去の光景だ。年端もいかない4人の子どもたちが、あたたかな陽射しに照らされた芝生を駆け回っている。あまりの懐かしさに胸の奥が締め上げられるのが分かった。思い出の美を裏切り続ける自分。焦がれて止まない横顔に触れられない自分。大切な誰かを大切な誰かでしか代用できない出来損ないの自分。今のに何が出来ると云うのだろう? ここは、行く先のない愛の墓場だった。自分を抱いている友人の背に縋り付くのは簡単だ。でも、それに手を出してしまったら、きっと自分自身を永久に許せない。
 これが映画なら、時間が経てば終わってくれるのだろう。
 けれどエンドロールにいったい誰の名を流せばいいのか、には見当も付かなかった。

(16/04/05)