none but air

 とりわけ青空を好んでいる訳ではない。しかしまるで海の色彩を映したように澄んだそれを見ていると、ぼうっと眺め、雑事を放り投げてしまいたくなるのだ、と。
 寒空を見上げ、長い髪を背に垂らしていたそのひとは、何時だったかマクギリス・ファリドにそう返答したのだった。生温いやり取りだった割に印象的で、よく覚えている。
 直接顔を合わせるのは、大体にして一週間振りほどだろうか。形式上続いているギャラルホルン支部への出張を終え、本部へ帰投する頃には、マクギリスの身体は少なからず疲弊していた。
 部下からの労いの言葉を微笑みで躱した足で向かったのが、展望テラスである。広々と贅沢に切り取られた空間は、ともすれば空虚な印象を与えがちであるが、そのひとが佇んでいるというだけで、何か不可視のものが満たされているように思える。
「……? 戻っていたの、」
 人間の気配を感じ取ったのだろう。彼女は穏やかな仕草で振り向き、口端をゆるめた。仕草ひとつとっても上品な空気を漂わせている。彼女がもし、白衣ではなく礼装を身に付けていたのなら、どこかの皇女にも見えるだろう。身贔屓を抜きにしても、マクギリスはそう思う。
「ああ。つい先程ね」
「それはお疲れさま。ふふ、珍しいんじゃない? ちょっと目許が眠そうに見えるけど、大丈夫?」
 隣に歩み寄ったマクギリスを見上げ、はまるで悪戯を好む子どものように笑った。細められた瞳には澄んだ青を湛えている。
「今回は少し堪えたよ。長丁場の会議続きだったからな」
 ふふ、とは口唇に手を当て微笑んだ。上品な立ち振る舞いが身に沁みついた人間でなければ気障になるそれを、は見事に自らの一部として体得している。彼女はすべての動作が平穏で、そこからいたずらに軸を動かさない種類の人間だった。
「ブリュッセルは寒いから余計よね。あ、ムール貝は頂いた?」
「以前聞いた店でね。流石に素晴らしかった。やはり信頼できる舌の持ち主だと思い知らされたよ」
「お褒めの言葉、ありがとう。あのレストランは、グラン=プラスの目の前にあるでしょう。夜景も素晴らしいの。ディナーを?」
 途端に楽し気な調子で紡がれる言葉に、マクギリスは心中で呆れたような笑みを浮かべつつも、頷いてみせる。の勧め通り、その店の予約はディナーで入れていた。配慮の行き届いた、およそ十全足る店だったと記憶している。伝統的なヨーロッパの街並みをあたためる橙の街灯には幻想的な風情があった。
「私の姉上は出張帰りの弟よりも料理が気になるらしい」
 わざとらしく肩を竦めれば、・ファリドは困ったように微笑んだ。青い瞳は伏せられ、睫毛は蝶が羽根を揺らすが如く震えた。途端、マクギリスの内奥に、決して清くはない火が灯る。勿論それをおくびにも出さない。
「ごめんなさい。確かにそうかもしれないわ。貴方を羨んでいるのね、きっと。わたしは暫く、この国を出ていないから」
 内外を隔てる、分厚い強化硝子の向こう側を見つめ直して、はひとさじの寂しさを滲ませた声音で言う。ギャラルホルン本部、そのモビルスーツ開発局に勤める身とあっては、気軽に旅行もできないのは道理だ。その身を追う忙しさで言えばマクギリスと五十歩百歩だろう。
 青い瞳に、同じ色の空が映り込んでいる。
「だから、これからも貴方が遠方へ出かける度に、同じことを訊いてしまうだろうけれど、許してね」
「勿論さ。私が姉上の頼みを断った事があったかな」
「ないわ」
 が一も二もなく断言した事を、マクギリスはひどく心地よく感じた。彼女は硝子越しに空を眺めていた瞳をついと逸らし、その大きな瞳で法律上の弟を見つめた。
「今度は火星支部の監査へ向かうのでしょう」
「耳が早いな」
「嫌でも入って来るの。外国どころか、別の星へ旅立ってしまうなんて、何だか途方もない話に思えて……」
 文字通り、途方に暮れた、というような表情をする彼女。所属部署の都合上、マクギリスは経済圏を越えた移動を強いられる。こうして本部に滞在する時間は限られていた。宇宙圏へその身を運ぶ機会も少なくない。
「姉上とて、火星は知らない土地ではないだろうに」
「もう何年もあの荒野を直接踏んではいないけれどね」
 が息をついた。一種のノスタルジー、それから未練のような色を含んだ声音でつぶやく。本来なら彼女はモビルスーツを「操縦したかった」側なのだ。ファリド家長女という立場上、パイロットへの道は閉ざされてしまったが、それでもの中に、空や宇宙への憧れは深く根付いているのだろう。少しでも時間があれば、こうしてテラスで硝子の向こうを眺めているのが良い証拠だ。頑なに開発局を離れようとはしないのも。
「最近は独立運動が激しくなっているとか。無事に戻って来てくれると、約束して」
「ああ。約束するとも」
 マクギリスはの手を取ると、その甲に薄い口唇を触れさせた。洗練された仕草だ。もう、幾度となく繰り返してきた。
「よかった。……ところで、マクギリス」
「何かな」
「ついおととい、アルミリア嬢とお話をしたのよ。貴方からも彼女に連絡を入れてあげてね」
 たおやかな手の甲から離れ、再度見つめたマクギリスの姉は、いつも通りの表情で彼を見つめていた。
「勿論さ」
 ここが執務室なら姉をマホガニーの机に組み敷くことも可能であったのに、とマクギリスはひどく残念に思った。
 この世の天井はまだ蒼穹を湛え、の集中を奪い続けている。

(15/10/28)