Time Limit 17

 米屋の手からひょいと奪ってみた500ミリリットルのパック飲料はやたらと甘ったるいばかりで、ふたくち飲んだだけですぐに返してしまった。舌の表面にしつこく残る人工的な甘さが何とも言えず気持ち悪い。耐え兼ねてしまい、スクールバッグに常備しているキシリトールガムをひとつぶ噛み締めたところ、対面に座っていた米屋が声を出して笑った。
「嫌なら飲まなきゃいいじゃん」
 確かに彼の言う通りなのだが、ミルクティというのはメーカーによって甘さがてんで異なる厄介な飲料だ。珈琲の苦味を強く残したテイストのものから、砂糖を溶かしただけなのではと思うほど甘ったるいものまで、それはもうさまざまな度合いが存在している。米屋が本日飲んでいたものは限りなく後者に近かった。砂糖を嫌がっている訳ではないけれど、何ごとも塩梅というのは重要だ。私はミルクと珈琲の中庸を欲していたのであって、気分が下がるほど甘いだけの液体なんてお呼びじゃあない。しかしあくまで私は勝手に試し飲みをした身分であったから、ミルクティの持ち主に対して文句を向けたりはしないでおいた。次に彼が口に運ぶ液体が私好みのものであればいいなと、ちいさな期待だけを募らせておく。ガムのミントが鼻に抜ける。ミルクティよりもよっぽど清々しい。
「米屋って、ときどきすごい味のを飲んでるよね」
「すごい味って、どんな?」
 ストローを咥えたままで、米屋が小学生のように首を傾げた。私は数秒、記憶を遡る。とあるメーカーが定期的に出荷している妙ちきりんな風味のコーラが思い当った。
「いちご味のコーラとか」
「ぶは、あれか。まあ、なんつーか、ものは試しって言うじゃん」
 米屋はからからと笑う。いちご味の炭酸が口内で弾けるところを明確にイメージしてしまった私は、ぐったりと肩を落とした。どうあがいても美味なイメージが抱けない。
「私にはぜったい無理だ」
 一度好いた飲料を以後もずっと選び続ける私には、行き当たりばったりのエンターテインメントをも丸ごと楽しんでしまう米屋の思考はまったく理解できない。私は急に口直しの気分になり、席を立った。混み合うカフェスペースでカフェラテを注文して、また同じテーブルに戻った。米屋はこころなしか口端を上げた表情で携帯端末を操作している。流行りのメッセージアプリで誰かとやり取りをしているようだった。
 こうして本部基地のラウンジで男女がふたり、テーブルに顔を突き合わせて座っていれば、周囲でうじゃうじゃと賑わっている隊員たちに好奇の一瞥を投げられるのがふつうだろう。今もちらりと視線の針を感じた。けれども彼らの俗な期待に応えることはできない。私と米屋はただのクラスメイト以上の関係性を持たないからだ。いっしょにいてもお互い変な気を使わない都合の良さから、私たちはよく談笑に興じる。学校でも、本部でも。場所は問わない。時間潰しの相手としてお互いを消費している。アプリケーションと同じだ。気になったからダウンロードして、自分のペースで続けられるからたまにプレイして、飽きてしまったら消去ボタンを押せば完了。排除されたアプリケーションの代わりには、わずかなメモリが戻ってくる。
 テーブルに出したままだった携帯端末がぶるりと震えた。開封したメッセージが、親の帰宅がきょうも九時を過ぎることを知らせた。了解とだけ返信を送ると、私は荷物をまとめて腰を上げた。米屋の、何を考えているかハッキリしない真っ黒な瞳が、こちらを見上げた。
「もう帰るん?」
 うん、とうなずく。米屋は当然のように私の横へ並んだ。けれどかまわない。ふたりで基地を出て、同じ帰路を辿った。
 でもやばいな、きょう、ゴム切らしてる。


 米屋陽介の体温は、ふつうのひとよりも少しばかり高い、と思う。私の平熱が低めなので、彼の少し陽に焼けた肌は常に心地が良い温もりを提供してくれた。彼は人間としての表面がさらりとして冷たいくせに、その肌の奥底には太陽の獰猛な熱を潜ませているみたいだった。私の肌とぶつかったとき、その熱はふらりと顔を出し、この体に真っ黒い焦げ跡を残す。
「あーっつい」
 私の好きな色合いと繊細さだけで整えられた自室に、まるで女性的な柔らかさとは程遠いからだをした男の子がごろりと横になっている。米屋は伸ばした手でペットボトルを傾け、器用にも寝転んだまま喉をうるおしていた。彼は学校に背負ってくるスポーティなリュックにいつも何がしかの飲み物を入れているようだった。薄っぺらいリュックの中にはコンドームもいくつか忍ばされている。おかげ様できょうは助かった。避妊具があろうとなかろうと感覚的には大差ないが、私と米屋がこれからも平々凡々な高校生活を続けていくためには0.01mmの壁が必要不可欠なのである。米屋はいつも薬局に置いてある最も薄いものを選んで買っているみたいだった。その点に関して、私には大したこだわりがない。大事なのは壁の有無という一点であり、その厚みではなかった。だからコンドームは最寄りのコンビニで購入する。それにしても日本製コンドームというのは凄い。薄さを追求し続けると同時に強度さえきちんと保証されている。例えば人間関係だとこうはいかない。例えばの話、だけれども。
 ようやく陽が沈んだのは、二度目が終わってからだった。私はしっとりとした息をつき、部屋の明かりを灯すと、まだ汗ばんだままの肌をタオルでそうっと清めた。きれいな下着を付けて、部屋着に腕を通す。制服のセーラーはハンガーにかけ、皺取りのミストをひと吹きしてからクローゼットへ仕舞う。米屋はいくらか深い皺の寄ってしまった白シャツと黒スラックスすがたで、カーペットの上にあぐらをかいている。ボトムの裾からちらりと覗いたくるぶしの隆起がつるりとしていて可愛かった。試しにそこを指先でつついてみると、くすぐったそうに笑われた。私はそのまま吸い寄せられるようにくちづけてみる。うるおいと色で彩られた私のものとは違う、薄っぺらくてさらさらに乾燥した米屋のくちびるは、どうにもこうにも心地がいい。舌は絡めぬまま顔を離すと、リップクリームが米屋のくちびるの上に足跡を残していた。てらてらと光る。
「お腹減らない?」
「そう言われれば減った気もすんな」
「母さんが作り置きしてるのがあるから、それ食べよう」
「おーサンキュ。おまえのかーちゃん料理うまいよなあ」
 ありがてーわ、と米屋が屈託なく笑った。それからふたり、リビングキッチンのウッドテーブルで簡素な食卓についた。彼は実に美味しそうな表情で料理を平らげてくれる。ふいに、私の母親がこの光景を見たら大層喜ぶだろうという考えが頭を過ぎっていったが、そんな未来など終ぞ訪れないであろうことは、誰よりも私がいちばんよく理解していた。米屋を両親に紹介する機会なんて想像するだけ無駄だった。私は彼をしょっちゅう家へ招いていたが、それは家族の完璧なる不在が保証されている曜日と時間帯のみに限られた。当然だった。ひとつ屋根の下に肉親がいる状態で男の子と触れ合うなど、おそろしいにも程がある。
 空になった食器類は、米屋が率先して洗ってくれた。私はシンクに立つ米屋の背中を座って眺める。筋肉でまんべんなく覆われた男の子の肩甲骨が家事によって動作しているようすは私のこころを満たした。私よりいくぶんか上を穿つ身長、今まで何度も爪を立ててきた背中の中心を、ぼんやり見つめる。会話はしばらく途切れていたが、おもむろに米屋が言った。
「そういやさ、」
 排水が流れていく音。
「うん」
「オレ、今度、告白すっかなーって思って」
 そっか、がんばってね。
 きちんと言葉にできた自分を褒めてやった。何を気負うこともなく、彼が待ち望む未来をさりげなく応援できた。きっとその未来がきちんと到来するであろう福音を、何となくではあるが察した。米屋は「サンキュ」と短く、けれどやっぱり嬉しさが滲む声色で答えた。ここからでは表情は伺えないが、たぶん頬には赤色なんかを走らせているんではなかろうか。彼のそういう、年相応な少年らしさを、可愛らしいと評価する異性は思いのほかクラスに存在する。
 きっと米屋は相手の子を優しく愛してやれることだろう。彼が私に与えなかったものを、彼女の身に施してやるのだろう。悔恨の念なんて驚くほど生じなかった。元より米屋が私に遠慮する義務などない。お互いにいっさいの責任を持たない関係を最初に望んだのは、他でもない私だった。彼はそれを一時的にでも受容してくれたのだし、数えきれないほど私の肉体に涙が滲むほどの快楽をもたらした。ふたつの事実にちゃんと感謝の意を抱くべきなのだ、私は。
「なんとなくさー、クリスマス前までには決着つけてえなと思ってさ。誰かに先越されたらヤダしな」
「うん。私もそう思うよ」
 真冬の真白が三門市を包み込んでしまう前に、米屋はきっと、今度はその子に肌のぬくもりを分け与えるのだろう。でもケロイド状の火傷を残すような無体は絶対に働かない。どこまでも続く慈しみめいて優しく、やっぱり少しばかりは強引に、けれども圧倒的なまでに幸福な恋愛のかたちを、作り上げてしまうのだ。
 シンクに水と泡が流れていく家庭的な音を耳で聞きながら、私は壁時計をちらと見た。午後七時。余裕ならある。
 米屋のリュックの中にまだコンドームが残っていることを、願った。

(14/11/13)