Simple and Clean Bandit

 出掛けに首へ巻いたマフラーから、なんとも優しいにおいが漂ってしまったために、まだ早朝だというのに当真勇はほとほと参ってしまった。
 いざ玄関を出て、日常の象徴たる通学路に一歩を踏み出しても、ふわふわと鼻腔をくすぐり続けるほのかなフレグランスが、当真の意識を乱し続ける。なんてことだ。匂いなんて形のないモノにひやかされている―借りるんじゃなかった。でも、とてもじゃないが断れなかった。
 ――寒いよ。当真。これ巻いてって。
 ゆうべ、「あのひと」をマンションまで送り届けたあと、別れ際に首許へぐるりと巻かれた赤いマフラー。どちらかと言えば派手なつくりの顔をしている当真に、ビビッドなタータンチェックは、少しばかり、あ似合わない。素朴で無害な見た目の彼女にこそ沿う、冬の必需品。ワンルーム・マンションの手狭な玄関で、彼女はそれを背伸びをしながら当真に施した。つい半日前の光景。まったく、別れ際の表情というのはどうしてこうも印象的なのか。おかげさまで今もこうして反芻ばかりしてしまう。くちびるぐらい頂いておくべきだった。何なら、そのまま一晩中すぐ傍にいたって。それが許される距離感なのに。
 ――とうま、当真。あしたは鍋でも食べようか。
 ああ、クソ、襟ぐりがとてもあたたかい。反して、調子に乗って全開にしている額に触れる大気は突き刺すように冷たい。長く吐き出した息は当然のように白かった。まるで冷凍庫の中でも歩いているような気分になって、当真は学ランのポケットに忍ばせたホッカイロを握り締める。
 借りたマフラーは今夜にでも返してしまおう。
 当真が高校を卒業するまで、あと一ヵ月を切った。


「あれ~。当真くん、めずらしいね。マフラー?」
 滑り込みセーフ。チャイムと同時に教室へ駆け込んだ当真を見るなり、クラスメイトの国近柚宇が首を傾げた。ピンク色の携帯ゲーム機を同系色のポーチにしまいこみながら、当真を見上げている。気だるげな表情はしかし、ほんとうに眠い訳ではないのだろう。国近はこれが常態だ。
「おー。寒いじゃん、きょう」
「そだね。すっごい寒くて、布団から出たくなかったもん」
 国近が身体を揺らすたび、寝癖なのかファッションなのか定かではない髪の跳ねも左右にふらつく。真剣味というものが抜けている、間延びした口調。ふああ、と猫みたいに見事な欠伸を見て、当真は笑った。
「まーたゆうべもゲームかよ」
「もっちろん。もう少しでクリアできそうなんだー。終わったら2周目要素解禁だし」
 彼女の隣席になってから早二ヵ月が経とうとしているが、空き時間とみればすぐさまゲームに興じる姿しか見ていない。そこまで入れ込めるものがあるのはうらやましいねえと他人事のように考えて、当真は自分の席につく。
 担任の到着が遅れているのをいいことに、生徒たちは談笑を止めようとしない。当真は肘をつき、幾度目か知れない欠伸で朝のひとときを誤魔化した。窓の向こうにはキンと澄み渡った青空が広がっている。
 まったく人はたくましい。先月この街を見舞った大規模侵攻の余波も、緩やかではあるが一歩ずつ着実に納まりつつある。仮初めの、けれど貴重な平和なる時間。腕に顔を伏せて目を閉じる。隣では国近がスマホのアプリゲームを進めているらしく、何やらひとり言が聞こえた。うわあ、きょうのキンメタ二時からじゃん、できないよお。いやはやほんとうに、どこからどう考えても、当真勇の平穏なる日常シーン。
 教室の戸が開くのと同時に、クラスの喧騒はぴたりと止んだ。席を立っていた生徒はすごすごと自分の定位置へ戻ってゆく。出席を取るのは、パッとしない服装の中年教師。これから7時間ほど繰り広げられる学校生活を消化すべく、当真も仕方なしに顔を上げる。机横のフックに下げたエナメルバックの、閉じ忘れたファスナーのあいだから、赤いマフラーがいたずら顔で覗いていた。


 当真は気分が乗らなければスナイパーの訓練をしない。それはもう、誰に何と咎められようと変えられない、当真という人間の絶対的なルールだったから、基地に足を運んだからといって必ずしも訓練室に向かう訳ではない。基地内の食堂でうだうだと時間を潰すのもしょっちゅうだし、用意された自室で昼寝を味わうのも恒例行事のひとつだ。
 きょうは隊員で混み合うラウンジで、出くわした後輩と共にどうってことない会話を繰り広げている。
「そういや来月っすね」
「ああ? 何が」
「そつぎょーしき」
 ずずっ、とストロベリーシェイクの最後を啜りながら、ひとつ年下の米屋陽介が言った。テーブル席で向かい合わせに腰を下ろし、主に最近のランク戦について所感を交わしたあと、選ばれた話題。当真は大して興味もなさそうに頷いた。場が移り周囲が変わるだけで、どうせあと最低4年間は学生生活が続くのだ。大して変わらない。
「当真さんで進学できたんなら、オレもヨユーっしょ」
「お、言ったな? 来年の今頃笑ってやるよ」
「いって!」
 スニーカーの爪先をまともに食らってしまっては、米屋とて小動物のように丸まるしかない。外すまでもなく、狙いは必中。脛へのクリーンヒットだ。うう、ひっでーの。米屋の断末魔が弱々しく聞こえた。
「推薦だろうと実力のうちだろ? 違うかよ」
 わざわざ他人に指摘されずとも、当真自身がいちばん分かっている。いくらボーダーとの提携校とはいえ、ほとんど無試験で進学が認められたのは、やはりまごうことなき幸運なのだ。しかし素直に喜んだのは両親だけだった。当真が来春から通うことになるその学び舎に、あのひとの姿はない。これでは物足りない。
「……お」
 ウワサをすれば何とやらというやつで、当真の瞳はラウンジの反対側を歩いてくるそのひとを捉えた。B級の隊服に身を包み、そばの隊員と快活に会話を交わす横顔は、どんなに遠くからでもすぐに見つけてしまえた。意識した訳ではないが、ぼんやりと眺めてしまう。きっと、気付かないだろう。いや、そちらのほうが助かるか。きっと今の自分は、世にも間抜けなくだらない男の顔をしている。
 どれくらい呆けていたのだろうか。当真の視線の先にあるものを察して、対面の後輩が小さく吹き出した。
「当真さんってさ、意外と分かりやすいんだよなー」
 したり顔で言う米屋の脛に二発目を食らわせることなど、赤子の手を捻るよりも容易かった。米屋はいよいよソファの上でうずくまって、今にも死にそうな声で助けを求め出す。が、無視だ。周囲のC級隊員から好奇と畏怖の混ざった視線が飛んでくるが、それも合わせてオールシカトだ。雑踏の中、とあるひとつを眺めるだけの児戯に興ずる。トリオン体では髪を結んでいるのも、なかなかどうして可愛らしい。小学校の運動会を思い出す。あのひとは地味な割に運動神経が良く、当真はいつも勝てずにいた。そして現在も、ありとあらゆる意味で連敗続きである。
 一位のフラッグを誇らし気に掲げ無邪気に笑う、あの日のちいさな影。
 ――見て見て、とうま! わたし一位になったよ!
 そのうち、目で追っていた姿はラウンジを出て行ってしまった。ランク戦に向かうのだろう。確か彼女の隊はきょうの組み合わせに入っていたはずだ。観覧席まで久しぶりに足を運んでも良かったが、目の前にいる死んだ目の男もオマケでくっ付いて来るのは自明の理だった。何度もひやかされてはたまらない。放っておけばいいだけなのだが、いかんせん面倒だ。まったく、どうしてこんな展開になってしまったのか。きれいに整えた前髪をぐしゃぐしゃに乱してしまいたい衝動に駆られた。
「……ふ。ははっ」
 いつの間に脛の激痛から復帰したのか、スマートフォン片手に米屋がけらけらと笑っている。
「意外と可愛いっすよね」
「何がだよ」
 無意識のうちに表情も返答も苦いものになっていた。米屋は悪戯を楽しむ幼稚園児めいた笑い方をして、何を考えているのかよく分からない真っ黒の瞳で当真を見た。次に何が続くのか次第ではデコピンの刑に処す。
「当真さんのカノジョ、って言いたいとこなんだけど。あ、いや、それももちろん可愛いんだけど。なんつーか、それ以上に、当真さん本人が。――当真さんがそんなに意味不明な表情してるのレア過ぎるっしょ? いつも斜に構えて、割と何でもかんでも見下して、人生舐めくさったみたいな顔で銃ぶっ放してるのに。美味そうなもの目の前にして、よだれ垂らしながら我慢してるみてーなんだもん。写メでも撮れば高値付きそうじゃん?」
 さんざんな言われように、いっそ腹すら立たない。デコピンの刑なぞどうでもいい。米屋の言い分は、当真の真髄をある意味で撃ち抜いているのは確かなのだから。
「そんなにいーもんなんすかね。幼なじみってのは」
 そりゃあもう。あの顔をもう、十何年も飽きることなく眺めているオレはきっと、とっくの昔に頭でもおかしくなっているんだろう。当真の口唇から自嘲が漏れる。決して悪くない種類の自嘲が。息だけで笑った。なあ米屋、あのひとはもう幼なじみなんかじゃない。やっと、オレの、オレだけのものになったんだよ。どうだ、羨ましいか。自慢は喉の奥に閉じ込めて、当真は震え出したスマートフォンの通話ボタンをフリック操作した。


『ネギ買ってきて欲しい。あと、豆腐ね』
 メッセージアプリに表示された指示通りの品物を引っ提げて、夜の道を当真は進んでいる。とっぷりと闇に落ちた住宅街の至る場所から夕食のにおいが漂っていて、当真の食欲を刺激する。親には抜かりなく連絡を入れたので、遅い帰宅になろうがはたまた泊まりになろうが心配はされないはずだ。
 目的地である五階建てのマンションは、ボーダー本部基地からは少しばかり遠い、けれどそのひとの通う大学にはほど近い位置に構えている。あからさまに人口的な煉瓦壁を見上げて、当真は白い息を吐いた。襟首をまもる赤いマフラーに触れてみると、毛糸のやわらかさに指先が沈む。
 三階の角部屋に辿り着き、インターホンを鳴らせば、ものの十秒で金属のドアが開いた。ぎぎ、という鈍い音の向こうがわに、十年来の知人兼、当真のもの、が立っている。
「いらっしゃーい。早かったね」
 へら、と独特の抜け感で笑われる。当真はちいさく頷いて、遠慮なくひとり住まいの部屋に上がらせていただいた。ちんまりとしたストラップパンプスの横に、当真のスニーカーが並ぶ。それだけで、狭い玄関はいっぱいいっぱいに見えた。当真の首許に目をやった彼女が、ほころぶように微笑んだ。
「ああ、やっぱりそのマフラー似合うね。あげよっか?」
「似合わねえっつの。国近に珍しがられた。つか苦しい」
「慣れないうちはね。当真、顔も寒そう。とくにデコ」
「うっせー」
 解いた赤を彼女に手渡しながら、当真は部屋をぐるりと眺める。ほどよく効いた暖房があたたかい。
「ネギと豆腐でいーんだっけか、」
「大丈夫、ありがと。実家から荷物届いてて、野菜はあったんだけど、そのふたつが足りなくて。胡麻みそ鍋でいい? 素があるよ」
「お。いいねえ」
「了解。後で野菜切ってね」
 当真の手から攫ったビニール袋のなかみを彼女が冷蔵庫に入れているあいだ、洗面台で手を洗った。置いてあったプラスチックのコップでうがいも済ませる。鏡の中の男は確かに浮き足立っていて、これでは槍バカな後輩に笑われてしまう訳だ。いつになったら落ち着きを得るのか。この部屋に訪れるのを許されるようになって以来、当真勇のテンションには常時やわらかい綿が纏わりつきだした。長年の願いが叶ったのだ。それくらいのくだらなさは許して欲しい。自分でもおそろしく感じている。なだらかに続く道の、その仄かな甘さがひどくいとおしいということを。
 部屋に戻ると、ローテーブルの上に何語だか分からない題字のテキストブックが置かれているのに気付いた。開かれたままの電子辞書の電源は落とされている。
「テスト?」
 テーブルを指差して訊けば、キッチンで紅茶を淹れている彼女が頷いた。
「? あ、そうそう。今回はけっこう語学がヤバいんだよね。当真も進学したら第二外国語は慎重に選んだほうがいいよ。当真の行く大学がどういう授業をやるのかは分からないけど、」
 ふたつ年上の彼女は学業にボーダーにと相も変わらず忙しいらしい。進学と同時にわざわざ始めた一人暮らしも順調なようで、何よりである。まったく、これで進学先まで同じだったらどれだけ良かったことか。恨んでも始まりはしないが、それでもやはり、イフを思い描いてしまう。
「私のテスト終わったら、猫カフェ行こうよ」
「ああいうとこの猫って人嫌いなの多くねえ?」
「大丈夫大丈夫。事前にリサーチしてから行こう。というか、時枝くんがいいところ知ってるかも」
「とっきーならあり得るなオイ」
 きびきび動くちいさな背中をぼんやり眺めながら当真は思った。空腹を満たしたらすぐ、抱き締めてしまおうと。猫のように扱ってやろうと。一瞬、きちんと順序立てて考えた。――しかし当真勇という男には、もともと我慢が似合わない。そうやって後付の言い訳を捏ね繰り回しながら、当真は前言を撤回し、自らの衝動に身を任せた。
 やわらかくてあたたかい。
 その、実に穏やかなリズムで連続していた呼吸が、こちらが仕掛けた不意打ちによって止まる瞬間。パーフェクトショットの手応えを感じる。数秒続いた応酬のあと、見下ろす表情はみるみるうちに赤みを増してゆくので、してやったり、と胸の内でガッツポーズを決めてしまうのも仕方のないことだった。
「きょう、勝っただろ? ランク戦。そのごほーび」
 林檎もかくやと思わせる色の両頬をすっぽりと包みながら、当真は言った。数秒後、その手のひらの上に、もうひとつのそれがおずおずと重ねられた。
「そうなの。わたし、勝ったよ。当真」
 あの日、一位を勝ち取ったグラウンドで見せたものと同じ微笑みで、そのひとが当真に笑いかける。遠い思い出と重なる現在。色鮮やかな視界。過去から今、今から未来をつなぐひとりの人間の存在。脳の奥がくらりと揺れて、当真は思わずすぐそばの身体を掻き抱いた。
 自分らしくないとどれだけ笑われたっていい。目の前のひとになら、気に入りの前髪をどれほど乱されたっていい。
 愛に浮かれた18歳のくちびるが、栓を求めて泣き叫んでいる。

(14/11/13)