1ドル均一開催

 じぶんが今、とんでもない過ちに大股で片足を踏み入れていることを重々承知の上で、三杯目のアルコールを飲み干す。不味い。濃度が薄過ぎるカクテルは悪酔いの原因になる。それでも惰性が働いて、柑橘の風味など毛ほどしか残っていないカシスオレンジを喉の奥に流し込む。次いで、口直しとばかりにサーモンマリネを口に運んだ。可もなく不可もない、至極一般的で特徴のないレベルに納まる味だが、それでもカクテルよりは救国的にマシだった。
 は今、瀬戸際に追い込まれている。今宵、チェーン居酒屋の片隅が、彼女にとっては罪悪の岸辺だ。勇気を持って踵を返す。なんて選択肢、はなから存在しない。けれど、一歩先へと進み、入水する踏ん切りも付かない。曖昧な立ち位置でじぶんをごまかし、ぼやかし、甘やかしていた。
 ――けれどその現実逃避も、対面席の男には遊びのひとつに過ぎないのだろう。彼は頬杖をつき、何やらにやにやと厭らしい笑みを浮かべている。赤らんだ頬の上には、何を考えているのか読み取れない色の瞳が並ぶ。はその瞳が大の苦手だった。目。にとって余りにも大事なあのひとの双眸と、どことなく通じている、その、目。彼等ふたりに明確な相似はない。それでもそこに共通点を見出してしまう理由は、未だ判然としない。彼がまばたきをした。それだけでの背筋には一種の震えが走りそうだった。耐え切れず、狭いテーブルに並ぶ料理に箸を延ばす。飲食で沈黙を紛らわすのも、あと何分続くだろうか。ポテトフライは冷め始めている。
「なあ、さん」
 低い、わずかに掠れた、その、圧倒的に男性的な響きに名を呼ばれた。仕方なく、は顔を上げ、箸を休ませた。相も変わらずどこを見ているか分からない瞳と視線が絡む。そこには確かな揶揄の色があった。何について問われるのかはすぐに察せられた。
さんってさ、迅のことずいぶん前から好きだったんじゃなかった?」
「三年前」
「うわ、それはすごい」
 驚いたように肩を揺らすのも、ただのポーズだと知っている。そんな彼の喉ぼとけが上下に動く。ずいぶんきつい日本酒を軽々と煽っている。は思わずおのれの喉許に手を触れさせてしまう。当然のことながら、指先には男性的な隆起など確認できない。そこにあるのは過度のアルコールに火照った表皮だけだ。薄っぺらい膚を爪で軽く引っかいてみる、が、きず跡すら残りはしない。
「それで、付き合って三ヶ月? だっけ」
「よく知ってるね」
「当然だろ。あんとき、本部の奴らみんな大騒ぎしてたんだ。迅に彼女ができたってウワサで」
「素で疑問なんだけど、そういうのってどこからもれるんだろ」
「迅だよ。本人が言い触らしてた」
 絶句した。驚きが表情まで浮き上がってしまったのか、肘をついてを見ていた男はうっすらと笑う。ニヒルに上がる口端も、小ぶりなグラスを掲げる手も、喉の隆起も、彼を構成するそのすべてが、の恋人とは異なっていた。迅はけっして華奢ではないが、目の前の男のように恰幅がいいわけではない。全身から男性的なオーラを発していない。
 空になったグラスを脇に押しやり、太刀川はテーブルに肘をついた。
「長年の片思いが叶ったってのに、それでどうしてさんが不満たらたらなのか、俺には上手く想像ができないんだけど。ていうかこんなとこで俺と飲んでていいのか? 嫉妬されるぞ?」
「それだけはない」
 間を置かず返ってきた言葉に、男の眉が上がる。下世話な好奇を隠そうともしないしぐさ。はそれが嫌いではない。その調子でもっと、私の生活に口を出せ。関与しろ。興味を持て。……お願いだから。そうでもなければ、
「ははあ。そーゆートコが嫌なんだな、要は」
 何もかも見透かしたように笑う。
 太刀川慶のそういうところ、最高にムカムカする。


 から太刀川に謝る点があるとすれば、そうだ、彼の部屋を汚いと勝手に思い込んでいたことぐらいだろう。この予想は半分も当たっていなかった。太刀川慶が住む単身用マンションは、手の付けようもないほど散らかって――いない。むしろ物が少なく、必要最低限の家具だけが適当に配置された、殺風景そのものだった。そのギャップに驚く暇さえなく、は太刀川によってクリーム色の壁へ押しやられていた。手首に絡み付く指がひどく長く、樹の根を思い出させた。逃げるつもりは毛頭なかった。彼を居酒屋に誘った時点から、最終目的はこんなふうに愚かな状態へ辿り着くことだけだった。
「迅はさ、こういうことしないだろ」
 低く鼓膜をふるわせる音にはびくりとした。太刀川の瞳に合わせた視線は、もしかすると揺らいでいたかもしれない。
「……こういうことって、」
「強引に壁に押し付けてやっちゃう、とかそういう」
 重々承知していたことではあったが、やはり。太刀川は話題が迅悠一に及ぶと、とたんに饒舌になる。疎ましい。羨ましい。その距離感が。曲がりなりにも迅と恋人同士であるのほうが、遠い。そんな気さえしている。
 なるほど太刀川は迅と尋常に刃を交わせる貴重な人間だ。だが、は? いつフェードアウトしてもおかしくない口約束に縋りつき、裏切られたような心地を覚え、そうして受け取り手の消えた愛情を赤の他人に押し付け、焼き尽くしてもらおうとしている、はどうなるのだ?
「迅は、強引なことなんてしないよ。そもそも、」
 私を抱こうともしないんだ。
 自嘲気味に言おうとしたせりふは太刀川の口内に滑り込んで消えてしまう。それでよかった。は安堵した。その、砂漠のように広く、獣のように逞しい背中に手を伸ばす。肩甲骨のラインが迅とは違うな、とふいに思った。迅の背を抱き竦めたことなどないというのに。
「うーん、好きな女を抱かない理由が俺には分からないんだが、」
「……大事にしたいんだ、って言ってた」
 悠々と、そして軽々と抱き上げられつつ、は答える。
 過去が脳裏を過ぎった。迅悠一の、寂しげな苦笑。万事に諦念しきった風情すら漂わせていたあれを咎めるなど、には無理だった。大切なんだと真正面から伝えられ、嬉しさが滲まなかったのかと問われれば大きく首を振る。でも、それなら。なればこそ。は彼に、触れて欲しかった。
「それは余所者の俺だって分かる。あいつ、見てて嫌んなるぐらい、さんのこと大切だって漂わせてるもんなあ」
 をベッドに寝かせ、衣服に手をかけつつ太刀川は言う。空気を読んだ世辞など無理なタイプの彼の言だ。迅の気持ちを疑う余地など、やはり、ない。
 やはりの忍耐力のなさが悪いのだろう。ただ、は、あのおとこの素肌に触れて確かめ合いたかった。けれど遂にそれを掴めなかった手のひらが、着地点を求めて彷徨い始める。接触要求の器が壊れ、汚れた中身が溢れ出す。そして都合よく現れた別の肉体。一級の代用品。だからこんなバカバカしい過ちに身をやつしてしまうのだ。
 押し当てられた太刀川の唇は予想外にあたたかく、そして少しばかり分厚い。至近距離でまぶされる吐息は未だアルコールを含んでいて、鼻にツンとした。
「大切だからって、見てるだけじゃ、博物館と変わんないよ」
 は展示品ではない。むしろ、安っぽい量産品に近い。壊れたら手ずから直せばいいし、買い直す手だって、あるにはあるのだ。けれど迅は、大切にしまい込んで見ないふりを続ける。もう我慢ならない。恋人になる以前の頃の方が、よっぽど健全だった。
 太刀川の無遠慮な手に素肌を撫ぜられて、胎の内奥がびくりとふるえるのが分かる。初めて味わう他人の三十六度五分が、の自意識を薄めていく。頭を過ぎるのはたったひとつの輪郭だ。いつだってに背を向ける、それでも焦がれずにはいられない、寂しそうな瞳の――。
 圧し掛かってくる太刀川の身体は重かった。しっかりと鍛え上げられた人間の重みだった。はその肩甲骨に指先を滑らせる。目を閉じる。
 このまま、核心とも呼べる傷口に触れぬまま抱き合って、それで得られるものなんて、恐ろしく単純だ。
 そんなもの、やすらぎ以外に何があるのだろう?

「恋人じゃない男に抱かれるのってどんな気分なんだ?」
「……意外と悪くないかも」
 太刀川慶は心底たのしそうに、笑った。

(15/10/05)