A spoonful of Ourselves

 ずいぶんと卑怯な手で太刀川慶に勝ったことがある。それは所持ポイントの動かない模擬戦でのできごとで、私と太刀川はいつものように、トリガー技術によって現実と見紛うほど正確に生成された疑似戦闘空間の中、お互いが愛用の孤月を握り締めた状態で対峙していた。ふたり、いざ踏み込まんとしたその一瞬、私は太刀川に向かって叫んだのだ。あらんかぎりに声を張り上げて。唐突に。
「私、太刀川のことが好きだよ!」
 太刀川が目を丸くし、間抜けにも呆けたその瞬間を逃すほど、私は馬鹿ではなかった。ほんのわずかなあいだ無防備になった彼のふところに飛び込み、心臓部を一閃。あっけない決着。
 それっきり、私は一度として太刀川から勝ち星を奪えていない。

 そう云うくだりがあるので、太刀川は折に触れて私を「ずるいやつだな」と評する。非常にくやしい。でも、前科持ちの身で反抗するわけにもいかず、私はただくちびるを尖らせるだけに留めている。こと戦闘能力に於いて、私と太刀川のあいだには明確極まりない差があった。どれだけ努力を詰み重ねても届かない位置に立つ、この、飄々としたおとこに、なんとかして一発入れてやりたくて、あのときはつい卑怯な手段に頼ってしまった。いくら同じA級とは云え、最下位近辺をうろうろ移動する私と、トップの座を掴み続ける太刀川とでは、そもそものトリオン能力に越えられない壁がある。それを事実だと切り捨てて諦めきれない私は、何度だって彼に勝負を挑む。
 きょうもまた、その最中だ。
 おまえは切羽詰まるといやに直情的になるんだ、という師匠の評価通り、苦境に追い込まれるとあたまに血が上ってしまいがちの私は、余裕そうな態度を一向に崩そうとしない太刀川からとどめの一歩手前と云った攻撃を食らい、かちんと来ていた。シンプルなつくりが馴染む孤月をしっかりと握り締め構えると、数メートル先に余裕綽々とたたずむ太刀川に向かって、爪先で一気に地を蹴る。文字通り、正面切っての戦いだ。トリオンのひかりを帯びたブレード同士がぶつかり合う一瞬前、太刀川は不意に笑みを深めたかと思うと……私の視界から消えた。
 ――テレポーターだ、と気付く前に、背後にはナイフのような鋭い気配が迫る。
「あっ、」
 と云う間に体勢が崩れた。何とも間抜けなことだけれど、ものの見事に足払いを食らったのだ。手のひらから孤月が滑り落ち、支点を失った私のからだは重力に従って倒れ込む――と思いきや、
「危機一髪」
 太刀川に抱えられてしまう始末。そのうえご丁寧にも横抱きと来ている。数える間でもない至近距離で視線が噛み合い、私はあからさまに大きなため息を吐いた。何度目か知れない、苦い敗北。
「……いいから、下ろして」
 あっけなく解放された。私はフロアに転がっていた孤月を掴み取り、鞘に戻す。
「私の負け。きょうはもう、終わり」
がそう言うなら」
 いったい何が面白いのか、にやにやと笑い続ける太刀川。嫌気が差す。私は彼を置き去りにして一足先にトリオン体を解除し、トレーニングルームの実体に戻った。何度体験しても、じぶんの実体に帰還する感覚には慣れない。朝、夢から醒めたときとそっくり似ているのだ。マットから上体を起こし、額を押さえてため息を濁す。つい今しがたまで抱え上げられていた腰と膝の裏に、まだ、温度が染み込んで残っている気がする。両手で顔を覆った。頬が熱い。まったく、ほんと、嫌になる。
 私が卑怯な手を使ってしまったあのとき以降、太刀川とのあいだに満ちる空気はものの見事に変化した。と云うか、あの羞恥極まる叫びは……実のところ、そっくりそのまんま、まるごと本音だった。太刀川の不意を突く引き金と、じぶんの内側に長らく留めていた感情の解放。それがおふざけみたいな行為の陳腐な真相だ。以後、どこをどう間違ったのか、それともこれこそが正しかったのか、何だかんだと剣やら言葉を交わしているうちに、こいびとにまで昇格してしまった。でも、そんな響きの甘さよりも先に「ライバル」の四文字がしっくりと来てしまうのが、私と太刀川の関係性だった。
 すごすごとトレーニングルームを後にし、ラウンジに向かう。大勢の隊員たちが各々気ままに憩いを満喫していた。私よりずっと年下と思しきすがたも多い。何せトリオン器官の成長は若ければ若いほど目覚ましいのだ。成人を越えた実戦担当隊員はそこまで多くない。私も太刀川も、そんなマイノリティに属するひとりだ。
 何やらにわかに入口の辺りがざわめいた。視線をそちらに動かせば、太刀川が他の隊員に囲まれているところだった。何を考えているのか読み辛く、そのうえ気怠い風貌をしてはいるけれど、さすがA級トップの人気は侮りがたしと云うやつで、彼の強さに純粋な憧れを抱く隊員は少なくない。会話に一区切りついたのか、太刀川はこちらへ歩み寄ってきた。面積だけはやけに広いソファの、私のすぐとなりに、腰を下ろす。長い脚と腕を組み、眠いのかあくびまで浮かべる。
「人気者は大変だね」
「ん? まぁ、それなりにな」
 繰り出した嫌味も取るに足らないと云った態度で躱されていく。いつものペースだ。
、俺、腹減ったんだけど」
「へ? え、あー、うん。私も」
「何だよその腑抜けた声は」太刀川が息だけで笑う。
「そっちがやぶから棒に変なこと言うから」
「変なこと? そんなの言ったか、俺」
「あーもう、このやり取りはこれで終わりね。始めるとキリないから……。ご飯って言っても、うーん、私いま余裕ないし外食はちょっと」
「なら作ってくれればいい」
「何を。ていうか、私が作るのが前提なの」
「そりゃ、おまえ、きょう負けたろ?」
「…………」黙り込む。
「あったかいのがいいよな。鍋とか」
「まだ鍋には早くない?」
「もうすっかり寒いぞ」
 私は曖昧に頷いた。近くのソファから、夫婦みたい、なんてどなたかのささやきが聞こえてきて、辟易とする。けっして悪い気はしない、けれど、これ以上こんな衆目に晒された場で応酬を続ける気にもなれない。やれやれと腰を上げ、太刀川に視線で出口を示す。察した彼も立ち上がり、私たちは揃ってラウンジを出た。好奇を隠そうともしない視線をいくつも背中に感じたけれど、いちいち気にしていたら身が持たない。慣れっこだ。
 途中の廊下で出くわした出水くんにひやかされながらも、私たちはボーダー本部を後にした。もう防衛任務などの予定もないので、帰路につくのだ。外はすっかり深い夜が広がり、もうすぐで冬を迎えようとする大気の、澄み渡った冷たさを感じた。薄手のトレンチコートの襟を引き合わせながら、思わず、さむい、と口にする。まだ息は白くない。
「ほら」
 横から伸びてきた長い腕が、私のこころ許ない首にストールを巻いた。薄手でも、あるのとないのとではぜんぜん違う。あたたかなそれに顎を埋め、もごもごと礼を言う。
「ありがと」
「風邪引くなよ」
「太刀川、寒くない?」
「平気」
 私の左手がするりと引っ張られ、太刀川のおおきな手のひらと組み合わされる。そのうえ、彼が着ているジャケットのポケットにがばりと突っ込まれた。明らかに歩きにくいけれど、文句は控える。
 いっとう強い木枯らしが吹き抜け、すっかり葉が落ちてさみしげな街路樹を騒がせた。
「……また、私」
「ん?」
 私の言葉が中途半端に途切れたので、太刀川が首を傾げた。背の高いおとこが少女みたいなしぐさをしているのは、なかなかどうして視覚的におもしろく、私はちいさな笑いをこぼす。
「遠征部隊に、選ばれなかったなーって」
 無意識のうちにふてくされたふうの声色を帯びてしまって、言ったあとで後悔した。視線が泳ぐ。
「それか。少なくとも、俺は良かったって思ってる」
「え?」
が危険な場所へ行かずに済んだってことだろ? 違うか?」
 淀みなく受け答える太刀川の目はいたって真剣で、私が子ども染みた地団駄を踏む隙間すらない。私は、どうもぼんやりとした歩調で覚束ないあかりに照らされた道を進みつつ、言葉の接ぎ穂を探した。
「確かに危険かもしれないけど、私の目標のひとつでもあるから、やっぱりそれなりに落ち込むんだよ」
 それが私と太刀川を隔てる実力差による結果だから、余計に身が切られる思いだった。近界にこの足で直接踏み入れ、じぶんが日ごろ対峙しているものの生まれた世界に向き合いたいと思うから、先日行われた遠征部隊選抜試験を受けたのだ。
 沈黙が落ちる。そうでなくても閑静な街の穏やかな夜だ。駅へ続く路地にはすれ違う住民のすがたすらない。無言の時間は重みを増していくばかりだ。ふと、太刀川の足が止まる。私の足も、釣られて止まる。つながっていた手が離れた。さむい。
「おいおい、それは俺に慰めろってことか?」
 太刀川は、いつもの、明らかに楽しんでいる瞳で私を覗き込んできた。そんな態度を取られてしまっては、私の幼い嫉妬の出番すら、ことごとく奪われてしまう。こんなささいな躓きで悩むじぶんが矮小に思える。

「なに」
「おまえの取り柄は何だ」
「……諦めの悪いところ」
「だろ。なら、次にすることも分かってるはずだ」
「…………引き続き鍛錬」
「正解」
 いい子だ、だなんて懐かしい言葉とあったかい抱擁で、容易に丸め込まれる。すっとぼけた態度を取っていながら、その実、最適な言葉を齎すのがずいぶんと上手い太刀川の、差し出してきた優しさをしばし味わう。
「おまえさ、」
「ん」
「ずるいやつだな」
「自覚はあるけど。太刀川が今言ってるのは、どういう意味での、ずるい?」
「おまえ、わざわざ言葉にしなくても、雰囲気にして醸し出すのが上手いんだ。今だってそうだよ。辺りの空気に、つらいからなぐさめろ、って滲み出てた」
「そして太刀川は、その空気に流されてくれたと」
「俺はできた人間だよ、まったく」
 これだから、私の馴染み、もとい、剣の師匠には、勝てない。ずるい手段でも用いない限りは。
 あらゆる意味で彼に負けること。気が強くはねっ返りの私は甘い敗北にも子どもっぽい慰めにも逆らいがちだけれど、それでもたまにはこうして、ありふれた優しさを彼から与えられることを望む。日常に満ちた棘に突っかかって出来た傷の上に、彼の長くしたたかな指で傷薬を薄く塗っていただく。傷が癒えたら、また戦いに挑むため。休息は万人に必須。
 人の往来のない路地のど真ん中で、しばらく触れ慣れたからだの体温に包まれてから、そっと身を離した。そしてふたたび細長い道を歩き出す。
「鍋、なんのやつにしよっか」
「豚肉と白菜のやつ」
「いいね。楽だし。シメは?」
「ラーメン」
「うん。野菜切るの手伝って」
「お安い御用。あ、そうだ、俺、あした非番なんだよ。大学もない」
「私は午後から任務入ってるけど」
「じゃあ午前様になっても問題ないな」
 いとも自然な調子でまたつながれる指先であったり、何を工夫せずともテンポが重なる歩調など、そう云うありふれたものの普遍的なあたたかみを感じながら、来たる遠征の日に思いを馳せた。太刀川が無事に帰って来なかったら、私は、ライバルと師匠、馴染み、それにこいびとを同時に失うことになるので、是非ともそれは避けて欲しいところ。ぼんやりと考える。私が遠征部隊に選抜される日が訪れたとき、太刀川はおんなじようなことを心配してくれるだろうか。その場合失うラインナップは、弟子と馴染みと、こいびと、のみっつになるのだけど。まったく、私たちは実に多い名称の持ち主だ。どれかひとつに絞れば分かりやすいと云うのに。マルチな役割を互いに与えてしまった私たち。磨き上げた刃をライバルとして交えもするし、そのあとには肌だって重ねる。不在がもたらす心配に身を焦がす夜も、勿論。同じ材料を使っているのに、調味料の匙加減ひとつでがらりと風味を変えてしまう料理みたいなものだ。
 ふたりの頭上、天高く、そ知らぬ顔でオリオンがまたたく。もうすぐ、12月になる。

(2013/12/14)