Refractory Summer

 群青の夜空に打ち上がる花火はこれ以上ないほどきれいで、あざやかなひかりの粒を熱帯夜に散らしては潔く消えていく。諏訪洸太郎はしばし言葉を忘れて真夏の風物詩に見とれた。祭があるよ、とに誘われた際はさんざん面倒だと渋ったくせに、今となれば彼女の隣で口を噤み、幻想的な世界に浸っている始末。数秒だけの横顔を盗み見た。おなかに直接響く音と共に咲く花火のひかりが、おんなの瞳に反射している。胸の奥がしずかに高鳴った。
 たーまやー、という声が、諏訪たちのように花火を楽しむ市民の中からいくつも上がる。
 この花火大会は規模こそさほど大きくないものの、割と観客動員も出、三門市の夏が最も盛り上がる夜だった。神社の参道や商店街にはところ狭しと出店が並び、客の老若男女は思い思いに祭をたのしむ。昼日中の熱をまだ孕んだままのアスファルト上を、夏の装いに着飾った子どもたちが笑い声と共に駆けていく。縁日のお囃子。過不足のない夏祭の夜。諏訪とも、そのなかに在る。
 ベンチに腰を下ろすふたりの手許には買ったばかりのかき氷。夜空に集中する時間が延びるたびに、さらさらに削られた氷が溶け出して、カップのなかで甘ったるいシロップと混じり合う。クライマックスのスターマインが上がるころにはすっかり液体に変化してしまった氷菓を、諏訪らは苦笑と共に飲み干した。二本の舌がいちごシロップの色に染め上げられている。味蕾に上塗りでもするように、練り歩いた出店のひとつで林檎飴を買い求めた。
「やっぱりお祭りに来たら、これだよね」
 飴の包み紙を取り除きながら、傍を歩くが諏訪を見上げてきた。諏訪はいささか渋い顔を作る。
「喰いづらいだろ」
「そこもほら、醍醐味ってことで」
 ふたりはまず手を繋ぎ直し、空いた手であらためて林檎飴を持ち直した。の赤い舌がちろりと飴を舐めるのを諏訪がぼんやりと眺めていることに、彼女は気付かない。それどころか目の前の飴が持つノスタルジックな甘味に口端をほころばせていた。とてもあまいね。ひとりごとともせりふとも取れるささやきを夏の夜に溶かしていく。
 メイン・イベントの花火が終了し、祭会場を後にする客のすがたが目立ちはじめた。
 ふたりもまた、帰り道を歩き出す。からんころん。神社の石畳を踏む足許では下駄の音色が響いている。当初、は諏訪に浴衣を着るよう強請ったのだが、諏訪があまり良い顔をしないようすを見ると、甚平はどうかとすぐさま代替案を出してきた。さすがに諏訪もそこまでして頑固に断るつもりもなかったから、が選んだ甚平を買い、袖を通してみた。意外と快適で驚いている。
 はもちろん浴衣すがただ。彼女お気に入りのものらしく、きょうの待ち合わせ時などは興奮を交えながら着て来たそれについて語っていた。白地に桔梗色の菊が乱れ咲いているだけのシンプルな品だが、流行のゴチャついた模様なんかよりもずっとに似合っているし、諏訪も好みの大人びた装いだった。薄香梅の小袋帯が妙齢の女性らしい雰囲気を加えていて、普段よりもずっと婀娜っぽい。髪も丁寧にまとめ上げられ、生白いうなじに垂れた後れ毛が涼やかな流れをつくっている。
 そんなを、他のボーダー隊員に見られず済んだことに、諏訪はひとりで感謝していた。なにぶん地元の催しなので、知り合いとの遭遇など決して避けられないアクシデントのひとつと諦めていたのだが、予想に反してどの隊員ともすれ違わない。ほとんど奇跡にちかい夜だ。快い他人で大勢にぎわう中、ふたりきりの距離感で出店をひやかすのは単純に楽しかった。足を運んだ甲斐もあるというものだ。
 お囃子の音が完全に聞こえなくなってしまうほど、会場からは距離が離れた。そろそろ住宅街に差し掛かる。ここまで来るともう、道を歩くひとはふたりのみだった。諏訪がひとりで暮らすアパートに戻るのだ。は楽しげに花火の所感を語っている。あー、とか、ん、とか短い相槌を返す諏訪を、が小突く。不貞腐れた風のつぶやきが、もれる。
「……諏訪は分かんないかもしれないけど、」
「あ?」
 急に何の話だろうか。諏訪が見下ろすと、は一瞬だけ視線をさまよわせてから、ぼそぼそと言い辛そうに続けた。
「私さ、きょうの花火大会ほんっとに楽しみにしてた」
「……オマエ、そんなに花火好きだったっけか」
 わざととぼけてみせると、さすがのもムッと眉を寄せた。諏訪は声を出して笑ってしまう。わりーわりー、と軽い謝罪をつぶやいて、うなずく。オレもだとはどうしても言えない弱さ。代わりに、せっかくの纏め髪を乱さないよう優しい手付きで、の頭を撫でさすった。彼女はこれに弱い。
「機嫌、悪くなったかよ?」
「……そんなことないです大丈夫デス」
「んだよその喋り方」
「恥ずかしいんだよ、諏訪に頭撫でられると。あーもう」
「ふうん?」
 思わずくちびるを厭らしいかたちに歪めてしまう。の頭に乗せたままの手のひらを雑に動かした。
「うわ、だからもうやめてって、髪崩れるから」
「機嫌直せ」
「もともと悪くなってないってば。………まあただ、私としては……なんというか、その、できない着付けまで親に習って来たんだから、意気込みぐらい察して欲しかっただけで。ごめん」
 夜闇でもそれと分かるほど頬を染めたが俯くのを、諏訪は目をまるくして見ていた。じんわりと汗ばむ暑い夏の夜が進度を止める。心臓がやたらと強い鼓動を打つ。
 ――つまりそれって、脱がしても大丈夫ってことだよな。
 そう諏訪が胸の内につぶやいたのを、が知る由などない。



「おじゃまします」
 鍵を開けたワンルーム・マンションに、まずはを通してやる。赤い鼻緒の下駄を脱ぐ彼女の背を、諏訪は見るともなしに見た。うっすら汗ばんだうなじに貼り付いている、やわらかい髪。否応なしに入ってくる視界情報と、夜でも下がらない気温が相乗効果を起こし、頭の奥を直接揺すぶられているみたいだった。
 早く煙草が吸いたい。
 諏訪は冷房に電源を入れるよりもまず、ローテーブルに置き去りにされていた四角い小箱を引っ掴んだ。慣れた仕草で煙草の先に赤い火を点す。肺腑の最奥まで沁みる深いひと吸いで理性を取り戻した気がする。とりあえず、手狭なキッチンでふたつのグラスに氷を入れ、冷蔵庫に作り置きしてある麦茶を注ぐ。それをテーブルに置けばさっそく硝子が結露して、あらためて夏の温度を感じた。
 といえば、すべらかな素足でカーペットを踏みしめ、ところ狭しと文庫が詰まった本棚の前に屈んでいる。不在のあいだに増えた書籍を探すのが楽しいらしい。図らずもまた、透明のしずくが滲むうなじが目に入ってしまう。
 ――ああクソ、ったくなんなんだ。
 諏訪は焦る指先で煙草を灰皿に擦り付けると、汗ばんだ甚平を脱いでラフな部屋着に着替えた。そのようすを残念そうな目で一瞥するに、
「オマエは脱ぐなよ」
 と、釘を刺した。意図を掴みかねたが微かに首を傾げて、その拍子にまた、結い上げられた髪が揺れる。
 自分の手で剥ぐために、脱ぐなと言った。
 諏訪はおのれの自分勝手さに呆れを覚えながらも、未だ本棚を眺めたまんまのに腕を伸ばす。彼女はびくりと震えた。上質な帯の辺りを抱えてやると、なるほど腕の中の温もりは夏にはちょっと苦しいほどの熱を持っている。冷房のリモコンに手を伸ばすのも面倒で、横着な足の指先を使い、すぐそばの扇風機にスイッチを入れた。生ぬるい風がの浴衣の裾を揺らす。諏訪は息を吐いた。そのまま目前の汗ばんだうなじにくちびるを寄せる。が体を捩り、笑った。
「あ、ちょっと、そこ汗かいてるって」
「気にしねえよ」
 そんなものは瑣末な問題だし、むしろ男にとっては唯の興奮材料にしかならない。あるいは起爆剤のひとつ。やわらかい腰を抱き寄せたままの腕に、の手のひらがためらいがちに乗った。抵抗の意志か、あるいは受容か。諏訪は自分に都合がいいように捉えた。くちびるに触れるうなじの白に赤い舌を這わせ、塩っ気のある汗を舐め取っていく。おもしろいようにが跳ねる。俎板の上の魚もこんな反応をするのかもしれない。
「あっつ、い」
 がぼやく。
 そうだ。暑い。ただただ熱い。
 うなじから耳朶へ続く道をなぞりながら、諏訪は手のひらを上へ滑らせていった。勝手の分からない和服の、触れ慣れない生地に無遠慮な皺を残さないように、そっと。心なしかいつもよりボリュームが抑えられた胸を包みながら、赤い耳に息を吹きかけた。
「皺、できたらわりぃ。先に謝っとくわ」
「い、いよ。別に。いい、から」
 途切れ途切れのせりふには、別に扇情的な単語も意味合いも何ひとつ含まれてはいないのに、それでも諏訪を昂ぶらせる。舌っ足らずのいとおしさ。耐え兼ねて、襟のすきまから左手を滑り込ませた。浴衣の内側は蒸すように熱い。ゆっくり胸のかたちを変えて遊んでみると、普段とは違うような感触だった。襟から覗くのはシンプルなキャミソールだ。いつものような下着を付けていないのか、と思う。というより、和装専用の代物があると聞いたことがある。キャミソールのカップの上からそっと中心を擦ってやると、はぎゅうと目を閉じて唸った。自由に動くほうの手で脚のラインを撫でてやる。胸の内に閉じ込めた生きものが湿った息を吐き出すさまを、至近距離で眺め続けていたい。
 の手を引き、ベッドに寝かせると、彼女はするりと纏め髪を解いた。寝転がると邪魔になるのだろう。青く透ける硝子玉に飾られた真鍮の簪を、は大事そうにサイドテーブルへ置いた。ゆるいカーヴが癖付けされた髪が冷感シーツの上へまばらに散らばる。その放射状に似たラインが先ほど見た花火を思い起こさせた。の、ぼんやりと熱を孕む瞳が諏訪を見上げている。彼女はそのまま腕を上げ、諏訪の頭に触れると、刈り上げのぶぶんをしなやかな親指で撫でた。子どもっぽい愛撫に、諏訪の脳髄がまた温度を上げる。口付けたいと思って顔を寄せると、触れ合う一瞬手前の距離――が吐息だけのやわらかさで、ささやく。
「ねえ」
「んだよ」
「また花火いこう、いっしょに」
 諏訪はため息を吐きたくなった。
「いくらでも行ってやるっつーの……」
 言い終わるか否かのタイミングでくちびるを塞ぐ。の頭を囲うかたちに手を付き、夢中でキスを繰り返す。正確な温度は分からないが、何しろ暑い部屋の中である。滲み出す汗がしずくとなって肌のあちこちを伝い、そのうちのいくつかがの浴衣に正円の染みをつくっていたって何らおかしくはない。とりあえず、謝るのは後にしよう。諏訪は手探りでの帯を緩めた。何しろ浴衣のこいびとを脱がすなど初めてで勝手が分からない。手間取るすがたを眺めて苦笑していたが諏訪の掌を取り、上手い方法を直接教えてくれた。こんなふうにするんだよ。穏やかな響き。
 艶やかな浴衣の前をくつろげて、シンプルなキャミソールをぐいと押し上げる。肌蹴た浴衣の上にぼろんとこぼれ出たふくらみはどこまでもやわらかく、撓ませるたび甘い感触を諏訪の指先に伝えてきた。お互いすっかり汗をかいているから、つるつる滑る。もう尖っていた胸先に軽く吸い付くと、は諏訪の頭をひっしと抱き、縋りついてきた。それから諏訪の頭上でこぼれ出した短い喘ぎ音が慎ましやかに部屋に響く。そういえば、窓が、半分ぐらい開いているはず。隣室に聞こえてしまうのを恐れて、一瞬、冷房のリモコンに手が伸びかけた。でも、今の諏訪はあくまで目の前にある存在だけに集中したいだけの男だった。だから体裁や気遣いをすべて一度捨て置くと、あらためての肌に自分の肌を合わせる。世にもいやらしい器官、舌で、あますところなく舐め上げて。
「ん、あ、ううっ」
 平らな腹に口付けつつ、の膝を割った。浴衣と素肌のあいだに這わせた手を上下させるたびに震えてくれる素直さに感心してしまう。いつもより興奮を覚えているのが諏訪だけではないという、何よりの証拠だった。まるで弄ぶみたいに、一瞬だけ脚の奥を指で掠めてやる。一秒に満たない接触でも、がさんざん反応しているのは明らかだった。諏訪の右手人差し指、それから中指が、じっとり濡れて熱い。
「あー……すげェな」
 ほとんどひとりごとだったのにも関わらず、は聞いていたらしい。とまどいと羞恥に視線が揺れている。諏訪は一度ほくそ笑むと、そのままゆっくりと指を内部に滑り込ませた。何ら抵抗なく受け入れられた二本を、そうっと動かす。が吐息だけで快感を伝えた。あくまでもゆるやかに指を進ませつつ、赤い突起に触れてみる。はびくびくと震えた。
「あ! ……ッ、はあ、」
 軽く達したらしく、は肩で息をしている。諏訪は埋め込んだままの指をちょっとだけ出し入れさせ、内壁をくすぐるようにしながら、おんなの表情を眺めていた。閉じられた目蓋、睫毛の細やかな震え――和の装いも相まって、匂い立つほどなまめかしい。上気した素肌に汗が伝うようすなどは欲情しろと言わんばかりの光景だった。ややあって、がゆっくり目蓋を開ける。視線を合わせると彼女は数秒だけためらいを見せ、それから思い切ったように、
「……すわ、キスして欲しい」
 と、漏らす。
 くちびるが切れるのではないかと思うほどに、深く塞いで、貪った。
「煽るなよ、」
 そんな悪態を吐くのが諏訪の精一杯だった。予想外のタイミングで弾を撃ち込まれるのはほんとうに困る。一刻も早く繋がりたくなってしまって、サイドテーブルに手を伸ばした。引っ掴んだ小箱を振ると、ぽすりという情けない音と共に避妊具の小袋が転げ落ちてくる。最後の一個。いつの間にか完全な芯を持った自分に被せて、に伸し掛かる。入口をなぞるように、性器で性器を扱くように、擦り合うだけの行為に興じてみた。早く早くと叫ぶふたりの自制心を試すだけの、趣味の悪い悪戯。案の定の目は潤む。そして腕を伸ばしたかと思えばなんと諏訪のそれに手を添え、自分のぬかるみに宛がった。そればかりか、更なる言葉まで加える。
「お願い、早く。ずっとしたかった。お祭りの前、諏訪に会ったときから。ずっと」
 煽られたから仕返しをしたつもりが、また更なる追撃を食らう羽目になるなんて。諏訪はいよいよ項垂れる。それからごくり、期待と覚悟の唾を飲んだ。
「――は、あ……っ」
「……ッ」
「き、もちいい」
 もっと動いて。いっぱい動いて。まっすぐ強請られて、その通りにする。諏訪も、そんな激しさを心の底から望んでいた。の腰を掴んで突き上げれば、中途半端に緩んだままの帯がふらふら揺れた。一旦、律動を止める。それから、ゆっくり。赤黒い先端で最奥を優しく撫でるように、微妙な動きで突き上げると、の瞳から汗とは違うしずくがこぼれ落ちた。体をわななかせる。
「あ……っそれ、好き」
「…だろうな、」
「ん、んッ、あ」
 が諏訪の首に縋り付いてくる。離れられない体を組み合わせたまま好きに動いていると、性感は勝手に最高潮を目指していく。粘着質な肉にぎゅうっと締め付けられる独特の感覚は、男にしか味わえないたぐいのものだ。じゃあ、女は? は今、何を感じて声を漏らしているのだろう。夏の夜に喘ぎながら、諏訪の何を味わっているのだろう。不思議に思った。汗で髪が貼り付いたの額をそっと撫で、くちびるを寄せ慈しむ。
「う、あ、だめ、いきそう」
 今にも溶けそうな表情で、しどろもどろに宣告される。諏訪の具合もそろそろだったから、短くうなずいた。硬い胸先をふたつ同時に抓り上げてやったとき、はびくりと腹を震わせた。彼女の内側の収縮に釣られて、諏訪もそのまま一度吐き出す。圧倒的な瞬間に眉を寄せ、全身には熱が走る。ゆるゆると腰を引き、ずるりと抜け出た性器を見下ろす。ラテックスゴムの内側にはどろりとした濁りが溜まっていた。はあ、と深い息がふたつ。ふたりとも、体はさまざまな液体にまみれている。不要になったゴムの口を縛ってゴミ箱に放り込むと、息を整えているの横に寝転んだ。ちらと確認すると、浴衣にはやはり皺ができていた。しかし驚くほど罪悪感はない。
「……あれ。なくなっちゃったね」
 が、転がっていたコンドームの箱を振りつつぼやく。それから何かを思い付いたように、不意に諏訪の耳許でささやいた。ひっそりと、子どもが秘密話でもするみたいなしぐさ。
 ――次は、生で入れてもいいよ。
 諏訪の背筋がぞくりと震え上がる。それから数瞬逡巡して、の頭を軽く小突いた。馬鹿野郎、クセになったらどうしてくれんだよ。そう眉を顰めることしかできない。
「ほら、私、不順のせいでピル飲んでるから。へいきなのに。諏訪ならいいのに」
 楽しげに笑うの肩がどこまでも憎い。
「暑いから、今度はクーラー付けてしよう」
 言われなくてもそのつもりである。諏訪はよろりと立ち上がった。テーブルに放置されていたグラスのなかみは、すっかり溶けた氷で薄まっている。それを一息に飲み干す。自分たちの衝動すら手に負えないでいる、ふたりぶんの厄介な夏。次の花火大会はいったいいつだったか。

(14/08/10)