Collapse Drops

 幾度だって繰り返す。擦り切れたその四文字に意味など、果てには一筋の救いすらないと初めから分かっていて。霞んだ視界の中で記憶がフラッシュバックするのに合わせて、恨みがましく問い続けるしかないのだ。どうして、どうして。どうして。
 ねえ、どうして。

 雨と涙が交じり合った結果の液体が口唇に流れ込んでくる。塩気は感じない。喉の奥から醜く漏れる嗚咽を止める術を何ひとつ知らないために、はすべてを自然に任せた。何もかもを喪ったような感覚。身体の内部に巨大な虚ろが空いてしまったような感覚。不思議なことだが、悲しみはまだ、湧き出てこない。さよならさえ言えなかった口唇が、愛おしい名前を呟こうとしてふるえるだけだ。疲弊した喉ではろくに声も紡げなかった。最低限の体力すら失った肉体が道端にくずおれる。降り頻る長雨はの肩や背ばかりでなく全身をくまなく濡らしていった。
 手のひらを離れたビニール傘が、ころころ、転がっていく。そして、灰色のコンクリートにひっくり返る。死んで腹を見せる蛙を彷彿とさせた。
 急激に体温が下降していくのに比例し、意識の色も薄まっていく。着の身着のまま家を飛び出して来たはいいが、明確な目的地など、にはない。これはどこまでもナンセンスな疾走だった。何しろ捕まえたい相手はもう、遙か向こう側の世界へ旅立ってしまっている。一体どうして追いかけられようか。万が一、彼の許に辿り着いたとして、を見つめるのはきっと、無機質なふたつの瞳だけなのだ。その虹彩に再会を喜ぶ色はない。分かっている。彼と、ふたりで歩んだまあるい日々はきょうの線の上で、おしまい。
 うるおいの五月雨が三門市をしとどに濡らしていく。
 が身を捩ると、パーカーのポケットから携帯端末が滑り落ちた。あらゆる水滴に犯され尽くした機械が今後なにかの役に立つことはない。馬鹿のひとつ覚えのように、今朝届いた一通のメッセージを液晶画面に表示しているだけだった。
 すまない。さよなら。
 その四文字が、を、この世の底に叩き落とした。霞んだ視界が更に滲む。どうして。数百度は繰り返した疑問詞がの口唇を突いて出る。問いの回答など、既に用意されている――それが彼の進んだ生だった。が干渉を許された領域にはない、彼の選択だった。
 その生き方がどれだけの人間を苦しめるのか。聡明なあのひとが、想像出来ない筈もない。涙に暮れる人間の数を、計算できない訳もない。全可能性を予め認識した上で、それでも尚、彼はそうせざるを得なかった。――あまりにも、無力。結局、こいびとだったには端から何も出来なかった。こうして彼のいない街を彷徨い、雨と涙に濡れるのが関の山だ。B級ドラマに登場する悲劇のヒロインだってもっと上手に悲哀を味わうだろう。もうの手にあの穏やかな温もりはない。遠い場所へ行方知れずだ。彼の――雨取麟児の、体温の残滓が、の皮下に焦げ付いていた。嵐の中で道しるべを失う旅人なども、今のと同じ心境に陥るのだろうか。途方に暮れる。長雨は降り続く。の未来を嘲笑うように。
 ふと、水滴の落下が納まった。
 目の前に、雨をよく弾く革靴を履いた足がある。
「……馬鹿が。ここで何してる」
 視線をゆっくりと上げる。ああ。は自嘲するように笑った。愚かだ。わずかでも期待してしまった自分自身が。色を失った口唇と、濡れそぼって衣服に貼り付いた黒髪は、きっとそのひとの瞳に醜い物体として映り込んだに違いない。だから遠慮などせず、腐敗した塵を見るような視線で、どうか、を見て欲しい。なのに。
 霞んだ視界の内側で、幼なじみがを見ている。
「……まさたか、」
「自業自得だな。良い気味だ」
 まったくもって彼らしい台詞だった。はおかしみを堪え切れず、腹の底から笑う。どうにかして力を籠めた足で立ち上がった。けれど、また、くずおれてしまう。ほとほと嫌になった。力なく被りを振る。もう、いやだ。つぶやいた言葉が幼なじみにまで届いていたかは定かではない。そんなもの、もう、は覚えちゃいないのだ。

 五月二日。その雨は降り始めた。
 そうしてまだ、の肩を濡らし続けている。



 これを前にするとまるで我慢できない。
 はふ、と一口頬張る。口の中に柔らかい甘さが広がっていった。後味すら上品でこれまた堪らなくなり、二口目にフォークを伸ばす。大した力を入れることもなく切り分けられた白の断面からクランベリーソースがこぼれ落ち、デザートディッシュをきれいに汚した。そのひとはいつも何処だか知れない高級店の洋菓子を土産に持参する。もはやそれを当然の事として捉え始めたは、一人暮らし用の冷蔵庫にケーキ用の余剰スペースを必ず残しておくことにしていた。これを贅沢と言わずして何と言うのだろう。奮発して淹れた上物の紅茶をあいだに挟みながら、至極の時間を味わう。ケーキを購入した張本人といえば、相変わらずの仏頂面で本なんぞを読んでいるのだが――まあ、知ったことではない。与えられたのだから味わうまでだ。しろがねのスプーンを持つ指先さえ、浮かれて弾むよう。
 ケーキボックスに差し込まれていた新作紹介カードに目を通してみる。夏らしい涼やかなメニューが勢揃いしていた。男が今回買ってきたのは、オーソドックスなベリーのレアチーズと、彩りがまぶしいレモンタルト。異色なところでは、スイカの果実を閉じ込めたジェリーなどもある。
 は隣に腰かける男に問うてみた。
「匡貴は食べなくていいの」
「要らん」
「ふうん。勿体ない。ここいいね、甘さがすごく丁度いい」
 二宮匡貴は答えない。ふたり掛けのソファですらりと伸びた脚を優雅に組み、革のブックカバーに包まれた文庫本の活字を追っている。は密かに笑みをこぼした。きっと男は次回もまた同じ店のケーキを持ってくることだろう。そして皮肉気な口許を隠そうともせず、のアパートのインターホンを鳴らすのだ。は小走りで玄関に向かう。鍵を開けた先、こいびとを抱きしめるよりも先に、彼の手にあるケーキボックスを受け取るのだ。
 はじっくりとレアチーズケーキを楽しんだあと、空になった皿とフォークをシンクに片付けた。紅茶のお代わりを客の分まで淹れて、ソファに戻る。休日にいただく三時のおやつの何と美味なことか。ついつい鼻歌までこぼしそうになるが、さすがにそれは傍の男に鼻で笑われかねないので行動には移さずにおいた。
「よいしょ」
 ソファの空きスペースに深々と腰を落ち着ける。ふう、と満足げな息を吐けば、身体に入っていた無駄な力などがすべて抜けていき、一気にリラックスモードへ突入する。加えて隣には、ぶっきらぼうだが分かりにくい優しさを提示してくる、こいびとがいる。これを嬉しいと言わずして何と表せばいいのか。
 二宮とはまだ自我が芽生えない頃からの古い付き合いになる。常に高圧的で上から目線な人間であることを除けば、二宮匡貴という男はという女にひどく良く「馴染む」。こうしてふたりきり、沈黙の満ちた部屋で休日の午後を過ごすのも、もう何度目になるだろう。ふたりきりという五文字に特別な意味が付与されてから、どれくらいになるだろう――上手く思い出せない。
 そこで、おや、おかしいな、と思う。少なくとも交際を始めて三ヶ月ぐらいは経過しているはずだ。ただ、明確な区切りが曖昧で、ハッキリしない。自分はそこまでいい加減な人間だったかとは疑念で首を捻るが、深くは考えないことにした。まったく、よりにもよって記念日をど忘れしてしまうとは情けない。それも、生まれて初めてのこいびととの――はじめての、こいびと?
 途端、頭の奥が激しく痛んだ。
「いっ……た、」
 思わず目を顰め、額に手を当てる。古傷が急に自己主張を始めたような、例えるならばそんな痛みであった。幸いにも激痛は一瞬で過ぎ去り、その後の痛覚は徐々に凪いでいった。数秒も経てばほとんど治ってしまったので、大して気にするものでもなかったかと結論付ける。
 ――ふいに、右頬のあたりに視線を感じた。
 が二宮の方を向き直ると、いつも通り不機嫌そうな瞳と視線が絡んだ。首を傾げる。二宮の端正な表情が、何やら常よりも二割ほど鋭さを帯びているような印象を抱いたのだ。
「……なに、どしたの、匡貴」
「頭が痛むのか」
 数式の解を尋ねるように平坦な声。だが、何故だかは尋問でもされているような心地になった。
「さっき、一瞬だけ。気圧の関係じゃないかな。ほら、外、暗くなってきたし。雨が降るんだと思う」
 かすかな居心地の悪さをごまかすために、は明るく答えた。しかし、二宮の視線――そこに含まれた猜疑の色は変わらない。彼がなぜそんな色をに注ぐのかはまるで分からなかった。問うてもならないと、直感的に思った。ゆえには窓の外を指差し、真っ黒に染まった雲を嘆いてみせる。
「きっと、夕立だね」
 まるで地獄のような色に変わった雷雲が、遠方で怪し気な雰囲気をふくらませている。あと一時間もしないうちにおそらく雷雨になるのだろう。世界を寸断でもしそうな雷が外界に鳴り響き、叩き付けるような大雨が夏の三門市をしとどに濡らす。
 雨。しずく。………雨が、降り出す。

 二宮がの名をきちんと発するのは珍しい。ハッと目を見開いて、はすぐ隣にいるこいびとの瞳を見た。理知的な、論理を宿したひかり。にとってとても大事な筈のひかりだ。
「な……に、匡貴、」
 頭の髄がふら付く。
 は二宮を見上げた。背中にはソファの柔らかさを感じる。両頬の横に突き立てられた二本の腕が、にはまるで檻のように見えた。有無を言わせないひかりが降りてくる。
「なに、どうしたの」
 封じられた口唇から呼吸諸共奪われていく。
大切な何かを忘れている気がするのに、服と肌のすきまに滑り込んできた手のひらがの疑問符を許さない。このままではいけない。自由になる手のひらで二宮の胸を押し上げる。なのに、彼はをソファへ縫い止め、どんどん墜落させていってしまう。どうして。――ねえ、どうして。
 ああでも、もう、どうでもいいのかも知れない。
 きょうも二宮が買い求めてくれたケーキは、とっても美味しかった。休日の午後を慈しんだ。いとおしきただひとりのこいびとと共に。ならばそれでいいじゃないか。頭の奥で誰かがにっこりと囁くのだ。記憶の蓋をこじ開けようとするの手を掴んで、ばきり。圧し折ってしまう。
 ひとすじの閃光――ほら、想像通り雷が鳴り始めた。次いで、鼓膜を激しく叩く雨音が響き出す。
 降り出した雨が止まずともよい。
 二宮匡貴は、ずっと、のそばで傘を差し続けてくれるはずだ。
 きっと何も、心配はない。

(15/07/12)