Paradise Jel

 突き立てられるものの正体が性器だろうが侮蔑だろうが、そんなことはもうどうでもいいのだ。どちらにせよ、自分は実に正しい意味で犯されるのみである。
 ここにあるのは、ふたつだけ。
 浅はかで本質的な衝動と、ふたりの人間のどす黒く濁った熱。
 薄闇に馴染んだ視界が透明に滲む。いっさい容赦のない背後からの責め立てが、の体力を奪う。力なく、クリーム色の壁にしな垂れかかり、縋るように爪を立てる。がり、という音と共に、削がれた壁紙が爪の間へ入り込み、垢のように汚らしい存在感を持つ。
 至近距離から荒い吐息をまぶし続けた壁紙はすっかり湿っており、不意にそこへ触れた指先が気持ち悪かった。
「ふ、ああっ……あ、ッあ、や――」
 これはもう、快楽というより責め苦に近い。
 奥ではまだ飽き足らない。更にもっと奥へ。終着点を擦られるたび身体がふるえる。そんなところを強引に貫かれても息苦しいだけだ。――そのはずなのに、の脳髄からは呆れるほどの快楽物質が分泌されていた。掠れた嬌声はどうあがいても止まらないし、既に幾度となく限界も迎えてしまっている。過剰な悦に、涙さえこぼれる。
「――――っ、やぁ、また、おかしくな、る」
 目蓋の裏がしろくはじけるような、幻覚まで見えていた。
 何度目か知れないピークの処理をが終えるのを、背後の男が待つはずもない。のやわらかいからだを好き勝手に揺さぶり、至って事務的に性欲を発散し続けるそいつには、配慮が致命的に欠けていた。ただ、本人がそれを嫌悪している訳ではない。むしろ具合がよかった。余分な面倒を挟まず、あくまで肉のみを貪られるのは、簡潔だ。1から1を、引くように。
「! あ…っあ、だめ、だめ」
 ずるりと音を立ててそれが引き抜かれる。今この瞬間まで男を受け入れ続け、その結果どろどろにとろけた箇所を、細長い指が急に擦り上げた。浅ましく膨れ上がった赤い核に粘液を塗りたくられ、痛みと紙一重の快感がの背筋を駆け上がる。いやいやと被りを振ったが、意味をなさない。水揚げされた魚よろしくふるえるのが関の山だ。
「ん、ああっ」
 ふたり分の体液にまみれた指を何本か内側に差し込まれる。男の性器の横暴に慣れた今、そんな細さだけでは決して満たされやしないのに、不随意に蠕動する襞を撫でられると子どものように泣き喚きたくなるのだった。
 を細部まで知り尽くした男の指が、根本まですっかり埋まる。蜜を掻き出すような動きが繰り返された。息が止まりそうになる。はく、はく、と口唇がわななく。酸素を求める金魚のように必死だった。どれだけ吸い込んでも結局は吐き出してばかりだから、間に合わない。
 爪の端が欠けるほど強く、壁紙に傷を残す。男の肌の代わりとなったクリーム色が哀れでならない。
「……っ、」
 最高だ。全てをきれいに忘れ去られるほど。
 最高だ。全てがからきし駄目になるほどに。
 火照る下半身にまるで力が入らない。今にも倒れそうになるのを、ひっしと壁に密着することで何とか回避する。腰を掴む男の右手を支点に、かろうじて体勢を保っている状態である。
「あ」
 だから、その手が急に離れたことで、は簡単にフローリングへと崩れ落ちた。
「いっ、た、」
 咄嗟に床板へついた手がじんと痛んだが、変な方向に捻ったりはしていないようで一安心した。それも束の間、心臓の奥がすぐに冷えた。ちらと見上げた男が、あまりにも人間味のない無表情をして、を見下げていたからだ。
「……匡貴」
 そうだ。
 を抱いていたのは、二宮匡貴なのだった。
 乱れた息もそのままに、は暫し呆けた。二宮の瞳は何の熱も孕んでいない。そのくせ、細い髪は額にしっとりと貼り付いている。汗という人間味溢れる体液まで浮かばせて、を抱いている。不思議でならなかった。
 フローリングに引き倒され、何も言えないの上に、彼は遠慮なく伸し掛かる。間を置かずに膝が割られた。の腿に、ジェルのように泡立った精液が伝い落ちていく。二宮はシャツも脱がずに押し入ってきた。喉の奥より、くぐもった嗚咽が漏れる。
「あ……っ」
 無防備な背が剥き出しの床板に押し付けられた。定期的にワックス掛けされたそれが素肌に擦れるたび、突っ張るような痛みが広がる。ベッドまでの道筋すら選べないふたりはもう、繋がっているほうが、より自然体だった。
 は濡れた息を吐き、上体を倒してきた幼なじみの背に、腕を回す。喉許に鋭利な痛みを感じる。けれど血液は溢れない。
 彼の名前を、どうしても呼べない。



 鍵の開く、控えめでありながらもどこかハッとさせられる音を加古望が聞いたのは、現代社会学のレポートを書き終えたのとほとんど同時だった。
 キッチンを兼ねた居間で開いていたノートパソコンを閉じ、加古は壁時計を確認する。ルームメイトの帰宅が遅くなるのはさして珍しいことではなかったが、事前連絡もなく日付を跨ぐのは少し問題だったので、腰を上げた。
 玄関からは控えめな物音が聞こえてくる。かつん、というヒールが鳴る女性的な音であったり、鍵を掛け、ドアチェーンをレールへ滑らせる冷たい金属音であったり、耳に届くそれらすべてが、加古を少し、しあわせにした。誰かと家を共有することのあたたかみを感じた。
 けれどそんな温もりなど一瞬で霞んでしまうほどに、加古の腹には真冬の北風が吹き込んでくる。短い廊下の先に佇む人間に焦点を合わせた。
「おかえりなさい。遅かったわね」
 自然、声帯からは冷ややかな声が出た。
「……望。ただいまぁ」
 キーケースをショルダーバッグにしまいながら、が気の抜けた笑みを浮かべた。外は強風だったのか、トレンチコートの裾にどこかの枯れ葉をくっ付けている。
「メールするの忘れて、ごめんね。ご飯食べた?」
 何てことはないという顔をして、は加古の隣に並ぶ。首を傾げた拍子に、加古のものとは根本的に違う、艶やかな黒髪が揺れる。加古がそれを優しく撫ぜると困ったように笑うのも、いつも通りに見えた。少なくとも、表面上は。
「食べたわ。シチュー、残ってるけど」
「ほんと? あ、確かに、美味しそうなにおいがする。食べたいかも」
 から手を離す直前、彼女の目尻に優しく触れる。指先にじんわりと熱が伝わった。かすかに腫れた目蓋の上で輝くアイシャドウは、もはや綺麗な装飾などではない。
「その前に。お風呂に入ったらどう? 体、冷えてるんでしょう。お湯ならもう溜めてあるから」
「あー、うん、そうしようかな。外、めちゃくちゃ寒かったんだよね」
 加古の隣をすり抜けて、が居間に入る。バッグを肩から下ろし、自室に続くドアを開く。数十秒も経たないうちに着替えを抱えて出て来たかと思うと、ちいさな背中はそのまま脱衣所へと消えていった。
 その首許からかすかに香水のにおいが漂うのに、加古が気付かない訳もない。何も訊かずにいてやるのも、それなりに辛抱を伴うものだ。
 加古専用のノートパソコンをラックに戻していると、ソファに放置されたままだったのバッグが視界に入った。やわらかな鞣し皮で編まれたショルダーの口は開いていて、そこから小さな紙袋が覗いている。
『みかど南口レディースクリニック』
 白い袋の表面に印字された一文を目にした瞬間、加古は無言で脱衣所へと駆け出していた。急に開いたドアに動揺するよりも、加古の冷え切った表情にこそ面食らったようで、は下着姿のままぱちくりと瞬きをした。
 その、剥き出しの肩を掴む。
「あなた、まさか病気にでもなったの」
「ええ? は、いや、なってないけど……っていうか、どうしたの? 急に」
 有無を言わせぬ空気で詰め寄ってくる加古を宥めるように、は苦笑を浮かべる。ああ、どうして笑っていられるのだ。加古は頭に来た。こっちの気も知らないで。熱を持つ瞳で、喉許や鎖骨にたくさん「あいつ」の跡を貰ってきて、それを隠そうともしないで、どうして。
「駅前の婦人科に行ったでしょ。処方箋があったわ」
「ああ、それ? 生理痛で通ってるって、言わなかったっけ。ピル出してもらってて」
 聞いていない。
 加古は思わずを強く抱き締めていた。無防備に晒された肩甲骨を撫でる。翼の名残。身長差のせいで、のつむじがきちんと見下ろせた。あたたかい頭を肩口に抱き寄せると、とまどいの吐息が加古の胸をくすぐった。
「望? ほんとうにどうしたの、」
「あなたが心配なのよ」
 自分の声が予想外にふるえていないので、加古は少し安心した。擬態ならば自分もそれなりに得手だということか。
 表情が見えずとも、の顔色など容易に想像がつく。このルームメイトはいつもそう。まるで平気だという顔をして、不可視の自傷を増やしていく。連絡も寄越さず遅くに帰ってきては、こしらえた鬱血に露ほどの気も払わない。
 そういう夜が巡るとき、加古は彼女に入浴をすすめる。の肌にうっすらと残る、あの蛇のように冷たい男のにおいを、少しでも早く、消し去るために。バスタブに張った湯にはあまやかなバスオイルをとろかしておくのを、絶対に忘れない。
「ねぇ、
 あたたかい身体から離れ、目を合わせた。やはり目蓋は重そうで、涙の余韻がしっかりと残っていた。今、加古のそばにある大事な友人が、どれだけ泣き喚いても尚、あの男の許であやまちに身を浸し続けることだけは、痛々しいほど分かっていた。
「怪我だとか、病気だとか、そういうことじゃあないのね?」
「うん。安心して。妊娠もしてないし」
 加古は言葉を失った。すっかり化粧を落としたあどけない顔で笑われては、それ以上の追及などできない。そう、と聞き分けよく答えるほかなかった。
「…取り乱してごめんなさい。お風呂、ゆっくり入ってきて」
 つい、と。に背を向け、脱衣所を離れた。
 ドア越しに穏やかな声が届く。
「ありがとう、望。望だけだよ」
 私のことを、心配してくれるのは。

 加古は自室に戻ると、早々にベッドへ入った。冷えたシーツが加古自身の体温で心地よくあたたまっても、落ちようと思うほど眠りの訪れは遠ざかるばかりで、結果、思考の海をたゆたう時間が長く続いた。
 ――今年、春が終わりを告げた頃からだ。
 が身体に痕を残し、腫れた目でふたりの家に戻ってくるようになったのは。
 初めは暴力沙汰だと判断した。だが、違った。病院と警察を薦めた加古を前に、は首を傾げ、こともなげに言い放った。
「セックスしてきただけだよ」
 結局、そういった夜は一度では終わらなかった。加古は過干渉にもなれなかったから、ルームメイトの遅い帰宅はそのつど黙認された。も、具体的な内容はいっさい口にしない。ふたりは大人だった。お互いのパーソナルスペースに踏み入り過ぎないという点においては、特に。
 原因に心当たりがない訳ではない。にはずっと、とても仲のいいこいびとがいた。ただ、そのすがたが、とある雨の日を境に忽然と消えてしまった。三門市ではさして珍しい出来事ではないが、だからと言ってその悲劇性が和らぐ訳ではなかった。彼女にとってはじゅうぶん過ぎる不幸だっただろう。加古にはの気持ちを推し量ることしか出来ないが。あの頃、目に見えて生きる気力というものを失っていたがどうやって立ち直ったのか。不思議なことに、加古はよく覚えていない。のことなら何でも分かっているつもりだったのに。これは笑い話だ。
 また、に幼なじみがいるのも、ずうっと知っていた。高圧的な態度がいけすかない、加古も良く知っている冷徹な顔の男。ふたりがボーダー本部の基地で会話を交わす姿を偶然見かけたとき、加古の内部は炎でも燃え盛ったように熱くなった。だって、と二宮匡貴だ。まるで水と油のコントラスト。だというのに、男を見上げるの横顔には、長年の年月を共有した者同士にしか生まれない気安さが、確かに存在していた。
 身の程知らずの嫉妬だとじゅうぶん理解していた。
 だから加古は何も言わない。
 ただ、もし、あの子が助けを求めて来たのなら。そうすれば、加古は堂々と彼女の背を抱き寄せ、大丈夫だと耳許で優しくささやいてあげられる。ふるえる目蓋に口唇を触れさせ、愛情の絹を纏い、彼女の王子様になれる。あの男を敵として切り伏せ、雨空を晴らすのだ。

 加古はその瞬間を待ち望む。
 そう、の、決定的な崩落の到来を。



 とん、とん。
「待って、あと少しだから、」
 とん、とん。
「ああもう急かさないでよ、」
 とん。
 ガラステーブルを叩く長い指先を止め、二宮匡貴はの横顔を漫然と眺めた。一心不乱、必死の形相でノートパソコンのキーボードを鳴らしている。現代社会学のレポートは明日が提出日だ。怒涛の勢いでキーボードを叩いていたかと思うと、時折思案顔でその指をためらいがちに一時停止させたりしながら、はしばらくのあいだ大学生の本分を全うすべく全力を投入していた。
「――終わった! これで大丈夫だと思う」
 大義を果たしたような清々しさでが顔を上げるまでに、二宮は二杯以上のコーヒーを消費していた。大学の敷地内にはふたつのカフェが店を構えていて、きょうはそのうちマシなほうのコーヒーを出す店にふたりは居た。
「遅過ぎる。お前は牛か何かか?」
「それは多分、牛に失礼だと思う。きっと牛のほうが早い」
 は気の抜けた顔で笑いながら、凝り固まった肩をほぐす。ううん、と背伸びをした拍子に、胸許のネックレスが揺れて、繊細な金色のチェーンがさらさらと流れた。一分の隙なく首を隠すニットのタートルネックは、正解だろう。いよいよ朝夕の寒暖差が厳しくなり、は厚手のスキニーにブーツを合わせていた。
「これ、メール提出だったよね」
「…提出方法すら忘れたって言うんじゃないだろうな?」
「確認しただけ。――はあ、疲れた」
 参考文献とUSBメモリをまとめてバッグに戻し、がテーブルにうなだれる。纏め上げられた黒髪の、後れ毛が襟足に流れて、艶やかにきらめいた。
 二宮はの使っていたノートパソコンをぱたりと閉じ、耐久性のある収納バッグにしまいこむ。自宅のデスクトップが調子を悪くしていて、とが困り顔で現れたのが三十分前。大学のパソコンルームへ追いやるのも面倒で、二宮は常に持ち歩いている自前の薄型ノートを無言で貸し出してやった。大した時間も要さず提出したところを見ると、レポート自体は大方完成していたのだろう。
 三杯目のブラックコーヒーに口を付けた二宮を、が笑う。
「カフェイン中毒」
「どの口が言う」
 は、と嘲笑うかのような返答が、二宮のいつもだ。慣れ切っているはいちいち苛立ちもしない。
 次の講義まで二十分は余裕がある。携帯端末のアプリで暇を潰すに、ちょうど通りがかった彼女の知人らしき人間が声をかけた。
「あれー、。こっちのカフェいるの珍しいね」
「たまにはいいかなと思って。今、空きなの?」
「そうそうー。西洋史休講でさあ」
 二宮はその横で、我関せずといったふうに文庫本を開く。無害かつ頭の弱そうな友人とにこやかに日常会話を交わすは、どこからどう見ても、ほんとうにいつも通りの本人なのだった。おおよそ、ゆうべ二宮にひどく犯されて泣いていた人間と同一人物だとは思えない。壁に縋り付き、爪を立て、何度も何度も果てのない快楽に溺れては二宮でない男の名前を呼んでいた、あの、穢れ切った、唾棄すべき姿。でも、それでも。
「明日でいいから情報処理のノート貸してくれない?」
「えーまた? いいけど、お菓子一個奢ってね」
「やっすいね、。あ、ごめん、あたし行かないと」
 どうやらの知人は一足先に講義へ向かうようで、飾り立てた爪が非常に見苦しい手を振り、カフェを出ていった。
 と二宮のラウンドテーブルに、ふたたび沈黙が戻ってくる。周囲の客席から不快にならない程度に聞こえてくる雑音だけをバックグラウンドに、二宮は無言で活字を追った。何人もの人間が無惨に殺されていくサスペンス。殺人犯にご大層な理由などいらない。大抵は愚にもつかない痴情の縺れから始まるのがほとんどだ。
「――あ、望だ」
 雑踏で孔雀でも見付けたような声を耳にした瞬間、二宮の思考は一気に乱された。無意識のうちに眉根がぴくりと反応する。ちらとの横顔を伺えば、彼女の視線の先にはファッションモデルよろしくすらりと佇む加古望がいる。あの髪色とスタイルは見間違えようがない。カウンターで何がしかを注文しているようだった。
「あ。
 視線に気付いたのだろう。振り返った加古がかすかに目を見開いてこちらを見た。長い睫毛が陰を落とす、その目。
「匡貴、私、先行ってる。パソコンありがと」
 荷物を手早くまとめながら、が席を立つ。
「あとで電話しろ」
 はもう笑わなかった。小走りで加古の元へ駆けていき、楽し気に口端をほころばせている。喉でも渇いたのか、彼女も加古と入れ替わりでカウンターに並ぶ。――うんと熱い、ストレートティー。ミルクも砂糖もいらない。
 の隣から鋭い視線が注がれているのには、とっくに気付いていた。番犬でもあるまいに。二宮は心中で嘲笑う。まったく殊勝なことだ。同じ屋根の下で暮らしていながら、の涙を目にすることも、肌を浸食することもできない哀れな女。
 並ぶふたりは実にアンバランスで、それでも仲睦まじげにカフェを後にする。
 古臭い音階の予鈴が鳴った。
 二宮は、脳内で残りのスケジュールを確認した。講義は十七時まで。十八時より防衛任務のシフト。二十一時前には帰宅予定。合鍵を使ったが二宮の部屋のソファで携帯端末を操作している。その肩を強く押し、直に床板へ転がしたあとはもう、その頬が透明でずぶ濡れになるまで自分の欲を通すだけだ。どうしてこうも簡単なのだろう。1に1を、足すように。
 きっとはまた泣いて、あの日と同じ雨に揺れた猫のような姿で、二宮の身体を受け入れる。もう手に入らない幸福の名前を繰り返し呼びながら。乖離した肉体と心に裏切られながら。二宮の口角が歪んだ笑みをかたち作る。
 ここは確かに地獄の底だが、舐めればちゃんと甘い味がするのだ。

(15/07/12)