Frozen Drops

 ルームシェアをしようよ。
 そう言い出したのは彼女の方からだった。今日のご飯はあの店にしよう、という、至って日常的な申し出と何ら変わらないニュアンスの口ぶりで。
 加古望は唖然として、対面席でホットカフェオレを飲むを見る。
 突飛な提案の出所は、もちろんだ。しかし彼女に何ら変わったところはない。アーモンド型の瞳、白い頬、薄い唇。驚きで表情を変えたのは加古ばかりのようだった。
 ふたりは今春から同じ大学に進学する。そろそろ忙しくなるね、そう困ったように、しかし待望のキャンパスライフへの期待を隠し切れぬ、甘酸っぱいトーンの声で語り合っていた、昼下がりの一幕。突如吹き抜けた春風に、加古の心は浮足立った。遊歩道に沿って植えられた桜のつぼみは未だ固い。
「……望?」
 加古の沈黙を拒否と判じてか、が眉をハの字に下げた。
「ごめん。せっかく大学生になるんだから、家を出てみたいと思って。でも、ひとりじゃ寂しそうで……。私と暮らすのは、嫌かな?」
 加古は慌てて首を振る。
「嫌なわけないじゃない」
 休日を穏やかに過ごす三門市民で混雑している、人気のカフェ。だが、加古は静寂の繭に閉じ込められる。の声以外、音はすべて遥か彼方へと遠ざかってしまった。の傍にいると頻繁に見舞われる現象だ。その意味に気付かぬほど、加古はもう子どもではない。制服を脱ぎ捨てた、子どもと大人の中間存在だ。
 目の前で笑う大切な友人の、甘ったるい色の瞳を見つめる。一体、もう何度、この瞳の底に沈んできただろう? 常に一定の水分で潤ったふたつの瞳。加古にとって、檻にも似た機能を果たす視覚器官。
「じゃあ一緒の家に住もう。望がいれば、きっと全部が楽しくなる」
 加古は大して熟考もせず、いいわよ、と返答した。
 きっと全部が楽しくなる。
 ――彼女はそう、言ったのに。


 かちゃり、きい、がちゃん、ばたん。
 誰かが帰宅したあたたかい音が、耳に届く。細く引き摺り続けた短い夢が徐々に薄らみ、現実が濃度を上げていく。
「望、のーぞーみー、」
 揺さぶられる肩に感じる快い重みは、きっとの手のひらだろう。
 突っ伏していた腕から顔を上げれば、やはり、予想通りの顔が加古を覗き込んでいた。
……。おかえりなさい」
「ただいま。珍しいね。こんなところで寝ると、風邪引くよ……」
 目尻を押さえる加古を、は心配そうに見つめている。薄手のトレンチコートから、フレグランスが微かに香った。加古の胸の端が僅かに軋む。先程までの浅い夢は儚くも消え去っていく。
「ごめんなさい。不注意だったわね」
「ううん。レポート?」
 ローテーブルに乗った加古専用のノートPCに、がチラリと一瞥を投げる。
「そうよ。もう提出したけど」
 リビングの壁掛け時計は夕方を指していた。掃き出し窓のカーテンから、暮れなずむ夕陽が斜めに射し込んでいる。せっかくの何もない休日は、そのほとんどがつまらないレポートのために消費されてしまったという訳だ。これが大学生の現実かと、加古はぼんやり考える。
「お疲れ。ご飯作るから待ってて」
 コートを脱ぎながら微笑む同居人を、加古は見上げる。土曜日の今日、は午前中だけ講義が入っていたはずだ。
 大学からこのマンションまではそう遠くない。はバスを、加古は車を利用して通学していた。入学したての頃は加古の車で一緒に登校する日も多かったが、二年生の現在、その機会は激減している。異なる講義の受講が増えたからだ。
「きょうも講義だったんでしょ。私が作るわ」
「んー、いいのいいの。私が作りたいだけだし」
 加古は半ば腰を上げかけていたが、に制されては拒否もできない。大人しくラグに座り込む。柔らかい長毛が素足をくすぐる。
 マンションの三階、角部屋。リビングの他に居室はふたつ。の私室の方が日当たりはいい。当然、家事は分担。ふたりとも料理が好きなせいか、食事当番に関しては軽く奪い合いになることも多かった。
「きょうはミネストローネだよ。後はパン。残ってたでしょ」
 ええ、と頷き返す。黒のエプロンに腕を通す、細い輪郭を眺める。
 は極めて要領がいい。贅沢な分厚さのベーコン、丸々太ったジャガイモ、夕焼けのように鮮やかなトマト……。野菜を洗い、包丁でテキパキと切り分け、調理の間に片付けもこなす。リズムが完璧に整っていた。
「明日の朝にはリゾットにもしようね」
 深型のホーロー鍋に水が注がれ、固形コンソメが二粒、落とされる。ひらりと舞う香り付けのローリエ。白い手のひらが操る木べらは魔法使いの杖を思わせた。思わず見とれてしまう手つきだ。
 の手料理を味わえる贅沢な立場になってから、約2年が経過しようとしている。は実家で母親を手伝うことが多く、料理は自然と身についたのだという。
 いつでもお嫁さんに行けるね、という花のような笑顔は彼女のお約束だ。その常套句を聞かされるたび、加古が味わっている鈍色の苦汁を、はまるで知らない。作り笑いのごまかしも、いつまで通用することやら。
 本音の隠匿には多大なストレスが付き纏う。加古を内部から締め上げるのは、赤黒い汚濁の麻縄だ。目を覆い隠したくなるようなその醜さをおくびにも出さず、加古はきょうも、心優しいルーム・メイトの顔を作り上げる。
 と接するための分厚い仮面。引き剥がせばそこにはきっと、哀れな表情で口唇を噛む加古がいる。
「いただきます」
 食器は加古が並べた。シンプルなランチョンマットに乗せられたスープ皿には、あたたかな湯気を立ち上らせたミネストローネがよそわれている。木材のスプーンで掬い、ひとくち含む。舌上に広がる濃厚な旨味に、思わず、加古の唇からは感嘆の溜息が漏れるのだった。
「美味しいわ。やっぱり、のスープは最高ね」
「お母さんの教え方がいいのかな。簡単だし、美味しくて、いいよね。今度はクラムチャウダーにしよっか」
 近所で買ったバゲットを千切りながら、は心底嬉しそうに笑う。何のてらいもない、純粋で優しい笑みだ。出会った頃から何ひとつ変わらない。
 と囲む食卓のあたたかさに勝るものがあるだろうか。
 当然、いつかは終わると知っている。だが、この幸福は――最後の致命的な瞬間まで、あくまで幸福そのものの色をして、芳醇な風味を伴って、加古の全身に染み渡っていくのだから始末が悪い。
 今日のこの食卓のように、いずれとテーブルを囲むであろう誰かに、身の為にならぬ羨望を抱いてしまう。加古がどうあがこうと、いずれ打たれるピリオドから、逃れられるはずもない。逃れようとも思わない。
 平穏な日常を瓦解させる決定打は何になるのだろう。
 叶わない愛情や恋慕はマグマのように沸騰し、人の善性を焼き殺す。
 今はただ、その火の粉がに降り掛からぬよう、必死に喘ぐことしか出来ずにいた。


さん、さん」
 ――理由が必要だろうか。
 好きだとか、嫌いだとか。他人に対して抱く感情に明確な理由がない場合も、往々にして存在する。
 ボーダー本部基地のラウンジは常通り多数の隊員で賑わっている。いささか姦しいぐらいの活気に満ちているのがこの空間の常だが、今日はそれがことさら加古の癪に障った。
 常通りのクールな表情を顔面に貼り付けてから、窓側のテーブルを見やる。画一的なオペレーター用隊服をまとったが、他隊員と談笑していた。
 ――アルバイト先を探していたにボーダーを推薦したのは、他でもない加古だ。
 今になって後悔が募る。自分は愚策に出てしまったと。
 人並み程度ではあったが、にもトリオン能力が備わっていたこと。オペレーターは基本的に人手不足だということ。彼女が真面目で、人好きのする性格だということ。
 オペレーターならば直接戦闘の心配はない。だが、それは彼女の安全とイコールでは繋がらない。浅薄だった。自分らしからぬ判断だった。をボーダーに推薦した事情の裏側に、加古の薄っぺらな願望が存在しているのは事実だ。……彼女を傍に置いておきたかった。ただそれだけの、子供染みた……だが、必死な、欲求だ。
 かくして入隊後数か月で某隊オペレーターに着任したの評価は極めて高く、彼女へ注がれる賛辞は推薦者である加古の耳にも自然と入ってきた。
 遠く、笑顔を浮かべて楽しげに話すの横顔を眺める。光に誘われる虫のように、加古は彼女のテーブルまで近づいていった。

「望」
 の視線が加古を捉える。同テーブルにいた他隊員からは、加古隊長だ、などと感嘆を含んだ台詞がこぼれ落ちるが、加古は微塵も注意を払わない。
「こないだのランク戦実況、すごく良かったわね」
「え、望も見てたの? 恥ずかしいなあ」
「何を恥ずかしがることがあるのよ。そういえばね……」
 特別、ここで話す内容でもなかった。しかし口に出さずにはいられなかった。と同隊に所属するテーブルの連中に、と加古の関係を見せつけてやろうと思ってしまったのだ。手に入れた玩具をこれでもかと自慢する、鼻高々な幼稚園児のように。
「そうだ、私、きょうは帰り遅いから、夕ご飯はひとりでお願い」
 思い出したように謝るを、少し怪訝に思った。
「そう。わかったわ。じゃあね」
 手を振り別れ、踵を返す。はまた、隊員たちと何てことはない会話に興じ始めた。どんな群衆に囲まれていようと、彼女の声ならば一発で聞き分けられる自信が加古にはある。
 自分勝手な独占欲に急き立てられた自身の行動を、加古はひとり恥じた。理性の効かない部分が自分の内側に組み込まれていることに、つい最近までまるで気付かなかった。
 望はいつも冷静沈着で、だけど飄々として掴みどころがないね。そう、も言っていた。だが実際はてんで違ったのだ。周囲が加古に抱く勝手なイメージは、確かに加古望という人間の一部分に該当する。しかし、そんなテンプレートに当て嵌めたような客観は、加古の表層にしか過ぎなかった。
 自分の内部に巣食う、原始的で愚かな本能を、加古自身、恐怖していた。
 ――こんな醜悪な自分を、自分自身すら知らなかった。が加古に教えてしまった。見付けさせてしまった。彼女を欲しいという感情は、最初こそ単純に美しかったというのに。尊ぶべき愛情が、加古を醜く育て上げた。望んだ唯一が近くに息づいているというのに、この手に納めるという悲願だけは決して叶えられることがないのだと知ってしまった。
 加古はヒールの踵を鳴らし、自身の隊室へと向かった。都合よく無人だった。きょうは防衛任務のシフトも宛がわれていない。誰の目も光らない、完全に私的な空間を、加古は独占する。
 テーブルに肘をつき、俯く。長い髪が頬を覆い隠した。
 愛情に明確な理由は必要だろうか。とは、高校生のころ知り合った。きっかけとして、これ以上ありふれたものがあるだろうか。いつの頃からかというひとりの少女は、加古望の中で他人にはない温もりを持ち始めた。
 叶うかもしれない。受け入れられるかもしれない。ルームシェアを切り出されたあの冬、甘い期待が加古の脳裏に広がったのは事実だ。自分本位な希望的観測に酔える余裕も、きっともうすぐなくなる。
 スキニージーンズのポケットで、私用の携帯端末が一度だけ震えた。だった。
『きょう、買い物して帰ります。明日の朝ご飯のリクエストは?』
 短いメッセージの下で、猫の絵文字がにっこりと笑っている。
『あなたの作ったスープが食べたいわ』
『わかりました! 最近作ってなかったものにしようか。キャベツがいっぱい余ってたから』
 返事はすぐに帰って来た。それがどうにも嬉しく、同時に物悲しくて仕方がない。
『楽しみにしているわね』

 だがその日、は家に帰って来なかった。
 夕方ごろ、端末に連絡があった。友人の家に宿泊することになったと。短い謝罪だった。加古は薄暗いリビングで携帯端末を握り締め、理解あるルーム・メイトとしての返信を送った。
 ふたりで暮らし始めて以来、ひとりで過ごす夜は決して初めてではなかった。だが今夜ばかりは何かが違っている。言い知れない孤独が全身を襲う。ベッドに入り、瞳を閉じても、幻は加古の眼裏から消え去らなかった。イメージの中、誰かがに、深く深く触れている。
 崩落が直ぐそこにまで迫っていることを、加古は感じていた。

 翌朝目覚めると、ひどく気怠い感覚が加古の全身を覆っていた。
 まさか、と体温計を腋に挟む。案の定、数字は7度5分を指していた。いざ数値として目にしてしまうと、不調をより一層身に染みて感じてしまうから不思議だ。
 とりあえず大学は休む他あるまい。棚の薬箱に手を伸ばすと、玄関の方で鍵が開く鈍い音がした。思わず、目を細める。
「望? ただいま」
 ……
「きのうはごめんね。……外、雨が降っててさ、すごく寒かったんだけど……家の中もかなり寒いね」
 ……そう。
 ぶるりと背が震えて、ろくな返答もできない。妙なようすの加古を訝しんでか、が顔を覗き込んでくる。
「どうしたの、望。顔、真っ青。もしかして風邪?」
 すっと滑らかな動作で伸びてきた手が、加古の額に触れた。その熱に驚いてか、は途端に慌ただしく動き回り始めた。
「望が風邪なんて珍しい、待ってて…薬は……。ああでも何か胃に入れてからじゃないとだめかな」
 は腰を屈め、野菜ネットを探り始めた。彼女の気遣いに感謝すると同時に、狂おしいほどの激情が加古の中心部を駆け抜けていく。
「ご飯作るから、そのあいだは少し寝てて。それとこれ、」
 額に貼るタイプの冷却材を手渡される。知らず、目が潤んだ。
「……ごめんなさい」
 何もかもに見捨てられた心地になって、私室に戻る。あたたかい布団で肩までを覆うと、ゆっくり目を閉じた。願わくば、優しく美しい夢が見れるようにと、何処にいるか知れない神様に祈ってもみる。冷たく、だがしっとりと柔らかいあの手。忘れられそうにない。嫌いになれる訳がない。だが、この愛情の純度は今やゼロを下回ってしまった。
 の襟元からのぞいた小さな赤い跡こそ、加古には決して許されない贅沢の証明だ。雪になり切れなかった無念の冬雨が、窓の外をキンと凍り付かせていく。
 好きにならなければよかった。

(15/10/05)