DEAR FUTURE

「大丈夫大丈夫、誰にも見付かんないよ。おれのサイドエフェクトがそう言ってる」
 そんな言葉を信用する人間がどこにいるというのだろう。……ああ、ここにいるのか、ひとり。と自嘲気味に考えて、は深く重いため息を吐いた。たぶんもう、逃げられはしないのだろう。右手首にはやさしい枷が付いてしまっている。の一歩先を飄々と歩く、迅悠一の手によって。

 時刻は冬の澄んだ夜空に星がまたたく頃、場所はボーダー本部基地内に存在する小会議室のひとつである。
 迅は通路の突き当たりまで辿り着くと、長テーブルとパイプ椅子が置かれただけの真っ暗な部屋にを促した。そこでようやく枷は離れた。は信じられないといった顔で迅を見上げる。選抜部隊が近界への遠征を無事に終え、本部へと帰還したきょう。久しぶりに基地内で顔を合わせたと思えば「おれの用事が終わるまでちょっと待っててくれない?」と笑った迅の、言う通りにしてしまったが悪い。……のかもしれない。ぼんち揚げを勧める迅お約束のやり取りもなく、まったくもって≪らしくない≫しぐさで連れて来られた。
「電気、点けないの」
「点いてたら不審に思われるんじゃない? でもまあ、きょうは月が出てるし、そこまで困んないよ」
 は迅にされるがまま、月光が濃く射し込む窓際まで移動した。確かに、お互いの表情がぼんやりと確認できるぐらいには明るい。
「……着いてきて言うのもなんだけど、ほんとに? ここで?」
「うん。駄目だった?」
「いや…なんというか、モラルの問題?」
「まあ、真面目なさんに言わせればそうかもな。でも、おれの部屋もさんの部屋も遠いし」
「だからって会議室をラブホ代わりにするって、気が進まないよね。なんだか犬みたいで」
 がげんなりとして言うと、何が面白いのか迅は笑った。何を思考しているのかまったく読み取れない瞳を細めて。
さんのそういう開けっぴろげな口振りが聞けるの、すっごい久しぶり」
 ……なんだか。その、迅の口調がとても愛らしいものに感ぜられて、はちいさく唸った。不本意ながらもじぶんから迅を抱き寄せてやる。厚みのある胸板に耳をくっ付けると当然ながら心臓の鼓動が聞こえて、彼をまるごと慈しみたくなる。の行動に迅は少し驚いたらしく、ころりと目を丸くしたあと、の後頭部を撫で擦った。そして喉の奥で笑う。
「で、モラルを捨てる準備はできたと」
「少しだけね」
「そりゃあよかった」
 迅はの肩に手を置くと、そのまま顔を寄せた。は甘んじて瞳を閉じる。ノックでもするように舌でくちびるをつつかれて、ゆっくりと開錠した。深みを増すにつれ呼吸は厳しくなり、からだには上手くちからが入らない。脚がぐら付いた拍子にパイプ椅子にぶつかった。そのままやんわりと壁に押し付けられ、引き続き呼吸を奪われていく。カーディガンの下に着ていたカットソーをがばりと捲られる。迅の手付きがいささか性急さを帯びていることに驚きつつも、すべてを受け入れた。確かに、こうして素肌を合わせるのは久しぶりだ。場所はともかくとして心地がいいし、一刻も早くひとつになってしまいたくなる。
 腰から腋まで続くからだのラインをゆっくりとなぞりあげられていく。からだの構成をくまなく確認されるみたいに。もはや脳髄は最高に興奮していた。視界の隅に、冬の静寂と星に彩られる夜の三門市が映る。きれいだ。の大好きな光景だ。でも今はもう、何よりも、目の前のおとこの瞳の青が欲しくて苦しい。
 ホックが外された下着が喉許までたくし上げられるのをぼんやりと見つめる。生白い肌の上を赤々とした舌が滑っていく。唾液の軌跡は数秒で消える。迅は、の肌に何の痕跡も残さない。きつく吸い上げても鬱血はさせない。甘く噛んでみたりもしない。まるで、接触の証拠を置いていくことを避けているように思えたし、実際のところその通りなのだろう。けれど記憶の蓄積だけは迅にも防げない。彼が望もうと望まないとに関わらず、肌の余韻はの脳内で永遠のいのちを持ってしまう。
 内腿を撫でられて、期待に涙が滲む。脚が震えるけれど座り込むわけにもいかない。どこか眠そうで、感情を表に出さない瞳に眺められる。このひとは今、何を見ているのだろう。息を切らすの頬か、あるいは。
 でも、そんなことはもはやどうでもいい。
「……あ、っ!」
 脚のあいだに難なく入り込んできた二本の指が内壁を擦り上げ、の喉からは思わず大きな声が出てしまう。迅は、焦るを見て満足そうに口端を上げる。そして、右手の人差し指をすっと立てて、じぶんのくちびるに当ててみせた。「しーっ」。「もし外に聞こえたら、恥ずかしいのはさんだろ」。もはや彼の言葉はの鼓膜に届かない。内部をじっくりと優しく掻き回す指先が、そのまま思考能力さえもぐちゃぐちゃに混ぜていくのだから。滴る粘着質の液を敏感な核に塗りたくられたとき、の背がひときわ勢いよく跳ねた。目の前のおとこに頭を預け、ひっしと縋りつき、軽い絶頂の余韻に浸る。
「あれ、ずいぶん早いな」
「……うるさい」
 口をつく悪態とは裏腹に、迅の着ている白いインナーに頬をすり寄せてしまう。脚に全然ちからが入らない。何を言わずとも体重を支えてくれる腕に甘え、切れた息を整えることだけに集中する。迅はいたいけな子どもでも宥めるかのような手付きでの背筋を撫でた。
「お疲れのところ悪いんだけど、壁に手ついてもらってもいい?」
「……わかった……けど、あのさ、ゴムあるの?」
「そりゃもちろん。お互いの未来のためにね」
 じゃーん、というチープな効果音が付きそうな動作で、ポケットの中から正方形のパッケージを取り出す迅。は彼の用意周到ぶりにほとほと呆れて、けれどその反面では何故か楽しんでいた。大人しく、クリーム色の壁に手をつく。非日常的な感覚がからだを包んでいた。こんな、長テーブルとパイプ椅子しかない、生活感のかけらもない会議室の片隅で、いつもとどこか違うおとこと抱き合うこと。
 じっくり時間をかけ、ぜんぶ埋め込まれているあいだ、の首筋を迅の息が掠めていた。ぬるい温度が耳の裏をしっとりとくすぐる。背筋がぞくぞくと震えてしまい、たまらない。ゆっくりと抽挿がはじまり、意識がごっそり持って行かれそうになると、逃げは駄目だと遮られるように耳を食まれてしまった。歯の硬質さと耳朶のやわらかさのコントラスト――予想外のことにが驚いていると、耳許で迅がふっと笑う気配がした。
「……キツ、いな」
 途切れ途切れのつぶやきがの鼓膜の奥まで侵す。とにもかくにも、きょうの迅は常とはどこか違った一面を覗かせていることは確かだ。基地内で肌を触れ合わす逢瀬など、いつもなら絶対に選ばない。けれどもうにとってはどうでもいい事実だった。それどころか嬉しさすら滲んでいた。何かと先手を取りがちな迅の、なかなかお目見えできない焦燥を味わえているから、優越感がぐんぐん育つ。顔を見れないのは少し興が削がれるけれど、動物のように一点を目指すだけのセックスは、それはそれでを熱くさせた。現に、はしたないほど反応している。豪快に捲られたスカートの下、あらわな臀部を鷲掴みにされながら、腰を打ち付けられている。と思えば、ふたりともが折り重なって壁にしなだれかかる体勢に変わった。壁と迅のあいだに挟まれたかたちのは、ひたすらに短い息を繰り返しながら目を顰めている。震える手で作られたこぶし。ふたりぶんの影が重なって、会議室の床に伸びている。
「……あれ」
 スカートの位置が気になったが手を動かしたとき、不意に左手が迅の腰に当たった。腰許に下げられたトリガーホルダーにきちんと納まっているはずのものがないことに気付いて、首を傾げる。は顔を逸らせると、迅に問うた。
「……迅、きょう、風刃は、」
 迅の瞳が急に冷えたのを見逃すほど、は間抜けではなかった。彼はからだの動きを一旦止めて、苦しいほどのからだを掻き抱き、いつも通り淡々とした声で答える。
「もうおれの手許にはないよ。さっき、本部に預けてきた」
 えっ、と。は思わず素でつぶやいていた。迅の瞳の青が、冴えた月のひかりに照らされて、寒々とするほどにうつくしかった。頭がまっしろになるとはまさに今のことで、数秒のあいだすべてを忘れて茫然としてしまう。ちょうど月が雲の背後に隠れてしまったらしく、迅の表情がよく伺えない。たった一行に納まる言葉で、迅はこれまでのすべてをひっくり返してしまった。
「どうし、て、」
 詳細と理由を問い返すより先に、再び激しく突き上げられ、もはや問答どころではなくなってしまう。目蓋の裏で星に似たスパークがはじけ、消えていく。喉から漏れるのは意味をなさない母音ばかり。半ば無意識のうちに内壁を締めてしまう。繰り返される粘膜の摩擦がの平常心を根こそぎ落としていった。奥を強く突かれると呼吸が苦しくなるのに、それを伝えようとも思わなかった。はぜんぶを受容していた。
「未来が動き出すには、必要なことだったからな」
 迅のつぶやきが意味するところを察することもできず、はただひたすら行為だけに集中した。迅の限界が近いのが分かる。もはや何もかも考えられなくなって、ぎゅっと目蓋を閉じた。それでも、どうしても、らしくない彼のようすが気にかかってしまい、もう一度振り向いて表情を再確認した。迅はやはり泣いてはいなかった。悲しげな表情ですらなく、温度を上げる快感に振り回されるひとりのおとこの、焦燥と衝動だけが双眸にはあった。むしろ泣いているのはだった。いつの間にか頬にはしずくが伝っていて、その軌跡すらも迅の指先が拭って、なかったことにしていくのだった。

 ああ、勘違いだったのか。は頭のなかだけでつぶやく。数秒前の迅がまるで地図を失い道に迷った子どものように寄る辺なく映ったのは、ほんの一瞬だけ遭遇したまぼろしだったのだろう。そうとでも思わなければ、あの青にわずかながら滲んでいた潤いの膜の正体を、いったいどう説明すればいいのかわからない。

Image song
Coaltar of the Deepers - DEAR FUTURE