Mellsylue's Fruit

 手渡された果実は、きちんと果物の味がした。
 そんな些細なことがらにも大層驚いてしまった私は、間抜けにも暫し呆ける。
 そして数瞬後、舌上に広がった、一種の懐かしさすら想起させる瑞々しい甘さを、無我夢中で貪り始めてしまう。はしたないだとか、意地汚いとか、そういう一般常識のたぐいは頭の中からそっくり消え去っていた。齧り付いた実から新鮮な果汁が溢れ出し、手指を汚してゆく。そんなものお構いなしで甘い実に食らい付く私を見下ろし、食糧を寄越してきた張本人は苦笑していた。
「だから言ったでしょう、毒は入っていないって。」
 まるで邪気のない、ひとの良さそうな顔で、その人間は腰に手を当て眉を下げた。彼がいくら親切そのものの雰囲気を纏っていようと、私に猜疑心が芽生えてしまうのは至極当然のはずだ。自分を連れ去った男を信用する人間が一体この世界のどこにいると言うのか。
「ゆっくり食べなさい。喉に詰まらせてしまうよ」
 ああ、それにしても美味である。何せ、まともなものを咀嚼するのは随分久しぶりだった。力の抜けていた四肢に力が戻ってくると感じる。頭に糖が回り、視界がクリアになる。男がコップに入った水を差し出してきた。奪い取るように飲み干して、一息。間髪入れずにふたつめの実に手を伸ばす。堅いくせに薄っぺらい表皮を貫いて、私の歯が果実に突き立てられる残酷な音。ああ、懐かしい。子どもの頃もこうして、甘い甘い何かを味わった記憶がある。
「、おいしい……」
 半ば無意識のうちにこぼれた感想は、耳をすましても聞き取れるか怪しいレベルの小声だったのだけれど、耳聡い男にはしっかり届いたらしい。彼はいよいよ大声で笑い出した。私は一瞬だけ苛ついたが、直ぐにまた、内奥へ甘い蜜を忍ばせた果実に夢中になった。無言で糧を食らう音だけが響く小さな地下牢で、男は妙に静かな声で問うたのだった。
「ねえ。そっちの世界にも、こんな果実が生るのかい?」


◆◆◆


 ひとの記憶は嗅覚と強固に結び付いている。
 そんな話を耳にしたことがあった。けれど、どうやら私には当て嵌まらなかったようだ。以前の生活が痛烈にフラッシュバックするのは、決まって食事時だった。木材のテーブルに並んだミルクのスープで、エプロン姿の母親を懐かしんだ。連れて行かれた先の森にて喉を潤した清水で、部活終わりに飲み干したスポーツドリンクを思い出した。
 ノスタルジーに包まれるときはいつも、私の内側に我が物顔で居座っている諦観が皮肉気に嘲笑う。もう、あちら側へは戻れないよと。奴の言い分はきっと正しい。攫われて未だ二ヵ月と経たないが、私はもうじゅうぶんに理解してしまった。故郷の土を踏む時はきっと、もう、ないだろう。あちら側とこちら側は近いようで果てしなく遠い。
 私も初めは誤解した。ここはただの一外国に過ぎず、地平線の向こう、船に乗り込んで幾日か旅でもすれば、慣れ親しんだ三門市に戻れるのだと思った。そう言い張る私の前にこの国の地図が広げられた。私の希望がただの気のせいだったことを知った。
 ふたつの世界の万物はあらゆる意味で相似しているくせに、磁石のS極とM極のように反発し合う。奪う者と奪われる者。分かりやすい対立の構図を頭に描きながら、私は覚えたばかりのトリガーを起動させた。つい数ヵ月前まではありふれた女子高生としてそれなりの春を謳歌していた私も、今ではもうひとりの新兵だ。手のひらに具現化した刃で、この国を侵そうと血気盛んに暴れ回る異形の兵を刈り取っていく。我ながら適応能力が高過ぎる。いや、そうでもなければやっていけなかった、というのが正しい。
 家を懐かしんだのは最初の三週間だけだった。
 両親なら大丈夫。私の下に、ずいぶん頭のいいきょうだいがいる。きっと不条理の先に妥協点を見つけるだろう。学校は、まあ。進学が決定していたのはちょっとばかり惜しい気もする。友人は――それなりにいたが、どうだろうか。泣いてくれるひとも、いた。申し訳ないし、可能なら謝罪したいと思う。それでもおそらく彼らのアルバムの中で、私というちっぽけな悲劇像は徐々に古びてくれるはず。そう考えれば少しだけ楽になれる。私はすっかり諦めが上手になっていた。あの日、まるで三門市とは異なる、異国の光景を前にした瞬間から、失うことばかり得意になっていった。
「君、家族は何人?」
 小規模の戦闘を終えて基点に戻ったところ、凄まじく空気の読めない疑問を、よりにもよって私をこちら側に連れてきた男が訊いた。この青年はちょくちょくこういった悪趣味な戯れをする。私は渇いた喉に冷水を流し込んだあと、布で口唇を拭いながら答えた。
「親と、きょうだいがふたり」
「そう。友人は?」
「割とたくさん」
「じゃあ、恋人は?」
「……さあ。どうかなあ」
「おや。急に歯切れが悪くなったね」
 彼は揶揄の色を籠めて意地悪く笑ったが、それ以上の追及はなかった。それきりこちらには一瞥もくれず、男は淡々と、トリガーの修繕に励みはじめた。私たち以外に人気のない部屋へ静寂が満ちる。遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてきた。最近、無邪気な少年少女に「あちら側」の童話を強請られることが多い。白雪姫などのお約束をすっかり話し尽くしてしまって、そろそろネタが枯渇しはじめる頃合いだった。
 24時間、常に自由な状態で放置されている捕虜。手足を縛る枷はない。気ままなものだ。かといって、全幅の信頼を置かれているのではあるまい。
 私には元より逃げ帰る場所や手段がない。もうここしかなかった。滑稽だろうと新天地に馴染み、浅ましく生き延びるしかないのだ。夢見が許される時間はとうに過ぎていた。助けを望むのはいい。ただしそれは、救援が終ぞ辿り着かなかった場合の絶望を、予め一緒くたに背負わなければならないのだけれど。
 部屋を出る。目的地なんてものはないから、近辺に鬱蒼と広がる森まで足を運んだ。種類すら分からない木々がつくる木陰に身を横たえると、まだ高い位置から降り注ぐ光をまともに直視してしまった。誰かの髪のように明るい色。目が眩む。弾けたフラッシュバック。掲げた手のひらで即席の日光避けを作り、見上げた木々の葉擦れを眺めた。濃い緑の合間に、何やらちいさく可愛らしい実がいくつも揺れている。果樹だったのか。まるで知らなかった。その実を口に含めば甘いのだろうか。ここからではまるで手が届かないが。身体を起こし、瞳を閉じる。
 こいびとはいないが、こいびとになるかもしれなかったひとはいた。
 そのひとにだけは、きちんとしたお別れをしておきたかった。何せそのひととの最後はずいぶん歯切れが悪かった。返事のない手紙を、あのひとが綺麗さっぱり忘れてくれていたのなら、救いの余地があるだろうか。いや、ああ見えて彼は意外と執念深いところがある。今頃私への恨みつらみを書き綴ったページが広辞苑の厚さにまで堆積しているやもしれない。コロッケを奢る約束も、借りていた少年漫画の返却も、告白への返事でさえも、私はまだ、なにひとつ満足に果たせていないのだから。とっくにブラックリスト入りしているに違いない。
 そこまで考えて、とんだ自惚れだと自嘲が漏れた。
 頬を伝った透明のしずくが、甘さとは到底結びつかない味を私の味蕾に染み込ませてゆく。
 歳相応に馬鹿をやり、教師にこってり絞られる横顔を思い出す。脱色して軋んだあの髪も、私は別に嫌いじゃない。やわらかい色の瞳を愛でてやりたい。憎まれ口をきかれたら、今度は何か甘やかな反撃でその口唇を封じてみたい。そこではたと気付いた。私はまだ、そのひとに自分の内側を何ひとつ打ち明けていなかったことに。
 愕然とした。私たちは終わるどころかまだ始まってすらいなかったのだ。心臓が凍り付く。どうせならあのとき、という後悔が面積を広げていく。こちら側で息をするようになって以来、苦労して抑え込んできた感情がむくむくと質量を増し始めた。悲しみに狂っても何も好転しない。それは重々承知の上だ。でも、胸の奥で何かが暴れ回っている。痛みに比例して瞳が熱を持つ。涙の味が忘れていた何かを浮かび上がらせる。
 会いたい。今、この瞬間に。他の誰でもなく、その手で、この寂しさを拭い去って欲しいのに。
「……出水、」
 私の呟きに、心優しい葉擦れだけが返事をしてくれた。


◆◆◆

「出水! 止まれ!」
 そんなことは分かっている。左に三体。アステロイド。その六文字ですべてが終わる。奴らには学習能力がないのだろうか、今度は右後ろからの襲撃。何度も何度も弾けさせる。八つ当たりだという自覚なら充分あった。だが、歯止めなど効かなかった。それを自分自身で理解していたからこそ、ボーダー本部基地に帰投してから十分は続いた隊長の嫌味を正面から受け入れたし、大人しく頭も下げた。これっきりにしろ。明日には元の弾バカに戻っておけ。普段何を考えているか分かりにくい髭面の隊長はそう釘を刺して、苛立たしさを隠そうともしない背中で帰宅していった。おれも無言のまま、基地を後にした。
 放棄地帯の夜闇に紛れ、制服で帰る。豆腐のパッケージみたいに四角い基地は遠目からでもハッキリと視認できた。あの妙ちきりんなシルエットがおれの生活に馴染んでから一体どれぐらいの月日が過ぎたのだろう。柄のないセンチメンタリズムに片足を突っ込んでしまうぐらいには、今のおれの精神は危ういところで揺れている。
 すべてはたったひとつの原因に帰結すると、おればかりでなく周囲もとうの昔に気付いていることだろう。おれは苛ついているわけではない。ただ、気が急いているのだ。いよいよ明日に迫った近界遠征を前にして。
 自宅はまだ真っ暗だった。家族の帰りは大抵遅いので、別段何の感慨も抱かない。何気なく、右隣の一軒家を見やった。ちらりと覗いた庭には背の高い雑草が生い茂っており、荒れるがままに任せているといった風情だ。確か、軒先には大きな果実が生る樹が植わっていたはずだが、無粋な草や蔦に阻まれて、何の幹も確認できなかった。見ているだけで虚ろな心地になる。当然、家の内部に灯りはない。この家にはあいつを含めて五人の人間が生活を営んでいたはずだが、今はもうその影もない。何年か前までは、おれは頻繁にあの玄関をくぐり、我が物顔で駆け回っては幼なじみと連れ立って公園まではしゃぎに出かけたのだ。随分遠い昔のことに感ぜられる。あの純粋な思い出が、今はただ、ひたすらに空虚なだけだった。
 十分にひとりが失踪する国に生きているのだ。何も、あいつだけが特別だった訳じゃない。おれにとってそいつは、あまりにも人生の流れに寄り添い過ぎていたために、失った場合の衝撃が大き過ぎただけなのだ。もともと、喪失する覚悟も用意していなかった。当然だ。おれとあいつは何がなくとも顔を合わせるのが必然で、その日常がある日唐突に途切れてしまうことなど、きっとあいつ本人も想像していなかっただろうと思う。
 あいつのトリオン能力が秀でていたのには気付いていた。そのくせ、大丈夫だと高を括っていた。馬鹿だったんだ。何せ隣にはいつもおれが居付いてしまっていて、火の粉なんて降りかかる前に掃えたはずだった。なのに。

「出水、けっこう背がおっきいよね。他の子と並んでるとあんまり目立たないんだけど」
「そっちは縮んだんじゃね?」
「あのね…。少しは年上を敬ったら」
「はあ? 何、今更。一歳だろ」
「はは、まあ、ほんと今更なんだけど……」
 ――あの日、偶然、同じ帰路についた。別の高校に通い、生活リズムさえ微妙にズレているふたりからすれば、割と奇跡に近い出来事だった。そいつは皺ひとつないブレザーを纏い、いつも通り穏やかに笑っていた。涼やかで、きれいだった。ちんちくりんだったあの頃とは訳が違う。おれの声が低くなり背がぐんと伸びたように、彼女の身体は角を失い、まろみを帯びて、甘いにおいさえ纏い出した。どこかの木々の上で育つ果物を彷彿とさせる。彼女の横を吹き抜けていった風すら微かに甘かった。
「最近は出水にもぜんぜん会わなくなっちゃったね」
「違う学校なのにそうそう会わねーだろ、ふつう」
「私が3年になったら、余計に拍車かかった」
「大学決まったんだっけ」
「うん。そう。ほら、出水の知り合いもいっぱいいるとこ」
 彼女は口端を上げたかと思うと、その表情をふいに翳らせた。
「高校出たらひとり暮らしするから、そしたらもっと顔合わせなくなるね。きっと」
 そう。何故だか、このタイミングしかないと確信したのだ。もう長いこと煮詰め過ぎて、まるでジャムのようになってしまった感情の、その最終到達地点。幾度となく眺めてきた横顔の、わずかな憂いの理由に期待を籠めた。
「なあ、」
 ――答えが聞きたい。あの日、終ぞ聞けなかった返答の、そのすべてをつまびらかにしたい。そろそろピリオドが欲しかった。そのためにもあと一度会わなければならない。可能ならば連れ帰る。何としてでも。あいつという人間がおれに与えてしまったものの責任を取らせる。笑える話、出会える確信なんてこれっぽっちもない。途方もなく広がる世界地図の上で、砂粒を探し求めるように無謀な行為だったとしても、おれにはもうその手段しか残されていない。
 冷たいベッドの内側で、ただひたすらに夜明けを待った。


 巡る季節、ふたつ並んだちいさな影、優しいばかりの記憶が色鮮やかによみがえる。
「こうへいちゃん、おうちにくだものがなったんだよ」
 ふたつの口唇で競うように貪った遠い日の果実。
「おいしいね、こうへいちゃん」
 締まりのない顔で、おれの名を呼んだそいつの顔。口唇を濡らした蜜の輝き。思い返せば思い返すほど過去は美化されていく。
 あいつは今どこで一体どんな夜を過ごしているのだろう。想像するのを避けていた。あのやわらかな笑顔がまだ続いているはずだと楽観視するには、この世には地獄が多過ぎる。
 おれは脳裏に広がるイメージを振り切り、幼いあの日、ぐしゃぐしゃに甘ったるく熟れた実を頬張る少女の横顔だけを頭に広げた。天国みたいに芳醇。やめろ、それは、毒の実だよと。誰かが叫んでいる気がした。それでもまだ、あのときと同じ果汁を味わえるはずだと信じていたい。この夜が死んで、おれがあちら側の誰かをこの手にかけてしまうまでは。

(14/11/13)