Anemone's Unfair

 が今回の一件を必死に内部処理しようと努力しているのは、彼女をすこし観察すれば誰にでも分かることだった。本人は至ってふつうに振る舞っているつもりなのだろうが、ふとした瞬間にほころびが見え隠れする。例えば本部基地の最上階、広々としたカフェテリアの隅で、ぼんやりと景色を眺めている瞳。明らかに憂いを帯びていた。眼下に広がる平和な三門市を眺めているようで、その実、かつて手の内に納めていた存在のぬくもりを追跡している。
 やわらかくカーヴするの頬を見て、バカバカしいよな、と出水公平は思う。
 彼女の性格上、泣き喚いたりもしない。けれど、既に終わった恋の残り火を未練がましく風雨から守り、痛みをはらむ時間だけを続けている。
 もともと悩みとは無縁の生活を送る出水には、じぶんから懊悩に足を突っ込んでいるの生きかたが理解できなかった。出水よりいくらか年上のくせに、学習能力が欠けているのだろうか、とまで思ってしまう。むしろは頭が切れるほうの隊員なので余計に不思議だ。
 じぶんの理性を失ってまでのめり込める存在が、この世にはいるんだろうか?
さん、」
「……? 出水、」
「ちわ」
 カフェブースで購入したグラタンコロッケハンバーガーとコーラを手に持って、出水はの対面に座った。は出水を見ると、にっこりと微笑む。彼女の手許にはすっかり冷めたキャラメルラテのコップがある。
「どしたの? 遅い昼ごはん?」
「そっすね。さんは、任務終わりか何かですか」
「うん。きょうは他に予定もないから、暇潰ししてた。いい天気だねー。寒いから外には行きたくないけど」
「ええ、完全に引きこもりの常套句じゃんすかそれ」
 三歩引いたように言う出水。はしょうがないじゃない、と苦い笑みを浮かべた。
「行きたいところが思いつかないんだよ」

 の元恋人が結婚する予定だということを出水が聞いたのは、夜、の部屋のベッドのうえだった。狭く、清潔なベッドだった。ひとり暮らしのおんなの部屋には、出水にとって見慣れないものがたくさん詰め込まれていた。基礎化粧品のボトル、こまごまとしたコンパクト、パステルカラーで纏められた内装、薄く漂うあまいにおい。ガーゼのピローケースに包まれた枕に頭を沈ませながら、出水はの話に耳をかたむける。
「うーん、百歩譲って他に好きなひとができたとかならまだショックも小さく済んだんだけど、結婚っていうのはね、ちょっとね……驚いてさ」
 出水はの瞳を見つめていた。さみしそうな影をつくる睫毛。間接照明の明かりだけが照らす部屋はどこか侘しい。
 出水には、結婚なんて段階はまるで想像がつかない。だってまだ高校生だ。おんなのこと付き合うとか、キスをしたりセックスをする、そういう選択肢なら山ほどある。もしかしたらいずれ未来には誰かと左手薬指にわっかを嵌めることになるかもしれない、と想像はする。ただ、身に迫って感じられないだけだ。漠然とし過ぎて、手に余る。
 目の前のひとはそんな二文字と真正面から格闘したのか、と思うと、それがそっくりそのまま出水とのあいだに隔たる距離の広さに感ぜられた。何をどうあがいても埋められない年齢差を、無理矢理にでも実感させられた。
「私といっしょにいるときも、このひとは他の誰かとの未来を組み立てたりしてたのかなあ、とか考えると――ぜんぶなかったことにしたくなって」
 確かにそれはしんどい気がした。じぶんだけ追いていかれているような、まるで仲間に入れてもらえない疎外感のような。もっと端的に言えば……裏切りに間違いなかった。
 そんな仕打ちを受けているくせに、の振る舞いからは怒りひとつ感じられない。あるのはただ寂寞。怒髪天とまではいかないまでも、せめてもう少し相手のおとこに憤りをぶつけてもよいのではなかろうか。こういうのがダメおんなというやつか。出水はそう思って、の頬に指を触れさせた。……はじめて触れた。のこのこ家についてきて、まるで色っぽい空気にもならなかったから指先すら絡ませていなかった夜なのに。は気持ちよさそうに出水の指先に浸っていた。出水は猛禽類に似たおのれの瞳をわずかに細めると、の目の端にうるおいが溜まりつつあるのを認めた。
「……そういえば出水、家帰らなくて平気? 親御さん心配するよね」
「あー、もう連絡してあるんで」
「なんて?」
「太刀川さんの家に泊まるって。おれ、男だし、親もそんなに心配しねーっつーか」
「なるほど手回しが早いね。でも、太刀川くんに怒られるかもよ」
「だいじょぶです、こっちは日ごろさんざん言うこと聞いてんだから」
 幾分げんなりとして出水が言うと、突然の瞳から頬へしずくが伝った。ぎょっとする。おんなは急に泣き出す生物だということを忘れていた。の頬はすぐにびしょびしょになって、ピローケースにおおきな染みを広げている。出水は思わずを抱き寄せ――驚いた。目の前の年上のおんなが、年下のじぶんの胸にすっぽり埋まってしまったからだ。肩なんて驚くほど薄っぺらい。適度な筋肉の硬さがあるのに、それでいてやわらかい。その感覚にくらりと目眩を覚えながら、慣れない手つきで、の髪を撫でさする。痛いの痛いの飛んでいけー、なんて馬鹿げたせりふはさすがに出て来なかったけれど。
「……ありがとう出水。ひとの前で、なぐさめられながら、泣きたかった」
「意外とタチわりーよな、さんって」
「そうだね。……大人なのにね。ごめん、出水。ほんとにありがとう」
 は肩を震えさせながら言う。
「感謝してる」

カット


 にとって出水公平とはただの後輩で、それ以上でもそれ以下でもなかった。のいちばんはいつだってあのおとこで固定されていた。実に数年の付き合いだった。おとこは確かにもう立派な大人と呼べる年齢で、結婚を意識する時期に入っていたことに間違いはない。はただ、ただ、馬鹿だっただけだ。長年寄り添い生きてきたおとこの横、そこに以後も並ぶのはじぶんに違いないのだと信じていた。盲信だった。
 あの日、おとこは言った。
 別れて欲しい。
 耳を疑った。何しろ場所が職場――ボーダー本部基地の、自動販売機の前だったのだから。あまりにも日常に寄り添い過ぎた、簡単な場所だった。そんな致命的な一撃を食らうとは夢にも思わない。
 は返事すらできず、からだにぴしりとヒビが入る音だけを聞いていた。
 これは性質の悪い夢だと思った。次の瞬間には薄い皮膜が避け、いつも通りの現実が戻ってくる。おとこはじぶんに笑いかけ、あしたの休みはどこへ行こうかと朗らかに尋ねてくる。そのはずだった。
 けれどおとこは告げた。
 オレ、今度、結婚するんだ。

 いっそ狂えたら楽だったのだろうとは思う。理性を失い、鬼の形相でおとこに詰め寄り、腹でも刺してやればよかったのだ。許さなければ。髪の毛の先まで憎めれば。
 それができなかったから苦しい。馬鹿げているとは思うが、今でもあのおとこを愛している。こころの底から。求め、慕い、憧れ、恋うている。裏切られ下手に狂うより、こっちのほうがずっと病的だった。それほどまでにおとこを愛した、じぶんがいちばん愚かだった。
 身に穴を開けらられても、日常は続いていく。にはボーダーのB級隊員としての日常があった。年齢的にもトリオン器官の成長は見込めないが、それでも重宝されていた。年若い隊員にが勝てるぶぶんなんて、これまでの経験から導き出せる戦法ぐらいしかないけれど、大切なことだ。一朝一夕には手に入らず、積み重ねてきた日々の濃厚さだけが金色の経験値を産む。だから、はもはやトリオン器官が衰えつつあるじぶんを惨めに感じたりはしなかった。最近では後輩育成のほうにもちからを入れていて、軌道に乗りつつあった。かなしいかな、こいびとをひとり失ったぐらいで、は基盤を捨てられなかったのだ。ボーダーを去ったりでもしたら大勢に迷惑をかけるだろう。
 だからその日もは本部へ足を運び、毎日の鍛錬に身を費やし、後輩を厳しく指導した。自由な時間に入ると、お決まりである最上階のカフェテリアでキャラメルラテを飲んだ。パノラマで見る三門市はいよいよ寒そうで、吹きすさぶ風の冷たさを想像するだけで鳥肌が立つ。でも、あのおとことは季節を問わずさまざまなところへ足を運んだ。時には目的地が異国だったこともある。気温や天候への懸念なんて、ひとかけらもなかったのに。
 ぼんやりと時間を過ごしていても、思い出すのはおとこのことばかりだ。
 あのカフェでお茶をしたな、とか、あそこらへんに彼の家があるんだよな、とか。女々しいことこのうえない。でも、には必要なプロセスだった。今の彼女は必死になって軟着陸を試みている最中なのだ。あの手この手を尽くし、時には流れに身を任せ、新たな一日を始めていく。喪失感から何とか復活するためにも、今はただ、ゆっくりと思い出を燃やしていく。ひとつひとつ、惜しみなく時間をかけて。
 対面の席に誰かが腰を下ろしたことで、の回想は一時停止した。
さん、」
 出水公平だった。よりずっと上の世界にいる、天才肌の隊員。それなりに仲がよく、他の隊員といっしょではあるが夕飯を共にしたことも多い。そんな高校生が、いかにもヘビーカロリーなハンバーガーとコーラを乗せたトレイを携えて、目の前にいる。
「……? 出水、」
「ちわ」
 明るく脱色した髪を四方に跳ねさせて、出水はあいさつをした。は微笑む。もう冷めたであろうキャラメルラテで喉をうるおす気にもなれず、とりあえずおざなりな会話をはじめた。
「どしたの? 遅い昼ごはん?」
「そっすね。さんは、任務終わりか何かですか」
「うん。きょうは他に予定もないから、暇潰ししてた。いい天気だねー。寒いから外には行きたくないけど」
「ええ、完全に引きこもりの常套句じゃんすかそれ」
 若干引き気味に出水が答えるから、はしょうがないじゃない、と苦笑した。
「行きたいところが思いつかないんだよ」

 あの別れ以来、どこにも行けないじぶんがいた。はいくつも年下のおとこのこの胸の中でひとしきり泣きじゃくったあと、ピローケースだけではなく彼の服にまで広がった涙の染みを見て、ひどい罪悪感を覚えた。じぶんが辿り着くべきところがこの胸だったとしたら、幸福な海に浸りながら眠りにつけただろうに。
 は出水を利用した。彼がじぶんにひそかな想いを寄せているのを知っていたから。そこにわずかな優越感を覚えたりもしていた。じぶんを求めてくれる存在の甘さ、そんな糖度は心底愛した人間と比べてしまえば何の役にも立たないのに。
 それでも何か、ひとときでもいいから縋るためのよすがが欲しかった。
 欲しいことばを産み落とすくちびる、背骨を撫でる指、嗚咽を隠してくれる胸。そして何より、鎮痛剤としては一級品の働きを見せるぬくもり。慢性の痛みにモルヒネを打つようなものだ。根本的な解決にはならずとも、痛みの軽減は人間にやすらぎをもたらす。今夜はたまたまそれが出水だっただけのこと。
 脱色された出水の髪の、どこか乾燥した肌触りがなんだか新鮮で、の胸には穏やかな凪が広がる。ようやく嗚咽も納まって、いつも通りのじぶんに回復した。
「こんなに泣いたの初めてかもしれない」
「お、じゃあもしかしておれが一番乗りとか?」
「一番? 何の?」
「あんたの泣き顔を見る男」
 そういえばそうだな、と思って、は肯定した。出水は大して嬉しそうにも見えない顔で、肌の距離を近付けてくる。馬鹿みたいにあたたかく、それがを単純に絆していく。このひとを好きになってしまいたい。じぶんを愛してくれるひとを同じように愛したい。簡単なように見えて実は難儀なこと。出水から与えられる慰みを甘受することは、つまり彼を侮辱することとイコールで結ばれる。はあんなにも易しく、無条件に、あのおとこを思っているのに。どうして出水の場合は話が違ってしまうのだろう。
 答えのない問いと、あのおとこを追うだけのじぶんに、酔っているのかもしれなかった。
「なあ、そいつのこと、今でも泣くほど好きなの? 裏切られたクセに、これからも女々しく追い続ける訳? アホじゃん、そんなの」
 低く掠れた声はまるで突き刺さる棘のように響く。
 は何のためらいもなくうなずいた。
 そう、あのひとは、私にとって。きみよりもずっと愛すべき存在で、そしてこれからも延々と追い続けていくしかない、たったひとつの不条理に違いない。

Image Song
Anemone Heart - 南ことり & 園田海未