一秒間で君を連れ去りたい

 ここでの彼女はひとごろしになる。
 空を切る澄んだ音が鼓膜の奥まで直に届く。日頃の間抜け顔がまるで嘘みたいに、仮想空間の彼女は実に凛々しい瞳で弧月を振るっていた。堂々とした受け太刀、次いで、力強い払い。ぎいん、という鈍いような鋭いような音ののち、彼女はためらうことなく荒船哲次の心臓部を横に切り裂いた。隙に釣られて踏み込んだ荒船の負けだ。吹き飛ばされた身体を何とか起こす。傷口からは血液の代わりにトリオンが漏れ出していた。亀裂が走る四肢。偽りの身体はまるで爆破させられたビルのように瓦解する。トリオン供給機関、破損。
「もらった、」
 の勝ち誇った顔。
 次の瞬間、荒船は訓練室の簡易ベッドに叩き落とされていた。疑似的な死はいつもここで迎える。慣れた衝撃に今度こそ舌を鳴らす。モニターに表示されたポイント数を一瞥し、苦い顔が浮かぶ。十本中、白星はみっつ。そのうち一度は頭部を飛ばされた。フライパンのポップコーンが弾けるみたいに、放物線を描いて。
 荒船が日々研鑽を積み重ね力を付けていくように、もまた、最後に刃を交えた先々週よりもずっと力強い。面積を広げる悔しさを何とか処理し、起き上がる。同時に、訓練室のドアが口を開いた。やはり間の抜けた顔をしているそいつは未だトリオン身体のままだった。ベッドに腰かける荒船へ、小走りで近付いてくる。犬か。にっこりと三日月を描く口唇に、色のないリップクリームが塗られていた。
「ポイントごちそうさま」
「うるせーよ。それを言いにわざわざ来たのかお前は」
 野良犬でも追い払うような仕草で返すと、は声を上げて笑った。ふとももを叩きながら笑うのは何とかして欲しい。
「違う違う。負けた荒船がどんな顔してるのかなって、気になって」
「オイ、余計タチ悪ぃぞ」
 荒船の眉間に皺が寄る。久しぶりに顔を合わせたと思えば、挨拶よりも先に戦闘を吹っ掛けてきて――最後にこれだ。まったくどうして荒船が勝てない攻撃手連中にはこの手の類が少なくないのか。感覚、努力、好奇心、それから(面倒なことに)才能で裏打ちされた生粋の戦闘馬鹿に斬り伏せられるたび、荒船の胸の内にはいつも白い靄が漂う。組み上げられた理論で作り上げる戦闘を好む荒船と、本能が先行する野生動物のようなバトルに生きる隊員。
 言わずもがなは後者だ。
 トリオン体の換装を解いた彼女は、荒船の右隣へと腰を落ち着けた。きれいめのショートパンツから覗く脚が黒タイツを穿いていることに、荒船はひとり、こっそりと感謝をした。
「うそだよ、うそ。会うの久しぶりだから、話したくて」
 何をいけしゃあしゃあと、と思う。
「おーおー確かに久しぶりだな。電話もメールも寄越さねえ、挙句の果てには本部にも居ねえ。誰のことだろうな」
 がうっと言葉に詰まる。そのようすを見て、少しばかり胸が空くような思いがした荒船は、きっととてつもなく性格が悪いのだろう。
 胸のムカつきの原因は明らかだ。今、目の前にいるのだから。
 と最後に顔を合わせたのは二週間前、高校の卒業式だった。高校生活のピリオドを悲しみ、涙を滲ませていた横顔を思い出す。あのあと、彼女は確かに「ちょっと忙しくなるかも」と前置きはしていた。しかし何事にも限度と言うものがあるはずだろう。一度ぐらい顔を見せろと詰め寄りたくなった。元気にやっていることぐらいは家族や友人経由で耳にしていたものの、直接連絡があってしかるべきだと荒船は思う。春からの進学に向け、ひとり暮らしを始めるという話はもちろん事前に知っていた。それにしても、だ。
 ――要は。放っておかれて、大層お冠なのだった。
 機嫌の悪い猫にも似た荒船の剣幕に、さすがのも苦い顔をする。じゃれ付きを咎められた飼い犬みたいに荒船を見上げてきた。その視線に媚びが全くないので、怒るに怒れない。荒船は自然、腕を組んでいた。
「それは、ほんとごめん。引っ越しがこんなに忙しいもんだなんて思ってなくて……連絡はしようと思ったんだけど、いつも夜中で」
「はあ? そんなん言い訳だろうが」
「ごもっともです……ごめん。ごめんねー、あらふね」
 語尾の掠れた頼りなげな言葉と共に、が荒船に腕を回してきた。思わずぎょっとする。それは間違いなくあざとさというものだ。やわらかい肌を喜ぶ前に、まず呆れた。引き剥がすことは簡単だが、外ではあまりスキンシップを取ることのない彼女の珍しさに負けて、放っておいた。こんなもので許す気になっている自分の甘さを恥じる。
「ごめんね、荒船」
 荒船の二の腕に額をぐりぐりと押し付けながら、は小さな声でつぶやく。本格的に縮こまっていた。子どもを過剰に苛め立てる趣味はない。荒船は短く舌打ちをした。
「あんまり謝んな、余計イライラする……つーか、家、どのあたりなんだ」
 話題の転換に、が顔を上げた。
「家? 駅から近い。コロッケ屋とかカラオケ入ってるビルあるでしょ、あれの横の通り」
「へえ」
 それはだいぶ具合のいい部屋を見付けたものだ。大学へは自転車通学といったところか。荒船も春からと同じ学び舎へ進学するのだが、こちらは電車を使う予定だ。
「学校近いし、利用してくれていいよ」
「言われなくても」
 さんざん通ってやる。――とまでは口にしないのが、荒船のちっぽけな矜持だった。
 本当なら荒船も進学を機に実家を出るつもりだったが、そう上手くはいかなかった。がトントン拍子で引っ越しの日取りを決めていったのを横で羨んだりもしたが、もういい。過去の話だ。
「ねえ荒船、これから何か予定入ってる?」
 とん。と腕を軽く叩く手に、荒船は視線を移した。
「ねえけど。また十本付き合わせるつもりか?」
 ちがうちがう、と口端をほころばせる。そして、
「じゃあ、きょうはうちで夕飯にしよう」
 名案を思い付いたという顔で笑う。「引っ越し祝いと、お詫びを兼ねて」
「それは、構わねえけど」
 話が進むスピードが早くなかろうか。荒船は内心どぎまぎしながら、下心だけは何とか悟らせないようにから目を逸らした。
「決まりだね。荷物持ってくるから、一緒に帰ろう」
 返事を待たずにちいさな背中が訓練室を出て行った。そうして二分も経たないうちにショルダーバッグを抱えて戻って来る。彼女はその中身を探りながら、あった、とか何とか声を上げた。
「これ、ほら。荒船に持っててもらおうと思って」
 が何かを差し出してくる。
「……なんだ、これ」
 ――鍵だった。何の変哲もない、金属の。
 一瞬、呆ける。頭の中にクエスチョンマークが幾つも浮かび上がり、そして真っ赤に弾けた。宝箱を探るように見つけてみせた物体がこれなのか? 身体が硬直する。鍵を一向に受け取らない荒船を不思議に思ったのか、は荒船の手に直接それを握らせた。直接触れるニッケルの冷たさが、暴走した思考回路を少し、落ち着かせた。
「うちの合鍵」
 ああもう。
 荒船は短く舌打ちをして勢いよく立ち上がると、自分のボディバックからキーケースを取り出した。自宅や自転車の鍵が納められたシンプルなそれの、空きチェーンに、貰ったばかりの気恥ずかしさをくぐらせる。調子が狂う。他意のない微笑みで、私が持っててもなくしそうなんだよね、と続けるの腕を、ぐいと引き寄せた。
「――え、」
 いとも簡単に引き倒されたが、豆鉄砲でも食らったような表情を浮かべた。見下ろしていると、荒船の背筋にひとすじの電流が走る。後ろ暗い欲。被ったままのキャップを取り、簡易ベッドに放った。間を置かず、硬直したままのに伸し掛かる。
「……荒船?」
 問う声色に不安が滲んでいる。聞く耳は、持たない。反論も呼吸も何もかも塞いでしまうように、口唇を覆う。やわらかな感触の中に潜む生温い器官を引き摺り出して、先端を軽く吸う。の肩が跳ねた。視界の端をつつく赤がそそる。荒船が目を開けると、現状をまだ上手く把握できていない目と視線が絡んだ。
 そう、さっき自分のいのちを潰した相手を、こんなにも容易に屈服させられる。
 あっという間に夢中になった。深く、角度をゆっくりと変えながら絡め合うと、鼻にかかった息が漏れるのでたまらない。舌先で歯茎をつつくのもまた一興だ。互いの唾液が混ざり合い、の口端からこぼれて伝う。苦し気だったので、一度離れた。荒船の下の人間は肩で呼吸をしていた。肺がふくらむ度に上下する胸に手のひらで触れると、いやいやをするように首を振られた。これぐらいの反応なら、別に心の底から抵抗している訳ではないとわかる。今直ぐにでもこのカットソーを剥ぎ取って、その下に隠れている真白にしゃぶり付いてしまいたかった。向かって右のふくらみに指を埋めると、固い下着の存在が感じられて、逆に煽られる。布の上から突起を弾くと、きょう初めて聞く、短い喘ぎ音がの口唇から漏れた。
「…あ、ッ」
 それに気を良くして何度か同じ刺激を加える。は頑なに目を閉じていたが、痺れを切らした荒船がカットソーを捲り上げるとさすがに焦りを見せた。
「ちょっ待っ、て」
「なんで」
 間髪を入れずに答えた声は実に冷たかったと、自分でも思う。気色ばんだ荒船に見下ろされ、は視線をさまよわす。
「い、家でしよう? ね? ここだとまずい。誰か来る」
「そいつは無理だな」
「え――うわ、」
 どうして、と問おうとするの手を引っ掴み、荒船は自分の足のあいだに触れさせた。突然の行動にが目を見開く。そして指先に触れた熱に気付いて、顔を真っ赤にした。林檎もかくやと思わせる色に荒船は満足し、拘束していた手を解放してやる。
「な。無理だろ」
「……わ、分かった。一回抜いてあげるから、それから帰ろう。ここで最後まではちょっと」
「へえ、お前が抜いてくれるってのか? じゃあ、俺は別にそれだけだっていいぜ。家まで行かなくても」
 こういうとき、言葉がペラペラと流れるように出て来るので、荒船は自分でも驚いてしまう。揶揄を含ませた瞳でを見つめると、彼女は何か言いたげな顔をしていた。荒船の背に、また、決して清くはない情動がせり上がってくる。いじめっ子の幼稚園児が長じたら、こんな風になるのだろうか。が荒船の二の腕を掴んだ。必死さを内包した仕草だった。
「…私も、最後までしたい、から。お願い」


 が家の鍵を開けるのを眺める目に余裕が欠けているのは、自分自身でも重々承知していた。鈍い音を立てて開いたドアをくぐる。――肌に慣れた香りがした。
 玄関から居間まで一続きになった、オーソドックスなタイプのワンルーム・マンション。ここに到着するまでずっと、ふたりとも心ここにあらずといった風情だった。交わした会話には何処か芯めいたものが抜けていた。ふたりで長く佇むには手狭過ぎる玄関を抜けてすぐ、荒船はの肩を引き寄せた。は困り果てたように笑った。
「せっかちだ」
 さっき一回出したのに、と、さっき一回荒船の精液を飲んだ口唇で言う。トレードマークのキャップと荷物を降ろした手をそのままに、の両頬を挟み込むようにして引き寄せ、上からぐいと塞ぐ。さながら荒船が瓶の蓋だ。
「ん……っ」
 キッチンに寄りかかり、が荒船に応えてくる。触れ合った前髪同士が額の上で乱れた。直接ぐちゃぐちゃになる吐息が顎や頬や喉許にかかって、荒船を焦らせる。
 ふたりきりで、お互いだけに集中できていて、深くなるばかりのキスに溺れていて、彼女はまさしく荒船の支配下に置かれているも同然なのに、何故こうも焦燥に急き立てられるのだろう。いざセックスの封を切ってみれば、その内側にあるものなど、歯車を乱された男の哀れさだけなのだ。
 まだ少なくない段ボールが積み上げられたままの、初めて訪れるの部屋で、一も二もなく性に掻き立てられる愚かさを、けれど荒船は渋々許した。おそらく、も。
「ふ、ぅ…あ、」
 首に回った腕が汗ばんでいるのを感じて、荒船の胸の奥はこれ以上ないほど熱を上げた。半端に開いた目蓋のすきまから、赤らんだ頬の上でふるえる睫毛を捉える。何故こんな常以上に抱きたくなるのか理由を突き詰めようとするのだが、思考回路がすっかり木偶になっていて、徒労に終わった。だが、考えずともおのずと分かる。直接顔を合わせるのは十四日振りだが、肌を合わせるとなるとそれ以上の空白があるのだ。完全に猿だと、自分を棚に上げながら、差し入れた舌をのそれと絡めて遊ぶ。唾液が甘く感じられるということは、頭がおかしくなっているのだろうか。それでも別にかまわない。
 執拗の上に執拗を再度塗り重ねたようなくちづけをいったん終わらせる。両人共にすっかり上がった息を整えながら、服を脱がす。荒船はまず自分が羽織っていたジャケットを取り払ってから、の服に手をかけた。息も絶え絶えといった風情の、脱力した彼女の顔。じっとりと汗ばんだ前髪の生え際に口唇を落としながら、欲情する。
「……あっつい」
 漏れた言葉の通り、の素肌は熱を持っている。カットソーを脱がし、ショートパンツとタイツを一緒くたに引き下ろす。
「あれ。荒船はタイツはお嫌いですか、」
 おどけるに、真顔で返す。
「今は邪魔だな」
 子どもの面倒を見る献身的な親みたいだ。既に用無しの衣服を放り投げ、荒船は中身だけを抱き上げた。軽くも重くもない。ひとひとりの、それなりの質量だ。腕の中でからからと笑い声が上がる。
「落とさないでね。せめて、優しく運んで。どうせそのうち乱暴になるんだし」
「合意の上の乱暴は和姦に入るぞ。多分」
 短い旅路だった。部屋の隅に沿うようにして配置されたベッドは、主が引っ越す以前に自室に置いていたものと同品である。真新しい部屋と使い慣れたベッドのちぐはぐな組み合わせにさえ高揚した。そこに降ろされたは実に心許なげだ。水色を基調にした下着と肌の対比に頭がくらくらした。むき出しの肩を押して伸し掛かると、うえ、というまるで色気のない呻き声が漏れる。
「はっ、潰れた蛙みてえ」
「失礼な、」
 徐々に暮れ始めた太陽が、未完成の新居を出来過ぎた色に染めていく。このシチュエーションに乗らない手はない。荒船の影の中で呆けたような顔をしていたの喉許に顔を埋め、鎖骨に軽く歯を立てる。頭上で聞こえた短い息に満足して、薄い腹に手を這わす。
「……っは、あ」
 荒船の肌とは真っ向から異なる感触に歓喜しながら、口唇をするすると下降させていく。かすかに汗ばんだ谷間に強く吸い付くと、荒船の髪にふるえる手が触れた。指先で髪をかき混ぜられる。ねだられているのが嫌でも分かった。浮かせた背中に手を回し、留め金を外す。いつも思うのだが、こんな極小の金属フックだけで留めているなんて、心許なくはないのだろうか。いや、取り外し易いのは勿論ありがたいのだが。
 きちんと手ずから脱がせてやって、あらわになったふくらみの際にも口唇を触れさせる。が息を詰めた。こちらから刺激するまでもなくしっかり尖っていた先端を口に含む。
「あ、あ…っ」
 唾液をたっぷり含ませた口内で好き勝手嬲る。舌と口唇で転がし、吸い上げると、たまらないと言った声が上がった。空いた手は内腿に運び、膝から付け根までのラインを往復させる。薄っすら汗ばんだの脚は時折びくびく跳ね上がり、暴れるのだった。
 左右の胸で交互に遊んでいた動きを止め、荒船は顔を上げた。の左足首を掴み、ぐいと高く持ち上げる。唾液の軌跡で乳房をてかてかと光らせているは、熱を持った瞳で荒船の動向を見守っていた。荒船は故意に彼女と視線を繋げたまま、見せしめのように、その足指を口にぱくりと含んだ。
「、……ふ」
 垂れるほどの唾液で潤滑を良くして、小さな爪も、指のあいだも、さんざんな目に遭わせる。粘着質な音を高く響かせることで、の官能を煽り立てる。まだ、絡んだままの視線が、ぞっとするほど熱い。今にも目尻からジェルのようにとろけてしまいそうな、縋るようでいて助けを求めてもいるような瞳に見つめられ、腹の奥底に劫火が灯る。荒船はの足指を解放してやると、間髪入れずに、躊躇いなく、彼女の膝を割った。
 絡めたままで離れない視線に期待がこもる。
 ベッドが変わっていないのなら、と、荒船はヘッドボードに手を伸ばした。 小ぶりな抽斗の中にはお目当てのコンドームがいくつか散らばっていたので、ひとつを摘まむ。
「……っ、は、んっ」
 指である程度慣らしてから、ゆっくり埋め込んでいく。圧倒的な恍惚感に目を伏せた。根本まで包み込まれてから緩慢に動き出すと、そいつは荒船の下で涙を滲ませながら喘ぐ。この部屋の壁は薄いのだろうか? なら、聞かせてやるまでだと思う。の指が枕を掴み、白い布地に深い皺を刻ませていた。丸まったショーツがベッドの下に墜落死する。
「っ―――あぁ、だめ、おく、当たって…」
 の「だめ」は、正確に言えば拒否ではない。真に嫌悪を表す際は「やだ」と突っ撥ねる。だから荒船は単純だが最高な反復運動を止める気もなかったし、弱いのだというぶぶんを可能な限り狙ってやった。打てば響くようなセックスを楽しむ。何だか今回は長く持つ気がしなかった。熱に浮かされたみたいに振る腰は、やっぱりただの単細胞な猿でしかないようで、けれど目の前のとて母音ばかりを紡いでいるのだから、決して独りよがりではないのだ。求められているという、気恥ずかしい充足感が四肢の先まで満ちていく。ずっとの表情の変化を眺めていると、あらふね、と舌っ足らずに名を呼ばれる。キス、してよ。
 五文字の懇願が鼓膜に届いた瞬間、荒船は身を倒していた。
「! あぁっ、も、う、深い、からっ」
 ひときわ大きな素直を聞いて、もう耳からどうにかなってしまいそうだった。お望み通りに口唇を塞いでやり、ただ、動きだけは絶対に止めてやらなかった。行き過ぎた悦が双方の目をうるおわせる。絡めた舌を噛み切られても、きっと今なら後悔はしないと思えてしまうのだから、最中の男はやっぱり馬鹿なのだ。
 つい二時間前に荒船を殺した腕が背に回される。今にも死にそうなの前髪を撫でてやった。が微笑んだ気がしたが、最後の瞬間に持って行かれた意識ではもう判ずることはできなかった。きょうもきょうとて荒船に許されたのは、最後の最後までこころよい負け戦だけだった。

(14/07/22)