娯楽室

 私、まずいことになっている。
 そういうふうに、人並みに焦っている部分もあるのだ。確かに。
 けれど、私のからだは悠長にも大人しく黙り込んだまま、右手を掴むしなやかな手の温度に胸の高鳴りを覚えたりしているのだから、てんで始末におけなかった。

 特別教室だけを一棟に納めた校舎は、放課後を迎えると同時にしんと静まってしまう。みんな、退屈な授業が終わってしまうと、せっせとアルバイトへ向かったり、部活に精を出したりしていて、この三階建てには生徒の影ひとつない。人気のない建築物に広がる独特の静寂はどこか恐怖を抱かせるたぐいのものだ。大勢に使われるための場所なのに、肝心のひとがいない。私と彼はそんな特別校舎の廊下を歩いていた。ふたりとも無言で、夕陽の色彩にお膳立てされた長い廊下を進んでいく。
 やけに響く音を立てて開かれた最奥の視聴覚室に、歌川くんが私を促した。大きなスクリーンがホワイトボードの横にかかっている。その手前に並んだ長机と、床と一体型の椅子のあいだを抜け、窓際の席に腰をかけた。窓を越えた向こうには第二グラウンドがあり、野球部が外周をしているようすが遠目に確認できる。歌川くんが腰を上げた。
「あのさ、歌川くん。これって」
 私は彼の背に声をかけるのだけれど、彼は窓際のカーテンを引き寄せ、教室を薄暗い場所へ変えていた。どこか焦燥に駆られたように振り向いた後輩の表情をうかがうことはできない。私はうっすらと危機感を感じ取り、机に腕をついて立ち上がろうと、した。
「先輩」
 なにやら縋るような響きだと思った。
 すぐそばまで近付いた歌川くんの瞳は、いつもの通りの色をしているくせに、ともすれば泣き出しそうだったのだ。胸の中心で何かが痛みを覚える。私の無意識から危険信号が発せられているのがじゅうぶん分かるのに、彼と距離を取るのは惜しまれて、私は結局また元通りの位置へと座る。歌川くんは、その真横へ腰を降ろした。
「……ボーダーは、いいの?」
「きょうは何もないんです」
「そっか。それなら、いいんだけど。私も任務入ってないし…」
 こうして落ち着いた環境で会話を交わすのは久しぶりであったし、放課後になったとたん有無を言わさぬ調子でこんなところまで連れて来られた驚きも相まって、おしゃべりなはずのくちびるが上手に働いてくれない。聞いて欲しいことも聞きたいことも山ほどあったんだけれど、おかしなものだ。ほら、例えば、こないだの近界遠征について。会えなくて寂しかったとか、無事に帰ってきてくれて嬉しいとか、ありふれた話題なら山ほど用意してあるのに。
「視聴覚室なんて――久しぶりに来たよ。喋るなら、教室とかでも良かったのに」
「どうせなら先輩とふたりきりになりたいと思ったんです。いけませんでしたか」
「……いけなくはないよ。少しびっくりしただけ」
 直球ストレートは心臓に悪すぎる。視線を外すことでどうにか平常心を保とうとした。歌川くんは何だか考えあぐねているようだった。複雑な瞳で私を見つめている。私こそどうすればいいか分からなくなりそうだった。本来ならこの場においてもっとも困惑すべき人間は私なのだろうが、でも、それは歌川くんでしかないのだった。彼は、他でもない彼自身がとった行動にいちばん振り回されているみたいだった。優しい目尻が困り果てている。どうしようか、という感じで。
「……菊地原たちに聞いたんです。放課後の視聴覚室は穴場なんだって」
「それは私も知ってる。有名だから」
「……どういう意味の穴場だか、先輩、分かってますか?」
 淡々と言い聞かせるようなことば。まるで私を試しているかのような。気付かれないように唾を飲んだけれど、それさえも知られているかもしれない。
「分かってるけど、私、歌川くんはそういうタイプじゃないって思ってたから」
 予防線を張るためにも強く言う。ひとことひとことで釘を差してみる。歌川くんは目を見開いて、目蓋をぱちぱちと瞬かせた。
「先輩は、本当に、オレに言うことをきかせるのが上手いんですね」
 歌川くんはこれ以上ないほど眉根を下げると、くしゃりと苦笑してみせた。そのあと、彼が顔を上げたのだけれど、そのとき不意に上目使いで見つめられた。その瞳は確かにほころんでいたのに、底には一定のふしだらさが垣間見えて、上手を取ったと安心していた私は背を震わせた。私が歌川くんを良いように扱うのが上手だと言うなら、歌川くんは、私にそう思い込ませるのが得意だ。
 いままでこの部屋でどれくらいのひとたちがひそやかなときを楽しんだのだろう。そう考えると、途端に焦りと高揚を覚える。誰もいない校舎の隅で、ふたりきりを待ち切れない男の子と女の子が、ほんとうはだめだという甘酸っぱいジレンマすら楽しんで、それでもお互いに手を伸ばし、触れ合わせて。……そういえば、歌川くんは、この部屋に入ったあと、内側から鍵をかけていなかったか。
 無意識のうちに入口を見やった私を歌川くんは目ざとく認めていたようで、主人に遊んでもらえないゴールデンレトリーバーを彷彿とさせる瞳のまま、問うた。
「……出ますか?」
 四度だけ動いたくちびる。
「出ないよ」
 そしてこちらも、四度だけ動いたくちびる。
 歌川くんは驚いたらしく、理性的な目を丸くして私をしげしげと見ている。逃げるとでも思われていたのならいささか心外だ。確かに突然のことで動揺はしたけれど――前提として、私はこの後輩に甘い。いつも控えめで周囲のサポートを欠かさない、どちらかといえば裏手に回りがちな彼が、強引な手段でふたりきりを作り上げたこと。私ばかりが強情になっていてもしょうがない気がした。
 歌川くんの、広くすべらかなひたいを撫でる。
 私はどうやら、飼っている大型犬に手酷いお預けを与えてしまったようだった。それが原因で彼に常とは違う行動を取らせてしまったのならば責任は取らせていただこう、と論理的に考えただけで――というのはただの言い訳に過ぎない。
 だってただ、ひたすらに、欲しくなってしまった。

(14/06/27)