Messy Ripstick

 男の人が腕時計の一本にこだわるように、女の人はくちべにの一本に愛着をおぼえるものだ。所狭しと店頭にならぶ商品と睨めっこを続けた結果に選ばれたそれを、大事に大事にくちびるへ塗布してやる。色と艶の与えられたくちびるを鏡で確認して、心を無駄に浮付かせてみたりする。それが世に憚る、女のエンターテインメントなのだから。
 …だと云うのに。
 は、意外と弾力のある男のくちびるを受け止めながら、背を強張らせた。執拗に呼吸器官を塞がれ続けているものだから、のくちびるはてんで捻れてしまっているし、あろうことか生ぬるい舌で輪郭をなぞられたりもする。そのたび背筋を駆け抜ける微弱な電流に欲情という簡単な名前を付けてしまいたくなるが、それよりもの思考を占領する事柄がある。

 きのう買ったくちべにを塗ったばかりだった。
 それもかなり値が張る、買うには勇気のいるハイ・ブランドの。

 の心中などつゆ知らず、男――太刀川慶はを壁に縫い付け、長いくちづけの続きをけしかけて来る。口内から引きずり出された舌に蛇のような厭らしさで絡んでくるものだから、の目尻にうるおいが滲んでしまうのも致し方ないことだった。脚のあいだに太刀川のそれがグッと割り込んで、わずかに身を捩ることもできない。
さん、」
 夜、ひっそりとささやくみたいに。再度、弱い音階で名前を呼ばれてしまう。その低い音色はの下腹部に負担をかける。普段は決して意識に上らない女の器官がきゅうと収縮してしまうのだ。そうとしか表現できない、独特の感覚。の体から、みるみるうちに力が抜けていく。それを太刀川が笑って支えてやる。は太刀川の腕に爪を立てながら考える。いったいいつの間に、自分は、彼にすべてを明け渡してしまっていたのだろうか。
 長い長いキスのあいまに、のおとがいをチクリと突っつくものがある。
 太刀川が無駄に放っている顎髭というやつだった。やわっこいくちびると舌が中心となるキスの途中、そういう鋭い刺激を同時に受けていると、なにやら頭の芯がじくじくと熱を持ちはじめてしまうではないか。溜め息を吐きたくてもくちびるは塞がれたままであるから、そんな些細な悪あがきすら許されない歯痒さにまた、胸の奥で叫びをあげる。
 久しぶりに会ったと思えばこれだ。
 何やら太刀川が近界遠征に参加するらしく、きょうまで二週間も会えなかった。は太刀川の抱える背景事情にはさして明るくない。もちろん、近界民がこの世界に侵攻を仕掛けているという、社会情勢の上澄みは理解している。まるで御伽噺のような、けれどあくまでも現実世界の話。ただ、ボーダーなどと云う一防衛機関にはてんで馴染みがないだけだ。そして、自分の口を塞いでいる男が、その機関で大層な位置につく隊員であることは、周囲の野次馬から聞き及んでいる。
 たちは大学で出会った。友人の友人が知り合い同士、と云う切欠にしてはどうも凡庸なものがよすがになり、今こうしてお互いのくちびるをぐしゃぐしゃにするまでの関係に至ったのだから人間関係は面白い。
「く、るしい、って」
「もう少し、」
 さすがに息が切れて太刀川の胸を押してみたのだが、何が「もう少し」なのかがには分からない。既にこんな状態を数分も継続しているのだから、ここらへんで少し落ち着いて話でも交わしたい。というのがまごうことなき本音だった。もう二週間近く顔を合わせていなかったのだ、積もる話も鬱憤も、それからさみしさも、ある。おそらくそれは太刀川にとっても同様で、けれど彼は会話という方法よりも直接の触れ合いに頼りがちなタイプではあったから、こんな風に息を切らしながら互いの唾液の味に安堵を覚えているのも、至って仕方のないことではあるのかもしれないが。
 キスが好き、なのは、女だけが持つ傾向だとは思っていた。
 太刀川はそれを好む。くちびるを合わせる行為というより、の呼吸を奪うこと自体に興奮が生じるみたいだった。立ったままではいよいよ疲れたのか、彼はおあつらえ向きのベッドにを寝かせ、数秒も置かずに覆い被さってくる。逆光であまりよく見えない太刀川の虹彩に何が宿っているのか確かめようとして、は太刀川の瞳をじっと見据えた。誘っていると勘違いされるかと思ったが、反して太刀川はふっと息をもらして少年のおもかげで笑う。そのまま、大きな手のひらが降りてきて、の頬をすっぽりと包み込む。子ども染みた体温としぐさに、ひどい懐かしみを覚えて泣きたくなる。約14日間、総計336時間ぶんの別離。不在中に芽生えたかたまりを融解させるには何よりも肌のぬくもりが有効なんだと、ようやく思い出す。

「久しぶりだな、さん。あのさ、会いたかったよ」
 ここへ来てやっと挨拶が交わされた。は思わず笑ってしまう。
 太刀川のくちびるの周囲には、赤い赤いくちべにの落書きが乱れている。

(14/08/09)