Her rainboots

 彼女について意外だと思えるものごとに遭遇することも、今となっては非常に少なくなっていた。こんなあいだ柄を導いてから月日がどれくらい経過したのか数えてみる。ぎりぎり片手では足りなくなっていて、半年の重みなんてものを諏訪は指先で感じた。
 ぽたぽたという、軽いわけでも重いわけでもない長雨が、三門市を濡らしている。
 煙草が吸いたくて、落ち着かない指先は四角にふくらんだポケットをついつい叩いてしまう。待ち合わせで混み合う駅の改札口はただでさえ人いきれで好きにはなれないのに、雨特有の多湿が重ねがけされることで不快指数はとうとう最高値に達していた。諏訪は無意識のうちに腕時計を確認する。午前十時、三十分。それぞれの目的地を目指してあくせくと行き交うひとびとを、見るともなしに見ている。待ち侘びるなどという感覚は、いつだって諏訪の意識に極彩色を添えた。どうもじぶんらしくない歯痒さが気恥ずかしくもあるけれど、決して悪い気にはならない。もっと簡単に言うならば、いまの諏訪は浮き足立っている。あとわずかで会えるという期待に。
 雑踏のなか――不意に、パステルブルーが混じった。
 諏訪の細い視線はそこで固定されてしまう。数十秒も経たぬうちに改札を軽やかに抜けてきた空色のレインブーツの持ち主は、あいにくの空模様など何のそのといった調子で、
「諏訪! お待たせ。ごめんね」
 と言う。
「もうお前が遅れんのには慣れたっつーの」
 諏訪はと並んで歩き出し、駅を離れる。少し目を離したあいだに雨は止んでいた。けれど、重苦しい灰色の空からはまだ泣き足りないと言わんばかりの雰囲気を感じる。今は休憩しているだけだと思われた。
「雨、止んでるね。せっかく傘持ってきたのに」
 はレインブーツと同じ色合いの傘を持っていた。確か彼女の気に入りの一本だ。子どものころから愛用しているとかで。良く晴れた空の色。
「どうせ、また降るんじゃねえの?」
「そうかも。曇ってるし。ちょっと寒いね」
「だな」
 言いながら、諏訪はの横顔を見た。素朴な顔立ちを薄い化粧だけで飾った彼女はなんだか子どものようにあどけなくて、諏訪の好みとはちょっとベクトルが違う。でも、ナタリー・ポートマンとはまるでかけ離れた顔をしている彼女と、こんなふうな関係に落ち着いてしまったのだから不思議な話だった。そもそもの出会いだって、街角のカフェテラスで諏訪の好きな小説を読むを見初めたとかいう、銀幕に似合うドラマティックな代物でもない。さりげなくも運命的な出会いというやつが、本の中には往々として存在するものだが、諏訪にもにも縁はないようだった。
 長く伸びる歩道のわずかな凹みには水たまりが生まれていて、ふつうならば必ず避けるそこを、は遠慮なく通る。レインブーツに弾かれたしずく。わずかな日光を受けているに過ぎないはずなのに、その水滴はやけにきらりとかがやく。一度は跳ねたものの歩道に戻り損ねた雨水が、諏訪のスニーカーに丸い染みを作った。
「オイ、わざわざ水たまり歩くんじゃねーよ。跳ねんだろ」
「あ、ごめん。気を付ける。水たまり歩くの好きでさ、やめらんなくて」
「ガキか」
「あはは。子どものころからよくやってたから、親にも怒られたなあ。ほら、ちっちゃい子って、よく黄色い長靴履くじゃん。あれ履いて大騒ぎしてた」
 ぴっちぴっちちゃぷちゃぷ、らんらんらん。は実に懐かしい歌を口ずさんだ。ためらいなく水たまりに足を踏み入れていくの横顔を見下ろしながら、諏訪は彼女の幼稚園時代を思い浮かべたりしている。楽し気に駆けるちいさな背、身丈に合わないほど大きい空色の傘がくるくる回って、足許には黄色のレインブーツがまぶしい。そんな少女のすがたが諏訪の脳裏に再生されて、すぐそばのの横顔にダブった。
「……どうしたの、諏訪。そんなにまじまじ私のこと見て。水たまりで遊ぶとか子どもっぽくてかわいい~とか思ってくれた?」
 が揶揄で瞳を細めながらニヤついたので、居心地が悪くなった諏訪は思いっきり目を逸らした。
「うっせーよ」
 と、悪態も添えて。はまだ楽しげな表情を崩さぬまま、次なる水たまりを探している。すぐそばを歩かなければならない諏訪の身にもなって欲しいものだ。の家に着くころ、諏訪のスニーカーはぐっしょりと濡れているかもしれない。でも、雨の日らしからぬ軽快な鼻歌をもらすおんなの楽しみを奪う気にはなれず、煙草を吸うこともできず、ただただ、いたいけな横顔にとらわれている。
「諏訪もレインブーツ買えばいいんだよ」
「どう考えてもダセェだろ」
「ええ、便利なのに、……おっと」
 住宅街の迷路染みた細い道を一台の車が走り抜けようとしていたため、諏訪はの腕を引いて左に寄せてやった。
「ごめん、諏訪」
「前向いて歩けっつの、アホ」
 危なっかしくて、手は繋いだままにしておくことにする。手のひらから伝わるやわらかい体温が、肌寒さを少し軽減した気がして、じぶんらしからぬとは重々承知で、ひとすじの安堵を覚えてしまう。
 間もなく次の水たまりが出現したが、めずらしいことに、はそれを無視して通り過ぎてしまった。浅く広がる水面には少しずつ薄青色が覗き始めた空がきれいに映り込んでいる。今はまだ気まぐれに愚図つくのを止めているだけの天気だが、少しぐらいなら降ったってかまわない。何と言ってもきょうの諏訪は傘を持って来ていないから。打って変わってだんまりを決め込んでいるの、手に握られた空色の傘に一瞥を投げる。この広い世の中、楽しい雨があったって罰は当たらないだろうと、諏訪は思う。

(14/06/30)