genuinely

 ずいぶん長いことヘッドボードに置いたままの小箱をなんとなく手に取ってみたら、もうからっぽになっていた。あれまあ。はうつ伏せのまんま、ひとりごちる。すぐ横で、と同じ体勢で、いつもの煙草をふかしていた諏訪が、訝しげな一瞥を投げてくる。
「なんだよ」
「いや、からっぽだなと思って」
 すっからかんになったコンドームの箱を振るを見て、諏訪はうんとかすんとか唸った。
「あー。買ったのずいぶん前だしな。つか、今度おまえが買ってこいよ」
「それはいいけど、ゴムだけ買うのって何か恥ずかしくない?」
「おまえアレか、苦し紛れに菓子とか一緒にレジ持ってくタイプ」
「うん。無駄にチョコレートとか抱き合わせる」
 が真顔で答えるので、ぶは、と諏訪が噴き出した。変に咽たらしく、げほげほと口唇を押さえている。はその背を撫でてやった。健康的になまめかしい肩甲骨のカーブ。ゆったりと触れながら、見とれてしまう。もういちどだけと言わず、何度でも抱かれたいと思った。
「味付きのとかあるんだっけ」
「げ、そういう趣味あったのかよ」
「どうだろう。試してみてもいいよ」
 が誘うように肘をつき、諏訪はわずかにたじろいだ。それからもう一本、煙草に火をつける。はかすかに笑った。場の気恥ずかしさをごまかす様に四角い箱に手を伸ばす諏訪が、なんだか可愛らしいと思う。寝煙草はあまりよろしくないのだけれど。灰が落ちなければ別にいい。現在は諏訪がひとりで暮らすアパートにいるが、同じくこの付近に借りているの部屋などは諏訪の喫煙を全面的に許していた。その証拠に、ベッド脇のサイドテーブルには硝子の灰皿が置かれてある。やたらと頑丈なもので、映画の中のやくざ者が事務所に置いていたりするやつだ。または、推理小説でひとが誰かを殺すときに使うための。白い煙がの鼻腔を舐める。苦い。
 は気だるい爪先でなまぬるいシーツを蹴った。もぞもぞとベッドから抜け出すと、散らばった衣服を胸の内にかき集めていく。背後で諏訪が深い息を吐き出す気配がして、振り返った。するどい三白眼とまともに視線がぶつかる。諏訪はヘッドボードに背を預け、手許には文庫本をひらいていた。どうあがいても文学青年には思えない見た目をしているくせに、なかなかどうして本を愛するおとこである。
 ぺたぺたとカーペットを歩く。クローゼットに手を伸ばしたところで、はふと諏訪のほうを振り向いた。
「Tシャツってどこだっけ。引き出しだったよね?」
「上から二番目。いい加減覚えろ」
「ひとの家の服の配置まで把握できるわけないじゃん」
 言いながら、クローゼットの床にいくつか積まれた衣装ケースを漁る。諏訪が好きらしいバンドのTシャツを引っ張り出した。は急いで下着だけ身に付けて、その上からTシャツを被る。そのままどぼんと、海にでも飛び込むように、軽く勢いを付けてシングルベッドに沈む。やわらかい布団ごと諏訪の腰に縋ってみると、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられる。長い指がやわらかい髪のあいだを通る、心地良い感触がの眠気をいざなう。まさにまどろみに落ちようとした瞬間、タイミングを計ったように諏訪の手は離れていってしまった。の口唇からは不満がこぼれる。
「もっと撫でて」
「ガキか」
 ぞんざいな言葉とは裏腹に、諏訪の手のひらはふたたびの頭部に戻ってきた。は安寧の息を漏らす。髪の流れを辿るようにして頭のてっぺんから背中までを撫でられる。ほんとうに心地がよかった。上目に諏訪を伺う。彼は、気に入っているらしい海外の推理小説にすっかり読み耽っているようすだった。諏訪の鋭い目に理知的なひかりが宿る読書の時間を、はこよなく愛している。ふたつの眼球は本の活字を淡々と追っているが、文庫を持たないほうの手のひらが、いつまでも髪を撫でてくれていた。徹底的に甘やかされているな、と思う。無駄に。
 そのまま五分くらい撫でられていればすっかり満足して、は諏訪の腰から剥がれてベッドの中にもぐり込んだ。ふたつ並ぶ枕のひとつに頭を沈ませ、ゆっくり瞳を閉じる。耳に届くのは壁掛け時計の秒針が進む音と、それから、諏訪が煙草を吸うときの深い呼吸だけ、になった。ひとの鼓動の音は安心感をもたらす効果があるとむかし何かで耳にしたが、規則正しい呼吸音もそれに含まれるのではないかとは思う。その証拠に、こんなにも胸の内は凪いでいる。おそらくあと数分もしないうちに意識は夢の内側へと溶けていってしまう。その瞬間まで諏訪の呼吸に耳をすませていようと考えていたのに、しかし、急に彼が身をよじった。文庫を閉じるちいさな音がしたかと思うと、そのままのそばに寝転がってくる。は閉じていた目蓋を開けると、諏訪の腕に軽く触れた。
「寝るの? 本は?」
「とっくに読み終わった。つか、何回も読んでるしな」
「ふうん。いま何時だっけ」
 問いを受け、諏訪が部屋の時計を確認した。反らされた喉の男性的な隆起が、の視線を奪う。
「あー……一時になったとこ、か」
「もうそんなんなの」
「はえーな」
「ね」
 眠りにつく少し前に交わす何でもない会話。必然的に身を寄せ合うしかない狭いベッドの中で、はそばの諏訪の手を握った。少し肌が荒れている。ハンドクリームでも塗ってやろうか、と思った。もちろん良い顔はしないのだろうけれど、かといって断固拒否、なんて態度は取らないはず。なんだかんだと軽口を叩きながらも結局のところじぶんに優しいこの男のことが、こよなくいとおしい。指先も、体温も、ふたつはすんなりと馴染んでしまう。違和感なんて挟まる余地がないほどに。
 サイドテーブルの間接照明が落とされ、部屋は夜に染まる。そうしては目を閉じると、一日の終わりに最適なせりふを言った。
「諏訪、おやすみ」

(14/07/13)