Loves me, loves me not.

「こうなることは分かっていたはずよ」
 ものごとを見限るとき、ミラは決まって、冬の冴えた月よりもずっと肌寒い声で断じる。今夜も例に漏れずそうだった。は過不足ない返答を思いつかなかったため、口を真一文字に噤んだまま、頬の曲線を愛撫する風に浸った。夜風がくちびるを乾燥させてしまうから、赤い皮膚は微かにささくれ立っている。冬が近い。鼻腔をくすぐる空気には移りゆく季節のにおいがふんだんに混じっていた。
 冬がもっと距離を詰めれば、あの男が好物とする、髄まで蜜をたくわえた赤い果実が市場にうんと出回るであろう。は市場が好きだ。アフトクラトルにいのちを根ざす老若男女のにぎわい、至る場所から寄せ集められ、競りにかけられる万物の極彩色。人々が謳歌する生がぎっしり詰まった、猥雑な雰囲気が好きだ。市場で大はしゃぎしたあとは、水辺で渇いた喉をうるおそう。熟れた実のように赤い太陽が沈むまでくだらない話を交わして、細い月が昇ったらとろりと熟した酒精に酔おう。それがの愛する生活というものだった。
 けれど最近、そんな日常の中に、どうしようもない翳りが落ちつつある。誰に何を言われずとも、ミラ同様トリガー使いであるは嫌になるほどよく知っていた。
。聞いているの?」
 ミラの声は凛と咲く花に似てうつくしい。いつまでも聞いていたいと願わずにはいられない、芯の通った音だ。けれどは今、ミラが口にする言の葉すべてに背を向けたいと思っている。それゆえ返事をしない。ただ、夜風に溶けている振りを続けるだけ。風のにおいにせつなさを募らせるだけ。今のをもっとも深く抉るナイフは、現実そのものだった。
「貴女の思うエネドラは、もう何処にもいないわ」
 しろがねのナイフがまた一振り落とされる。
 は、ちらとミラを一瞥した。鋭く大きな目が、自分を直線的に見据えている。短く揃えられた髪、額の周囲に埋め込まれた角状の突起――の頭部にあるものとは少々異なる色を帯びたトリガーホーン。つややかでいて妙に冷たい漆黒は、にはついぞ適合しなかった代物だ。せいぜい並の能力を得るのが限度だったに、近々予定されている大規模遠征計画への参加予定などあるはずもなかった。ミラも、そしてあの男も、玄界へ足を運ぶ手筈になっている。ふたりだけではなく、多くのトリガー使いがあらゆる国々へ略奪を仕掛けにゆく。いったい彼らの何割が、アフトクラトルの土を二度と踏むことなく散っていくことだろう。小高い丘の上に聳え立つ塔をまぶしく見上げることもなく、近いようで遠い異国の地で果てる。
 あの男は、帰ってくるのだろうか。
「そんな、悲しいことを言わないで」
 喉奥から、やっとのことで絞り出すような返事がもれたとき、知らず知らずのうちには泣いていた。いったんは知らぬ存ぜぬを突き通そうとした筈なのに、無残な結果だ。熱く透明なしずくがの右頬を伝う。涙は重力に従って落下し、とミラが佇む回廊の床に水たまりをつくった。
「悲しいことではないわ。ほんとうのことよ」
 ミラがをそっと抱き寄せる。ただでさえ華奢な腕の中に、もうひとつ細い腕が納まった。なんて頼りない抱擁なのだろう。でも、そんな脆弱性が、には思いのほかよく馴染む。幼いころから――頭部のトリオン受容体がまだ小指の爪ほどしかなかったころから、情けない感情を露呈させるたび世話になってきたミラのぬくもり。思わず縋り付いてしまう。ほんとうにしがみ付きたい相手は他にいるのにもかかわらず。
「ミラ。私、真実が怖い。もうずっとエネドラの顔を見れていないの。目を合わせるのが怖いのよ。左目の濁りが濃度を増していたらどうしようって、そんな不安ばかりが増えていく。怖くて怖くてたまらない」
 ミラの体温はの喉奥からたくさんの本音を引きずり出した。は瞳に涙の膜を作ったまま、ミラを見上げる。
「私は、ただ、」
 ミラの視界にあるの双眸には、まあるい満月がぽっかりと浮かんでいた。季節が月の輝きを際立たせている。ミラがこうして間近での泣き顔に相対するのはいったい何度目になるだろう。総数なんてすっかり忘れてしまった。けれど今宵の涙は、どうやらもっともさみしげで必死な色をしているようだ、とミラは客観的な判断をひとつ下す。ありふれたなぐさめのせりふを発する訳でもなく、ミラはただ友人を抱きしめる腕にちからを籠めた。かわいそうな子。そう、胸の内だけでつぶやいて。
 何かを言い淀んでいたは、言葉の続きを告げることもなく、俯いてしまった。そのままミラの胸の内で短い嗚咽を洩らす。の涙は止まらない。今まで堰き止めていた不安に確かなかたちが与えられてしまったせいだ。ミラの肩口に頬をすり寄せながら苦悶に眉を寄せる。身を引き裂かれるかのようなくるしみが体の髄を穿つ。
 細く開いた瞳で、遠いかなたにまぼろしを見る。おさない子らがふたり連れ立って花畑を歩いていた。エネドラと。ふたり、まだ、いとけないままでいられた当時の記憶。が持つ、もっとも鮮やかな幸福が息づいている記憶。あらゆる色が存在したあの花畑には、花と同様たくさんの木々が根を張っていて、疲れを知らずに駆けまわるふたりに心地よい木陰を与えてくれたものだ。が最も印象深く覚えている一本は、華やぐ季節になるとまるで雪のような花弁をほころばせるそれ。あの男とふたり、飽きるまで眺めていたはずの花。もう一度あの花を目にしたかった。可能ならば、あの男のそばで。
 は自嘲を帯びた笑みを口端に浮かべると、そっとミラの腕を離れた。回廊に静寂が帰ってくる。
「私はただ、幸福であり続けたかった」
 あの花畑はずいぶん前に戦場となり、今ではもう土くれの山と化してしまった。叶わない願いごとを唱えるのは趣味ではない。思い出の中のあの木が伸ばす枯れ枝に白い花が咲き誇るころ、未来はいったいどんな色をして、この国を包み込むのだろう。いずれにせよ、はもう、手にしていた赤い果実を放棄したも同然だ。回廊を駆け抜けていくの耳許で誰かが優しくささやいた。あきらめなさい。永遠も幸せも、ふたりにとっては望むべくもない対岸の花畑なのだから。

(14/09/20)