Curiosity's Witness

 ふとした気まぐれと偶然が、のちのちの自分に巨大なわざわいを贈ることがある。
 その放課後、出水公平は校舎を速足で駆けていた。何のことはない。先ほどまで六限が行われていた音楽室に忘れ物をしたのだ。悲しいかな、手許にペンケースがないことに気付いたのは帰り支度をはじめたタイミングだった。授業はすべて終了しているからここまで急ぐ必要もない、のだが、これからボーダーの防衛任務が入っている。ふだんは遅刻魔のくせに任務となると無駄に時間を守る隊長の小言を回避すべく、出水は走った。晩夏とはいえ暑さが厳しい季節。ただでさえ音楽室は遠い。特別校舎の三階まで一気に駆け上がったせいで、息がひどく荒れていた。踊り場で膝に手をついて、ぜえぜえと呼吸をととのえる。白シャツを着た背中に汗が伝う。
 がらんどうの音楽室には傾きつつある陽がジリジリと差し込んでいた。西日が注ぐ窓際席まで歩み寄り、机を覗き込む。奥にはシンプルな布のペンケースがひっそりと隠れていた。ホッと胸を撫で下ろしてそれを掴む。一刻も早く本部基地へ向かわなければならない。出水が腰を上げる。
 ふいに、窓の向こうが目についた。
 ここからは校舎裏が見下ろせる。そこに、男女と思しきふたりの影が過ぎったのだ。思わず視線が止まってしまった。
 ――あー。マジであるんだな、こういうお約束。
 特別教室ばかりを納めた別棟は放課後を迎えるとすっかり閑散としてしまうから、その校舎裏はひそかに人気のスポットなのである。そう、男女の告白に。
 頭の隅に下賤な野次馬思考があったことは認める。出水は好奇心を抑え切れず、しばし狭い中庭を眺めた。見ず知らずのふたりはいくつか会話を交わしているようだ。半分だけ開けた窓からは、「え、えーと。こんにちは。呼び出してごめんなさい」。そんな間抜けな挨拶が聞こえてくる。男子生徒のテンパり具合から察するに、告白しているのは彼サイドらしい。対する女生徒は――俯きがちであるからあまり表情がわからない。が、彼女がちいさく何かを言うと、みるみるうちに男子生徒の表情が曇っていく。そして数十秒も経たぬうちに、彼は打ちひしがれたようすで中庭を走り去った。
 ――うわ。フラれる現場、見ちまったじゃん。
 あくまで他人事ながら、けれど出水の眉根には浅い皺が寄る。あまりいい気分にはならない。頭を切り替え、さっさと踵を返そうとした、そのとき。
 件の女生徒が透明な目でこちらを見上げていることに、気が付いた。


 結果として、その日の防衛任務にはみごとに遅刻した。
 他人のそういう現場を覗いてしまったことに罰の悪い思いがして、出水は逃げるようにして本部へ向かった。隊長の太刀川にチクチク棘を刺されるわ、米屋に申し込まれたランク戦では負けるわで、散々な目に遭う。まったく運が悪い。ちょっとした出来心の結果がこれだ。いつかまたおんなじ現場に遭遇してしまっても、今度はきちんと目を逸らそうと決意する。
 翌日の放課後も、出水はいつも通り教室を出た。昇降口までの途中、必然的に中庭の前を通る。一瞬、きのうのことを思い出して、そしてすぐに忘れた。きょうは防衛任務がないから、まっすぐ家に帰る。まだ続く暑さを一時的でも忘れたい。自動販売機で飲み物でも買おう。出水はそう思いつつ、下駄箱でスニーカーに履き替えた。普段なら米屋も伴って学校を出るのが常だが、あいにく用事があるらしい。そのおかげか、きょうの出水が辿る帰路はずいぶん静かなものになりそうだった。
 外は相変わらず暑い。平らに敷かれたアスファルトが昼間の熱をうんと吸収していて、歩いているだけで頭がぐらつきそうだ。蝉が短い命を謳歌しているのですら耳障りだった。
 昇降口を出てすぐの角に、でかでかとした自動販売機がふたつ並んでいる。出水はスクールバッグのジッパーを開いた。財布から小銭を出す。
「あ、」
 手許が狂って、五円玉がころころとアスファルトを転がっていってしまう。ちいさく舌打ちをした。身を屈ませ、五円玉のゆくえを探す。すると、まるい硬貨をつまむ、誰かの手があった。
「はい、どうぞ」
 生温い風が通り抜ける。顔を上げた出水の前に、女生徒が立っていた。涼しげなセーラーを纏った彼女は出水に五円玉を差し出していた。拾ってくれたのだろう。なんというタイミング。
「あー……どうも」
 目を丸くした出水の口からは、妙に歯切れの悪い返事しか出て来ない。少女のかんばせには見覚えがあった。セーラーのスカーフの色から、一学年上の人物だとわかる。けれど、ボーダー関係者ではなさそうだ。ならばなぜ既視感があるのか。思考してみても答えが導けない。出水は大人しく少女の手から五円玉を受け取った。
 ふたりが立つアスファルトの熱がじりじりと肌を焼いていく。出水の前に佇んだままの少女が、どこか淡泊そうな、根幹を捉えにくい瞳で、言った。
「きみ、きのう、見てた人だよね」
 はっとする。
 デジャヴの理由を教えてくれたのは、他でもない女生徒本人であった。そうか。きのう、中庭にいた彼女だったのだ。男子生徒からの慕情をすげなく断っていた、白い横顔。確かにこちらを見上げていた瞳の底。合点がいった。
「あ、れは別に……偶然出くわしただけで」
 何と答えれば正しいのか、わからなかった。ただ居心地が悪くなり、出水は目を逸らした。出水より背の低い女生徒は、ふっと口端をほころばせる。
「きみ、髪の色が明るくて目立つから、覗きには向かないよ。次からは、見ないでね」
 名も知らぬ彼女はそう言って、何の余韻もなく踵を返した。呆気に取られる出水を残し、その細い背中は意外にも早いスピードで遠ざかっていく。
 アツイだけの風が吹き抜けていった。
「……なんなんだ、ありゃ」
 つぶやく声から棘が抜けている。まるで幽霊にでも出くわしたような余韻。今や女生徒のすがたはすっかり出水の視界からはけていた。嵐が通り過ぎ、ふたたび静寂が戻ってくる。しばしぽかんと呆けた。
 ――次からは、見ないでね。
 彼女の捨て台詞をリピート再生した、その瞬間。出水は飲み物を買うことも忘れ、スニーカーの爪先を蹴って駆け出していた。次なんて偶然を待ちわびるくらいなら、いっそ、今すぐにそれを掴んでみたい。急激な衝動で息が切れる。出水が一心に走り抜けていくアスファルトの上で、かげろうがゆらゆらと揺れ動いていた。
 果たして視界のむこうには。

(14/01/01)