Perfect Winter

 手探りで取り出した金属のカギを、鍵穴に差し込む。築浅にもかかわらずドアノブにガタが来ているので、開けるには少しのコツが必要だった。施錠された状態でドアノブを握り、手前に引くようにしつつ鍵を差し込んで、ゆっくりと回すのだ。
さーん、早く。おれ、凍えて死んじゃいそう」
 背後から、真剣さの欠けた陽気な声で急かされる。だって何も焦らすつもりじゃない。かじかんだ手は、いつも通りの動作でも時間を要してしまう。やっとの思いでドアを開け、鈍い金属音と共に自宅へ足を踏み入れる。
 がブーツを脱ぎ、部屋に入ってから、犬飼は青いスニーカーの紐をゆるめた。ふたりの靴で面積の殆どが埋まってしまったワンルーム・マンションの玄関は、男子高校生の大きいスニーカーに驚いてでもいるようだ。
 さすがに外よりは幾分もマシだが、室内は寒い。はエアコンの電源を入れて、洗面所で手洗いとうがいを済ませる。人ひとりが佇むので精一杯のスペースで、天を仰ぎ、幼稚園児のようにがらがらと喉を鳴らす。すると、間延びした犬飼の声が聞こえてきた。
「寒いな。お湯沸かしますよー」
 うがい中に返事など出来ない。この家での犬飼の行動を制限するつもりもないので、好きにしたらいい、と思いながら口内の水をシンクに吐き出すと、背中越しに人の気配が近付く。
さん。早く構ってくれない?」
 ハンガーに下げたタオルで口許を拭いながら、腹に回った犬飼の手を撫でてやる。右肩にあたたかい顎が乗り、ぐりぐりとマッサージのように刺激された。それぐらいで肩こりは解消しない。やわらかそうな犬飼の髪がゆらゆら揺れているのが視界の隅に見えて、本当の犬だな、とひとり思う。
「澄晴が、手洗いうがい終わったら、いいよ。直ぐにでも」
「安い要求だなー」
 言って、犬飼はの腹に回していた腕をするりと解き、勢いよく袖を捲った。冷水に声を上げながら、の要求通りの行為をこなす姿は、素直でたいへん可愛らしい。彼は制服のブレザーを着ていた。卒業まであと一ヶ月もない。最初見たときこそ、あまり似合わないなと思ったその年相応の格好を、きちんと脳裏に焼き付けておこう。それでなくとも、スーツなどと云う大人の特権である隊服を纏っている印象が強すぎて、はときどき彼の年齢を忘れてしまう。
 キッチンでは、先ほど犬飼がスイッチを入れた電気ケトルが一心不乱に熱を上げていた。数十秒もすると湯が沸いたので、ふたり分の緑茶をマグカップに用意する。ローテーブルの前に腰を下ろせば、気の抜けた身体から間の抜けたあくびが漏れた。他人のうがい音がバックグラウンドに流れている。ひとり暮らしをして長い身には、自宅内における他人の存在感がくすぐったくてしょうがない。夕刻を差す腕時計を外していると、妙に楽しそうな顔の犬飼が居間に戻ってくる。
 彼はの隣に腰を下ろすと、褒美を待つ犬の様相で薄い口唇をひらく。
「終わりました」
 言いながら、彼はの髪を一房掴んで、ゆらゆらと振り始めた。父親の肩に乗った子どもなども、そんな児戯に興じるなと、はわずかに、口端を上げる。犬飼の服に触れ、まずはブレザーを剥いでやった。犬飼は何も言わず、「にこにこ」を崩さない。少しだらしなく緩められた学校指定のネクタイに、人差し指をかけて一度に解く。ただの長い細布と化したネクタイを脇に放ると、相も変わらず愉快そうな犬飼と視線が合った。彼は口唇を開き、ぽつりと言う。
「楽しそうな顔しちゃって」
 そうかな。ぽつりと答えれば、そうですよ、とオウムが返す。確かに、こうしたかったのは何も犬飼だけじゃない。だって、彼と待ち合わせたときから、夕方の延長線上にある密室の時間を求めていた。本部の北階段は寒すぎて使う人間がめっぽう少ないから、踊り場なんてのはひみつの待ち合わせにちょうどいい。防衛任務終わりのがいつもの踊り場に駆けたとき、犬階は白いマフラーに顎を埋めて携帯端末をいじっていた。
 何か別のものごとに集中している犬飼が、の存在に気付き、顔を上げた瞬間に見せる、その、花の綻びにも似た表情の変化が、ほんとうに好きだった。
「確かに、なんだかものすごく、澄晴としたかった。何でだろう。あんなに寒かったのに、体が熱い気がする」
「そういうの、昂ぶってるって言うんでしょ。防衛任務とかランク戦の後、トリオン体の換装解くと、おれは割といつもそうなるけど」
 シャツの上から鎖骨に手を這わすと、あたたかい人間の体温が伝わってきた。温もりを求めてさまようその手に、陰影の深い男の手が重なる。
「おれにもやらせて」
「どうぞ」
 打って変わって脱がされるほうにロールチェンジしたは、犬飼の手の動きをずっと眺めていた。細長い、しかし関節のぶぶんだけが薄っすらと浮き上がる、10本の指。温度はさすがに冷えている。でも、触れ合う吐息が既にこんなにも熱を持っていた。
 犬飼は妙に底意地の悪い表情をした。そうして、さっきが放り出したネクタイを引っ掴むと、あっという間にの両腕を軽く縛り上げてしまった。
「うわ、何」
「そういう気分なんだよね。あれ、痛い? 加減はしたつもりなんですけど」
「痛くはないよ。平気」
「なら、いい?」
 正直なところ、やぶさかではなかった。何も言わず、瞳を閉じる。息だけの笑いがこぼれた気配がする。
 結局、そういう気分の犬飼に付き合うことにして、はゆっくりと深呼吸をした。

(15/03/10)