砂糖だけを食うのはもう止めにしないか

 秘密って、どうしてこうもひとに話したくなるんだろう。
「これは秘密なんだけど」そんな前置きでスタートする、うわさばなし。いわく、いつだったか行方知れずになった有名商家の子どもはまだ生きているらしい。またいわく、あの家の奥さんは良いところのお坊ちゃんと泥沼の不倫関係にあるらしい。大抵のうわさばなしは語尾に「らしい」をくっ付け、最も大事なはずである真実味のありかなど何処かに置き忘れてきている。秘密というやつは伝聞されるうちに尾ひれ葉ひれの装飾を施されるのが常で、こんな場末の酒場で話題にされるころには、平然として真実と真逆のすがたをしていたりする。手の施しようがないほどに下賤で、安価な娯楽に満ちている、何の変哲もない、いつも通りのうわさ。
 安さだけが売りの酒場にたむろするひとびとの話をぼんやりと聞きながら、私は本日何杯目か知れないワインを呷る。同席の友人はすっかり潰れてしまい、諸所がささくれ立った木のテーブルに突っ伏して夢を見ている。私はまだ兵舎に帰る気になれず、無駄に酒精を摂取している体たらくだ。いくら安くてもタダではないのに、早く自室で眠りについてしまえばいいのに、ぐだぐだと酔いの来訪を待っている。
 猥雑なにぎわいが澱よろしく沈殿する酒場では、このテーブルだけが浮き彫りにされたみたいに静かだ。現実離れしている。私は会話相手の不在をいい理由に、客たちが繰り広げるうわさばなしに延々と耳をすませていた。安酒が爪先まで回った人間ほど会話が尽きない者もいないだろう。暇潰し、もとい酒の肴にはベストだった。
 ふと、テーブルに細い影が差す。
 漫然と飲み続けていたために、そばに近付いて来た男の存在に気付くのが遅れた。そのひとは勝手に空席へ座り、店員に一杯のワインを頼んだ。筋の浮いた繊細な指先。何度目か知れない予定調和の到来。
、またここに?」
 私は杯にくちびるを付けたまま、ちいさく頷く。彼、ナナバは感情が読み取りにくい瞳をゆるめて苦笑する(彼はよくこんなふうに笑う)と、隣席で健やかな寝息を立てている我が友人を視線で示す。
「シエラ、寝てるじゃないか」
「もう、一時間ぐらいはこんな感じ」
「きみはシエラを背負った状態で兵舎に戻るつもり?」
「そうはならないよ。だって、ナナバが来てくれた訳だし」
 含み笑いで答えると、ナナバは肩を竦めてみせた。彼は大柄な中年店主が運んできたワインをひとくち含んで、うん、などとうなずいている。何が「うん」なのかは一向に分からないものの、ナナバのそんなしぐさを愛おしく思った。彼のやわらかい気質が顕著に表れている気がして、胸の奥にぬくもりが灯る。
 私は杯を手放した。ナナバはまだ来たばかりだけど、勝手ながら宴をおしまいにさせていただく。ナナバは大して文句も言わず、じゃあ帰ろうか、と出口を指差した。外気が火照った頬の奥まで冷たく染み込んでいく。寝入ったシエラを軽々と背負うナナバとふたり、歩調を合わせて道を進む。転ぶと指摘されると分かっていて、私は思いっきり上を向いて夜空を見つめた。きぃんと澄み渡った空気、群青のじゅうたんを敷き詰めた空、パン屑みたいな星がまたたきを繰り返し、夜をさりげなく彩る。
「転ぶよ」
「うん、でも、星が綺麗だから」
「寒いからね。いつもよりよく見える」
 まばらな会話でも、居心地はいい。しばらくして兵舎に帰り付く。時間が時間だからか、明かりが灯された部屋はわずかだった。なるべく物音を立てないようにシエラの自室まで向かう。狭いベッドにシエラを寝かせてやったあと、私とナナバはしんと静まった真夜中の廊下にて、次はふたりで飲もうか、などと些細な約束を結んだ。たぶん来週がいいかな、と何の気なしにナナバが提案し、私はただ了承するに留まった。部屋に戻る道すがら、明後日に控えた壁外遠征を乗り越えなければと思う。来週を手に入れるためには、それが必要不可欠だった。



 次の壁外遠征でシエラが死んだ。つい先日、私のすぐ隣でワインをちびちびと舐めていた友人だ。彼女の横顔を思い出す。きれいなひとだった。とても。女性的な甘い顔立ちと大らかな性格の両方を持ち合わせていて、彼女に思いを寄せる相手は途切れることがなかった。彼女に関するものごとは、すべて過去形になっていた。
 この世の善の領域がよく似合うシエラがどういう経緯を経て調査兵団といういばらみちを選んだのか、理由は知らない。それはきっと彼女だけが抱える秘密だった。彼女は秘密をじぶんの内側のみに留めていることができる、稀有で無垢なひとだった。でも、そんなシエラがしたたかに酔ったあの夜にぽつりと漏らしたことばを、私はどうしても忘れることができずにいる。
 わたし、子どもができたかもしれない。
 嬉し気に、それでもやはり確かな動揺の色を隠し切れない瞳で、シエラはつぶやいた。私は深い追及を避けた。シエラもひとりのおんななのだから、当然有り得る話だ。私が何か発言したところで最終的な結論を出すのは彼女でしかないから、ただ、私は彼女がワインを飲むすがたを見守っていた。それしか出来なかった。そして彼女の死地は巨人の胃となった。代えの団服と、少しばかりの私物と、不意に一度だけ開かれた秘密の後味だけを残して。
 あの夜と同じ酒場に私は来ている。薄汚れた隅のテーブル席、猥雑なにぎわい、うわさばなしの数々。壁内の日常はさして変化せず、諦観に慣れ切った風体の客たちから語られるのは愚痴かうわさの二択でしかない。私以外の誰も、シエラの死など知らないだろう。それがありがたかった。
 壁内に帰還してすぐ、兵舎近くにある見晴らしのいい丘で死者の弔いを終えたあと、私と班長のふたりはシエラの生家を訪ねた。上官が死者の近親の許へ報告に伺うのは兵団の決まりごとで、私は無理を言ってそれに同行させてもらった。
 罅割れた煉瓦屋根のちいさな家に、もっとちいさな女性が住んでいた。シエラの面影を感じる、老いてなおきれいなひとだった。彼女は班長が差し出した団章を枯れ木みたいな手のひらで受け取り、気丈にも礼を言って頭を下げた。溢れたしずくが地面に滲みを作ったのを、覚えている。
 ――シエラは母親の愛情を一身に浴びていた。

 いつの間にか、そばにナナバが来ている。
彼はお約束通り私の対面に腰を下ろし、懲りもせず安ワインを頼み、黙々と飲み始めた。このひとはいつだって何の違和感もなく私の世界へと足を踏み入れる。不遜も無理もない。私にすんなりと馴染む他人、それがナナバだった。
 兵舎からいちばん近いこの酒場で、私は入団したころから頻繁に仲間と飲み明かしている。ある種の不文律だった。最初は姦しい五人だったのがいつの間にか四人に変わり、三人を経てふたりまで減り、そして今、遂にひとりぼっちだ。
 現実はそういうものだと身に沁みて理解をしていても、受け止めるまでには相応の時間を必要とする。そんなときは、頭の髄が揺らぐほど酔ってしまいたい。理性が覚束なくなったころ、大抵はこうしてふらりと訪れたナナバが相席に甘んじてくれるから、心配はない。彼とは気心知れた長い付き合いだ。
 おそらく彼に対してこんな印象を抱いている団員は多い――彼は、他人と置くべき距離感を適確に捉えることができるひと。いっしょにいて苦にならない。私は彼に少なからずの好意を抱いてはいるけれど、こいびとを作るのはひどく怖いので、そんな甘ったるい口約束は結んでいない。こうしてそばにいると懐かしさを覚える人間は、今ではもう、貴重な存在になってしまった。
 いつの間にか杯が空になり、私の視界がわずかに潤んだ。所在なさげにテーブル上へ置いていた左手を、よく馴染む体温が包み込む。私より長い指が、動かずしてなお心地いい愛撫をくれる。
 内に抱えたままの秘密は、私が死んだとき、共に滅び果てる。何故だか急にそれがとても恐ろしいことのように思えた。誰かに知っていて欲しい秘密、そんなものもきっとこの世にはある。だからシエラは急にあんなことを口走ったのではないのか? 例え行き過ぎた酒がきっかけで口が緩んだだけだったとしても、じぶんだけに閉じ込めておくのはあまりに辛く、ことばというかたちを与えずにはいられなかったのではないのだろうか。いまとなってはもう想像にしか過ぎない妄想が思考回路を流れてゆき、ずきずきと疼痛が始まる。
 ナナバの指先をゆっくりと握り締めると、彼はしっとりとした肌で答えてくれた。こんな酒場の隅で手のひらを絡め合い、伝播する慈しみに救われている。視界はますます滲んだ。あともう一度まばたきをしたのなら、この水はしずくとして落下してしまうに違いない。
「……ナナバ」
 ぽたり、とテーブルにまあるい染みができる。
「何?」彼の目が私を見ていた。
「今から……うわさばなし、してもいい?」
「あぁ」
 かすかに震える指先に、ナナバの温度が傷薬よろしく染み込んでくる。
 私は、深く息を吸い込んだ。

 むかし、内地のとある裕福な商家にひとりの娘がいたんだって。
 その子は両親にとても愛されて育った。衣食住、何の不自由もなく成長した。当然、長じると縁談のはなしが余所から舞い込んだ。娘は両親が選ぶ相手と将来を過ごすことに何の疑問も抱かなかった。そうすれば両親が喜んでくれると知っていたから。特に母親には、言うことを聞いたときにだけ見せてくれる、とっておきのきれいなほほえみがあった。娘はそれを見たい一心で、とある王族関係者の長男と縁を結んだ。母親は満面の笑顔で娘を新天地へと送り出したの。
 でも、二年経ってもそのふたりのあいだには子どもが生まれなかった。娘はさすがにおかしいと疑いを持ち、都でも有名な闇医者の許をひっそりと訪れた。
 結果、一生子どもには恵まれないであろう、と診断された。
 当然持っていると信じていたものの欠落に愕然とした娘は、苦悩の末、優しい優しい母親にだけ、その秘密を打ち明けることにした。母親なら理解してくれると思ったんだろうね。いつだってあたたかく抱き留めてくれた母なら、欠けて膿んだじぶんでさえも受け入れてくれると。
 けれど、母親のみならず父親まで、手のひらを返したように冷徹になった。そのうえ秘密がどこかから漏れて、娘は嫁ぎ先に破談されてしまうの。娘は実家へと送り返されたけれど、そこには既に彼女の居場所なんてなかった。
 冷え切った人間と化した母親は、間を置かずして、娘と縁を切った。
 あなたの価値はもうないわ、そんな文句を残して。
 路頭に迷うことになった娘は、失意のうちに何とか生きていく術を探し当てようとするのだけれど、今まで当然の摂理のように満たされてきた食が、この世界ではどれほどありがたいものかということをようやく知った。飢えに苦しみ、痩せ衰えていく肉体を見兼ねて、縋る思いで訓練兵に出願した。訓練兵になればとりあえず毎日食べ物にありつけるから、それ以外の方法は思いつかなかったんだろうね。
 そして娘は、無価値なるじぶんから脱すべく、いつの間にか、調査兵団の翼としていのちを終えることを望んだ。何かのために死ねるなら、それはきっと高貴に違いない、そんな馬鹿げたきれいごとを信じ切ってしまったの。
 娘が今どうしているのかは、もう誰にも分からないんだって。
 でも、きっとそれで、いいんだよね。

 語り終えると、喉が乾いて粘膜が張り付きそうになっていた。半ば流し込むようにして残りのワインを飲む。涙は止まっていた。遂に言ってしまったという妙な高揚と、されど拭い去るには至らない不安が胸の内に面積を広げて――でも、その上にはやけに清々しいきもちが浮いていた。それでもナナバの瞳を見ることができない。手のひらを介して伝わってくる安らかな温度とかすかな脈音だけを、感じている。
「そうなんだ。じゃあそれは、私ときみだけの【うわさばなし】にしようか」
 すっ、と澱を払拭するような声音が答えた。私はゆっくりと視線を転じると、こんなときでも相変わらず読めない表情を保っているナナバを見つめた。綿みたいにやわらかな金色の髪の許に、青の瞳が並んでいる。いつものナナバだった。
 きっと、私はまるで神にでも縋るかのような瞳をしているに違いないのに、
「何、そんな驚いた顔をして」
 ナナバは笑い混じりにそんなことを言ってみせる。
 そうして、杯に半分ほど残っていたワインをきれいな動作で飲み干す。それっきりもうくちびるを開かない。私はまず安堵して――次にどこか拍子抜けしたきぶんに陥った。子どもだましでもあるかのように「これはうわさばなしだ」だなんて前置きをしてしまったことを、今さらのように恥じる。「うわさばなし」の核をきちんと了解した上で、さっきのようなせりふを自然に口にできるナナバの、人となりと優しさに感謝を抱く。もちろん、言葉だけの優しさなど誰にでも纏える。しかしナナバはその限りではないという確信があった。信頼があった。私の秘密の共有者となってくれた生まれて初めてのひと。知った上で知らないふりをしてくれるひと。私の痛みと弱さを、最適な方法で受容してくれるひと。
 私が今まで目を背け続けてきた日々と事実。何だってそう、きちんと向き合うよりも、知らぬ存ぜぬを突き通して逃避したほうが易しい。知らないふりって、どこか甘い。ひとを駄目にする甘さだ。
 私の胸に巣食っていた過去というわだかまりは、いざ外に放り出してみると、案外簡単に消え去ってしまった。後にはシエラへの懐かしさだけが残る。親に愛され、いのちを授かったひと――私とはきっと真逆の、大事な友人との別離。彼女の死を乗り越えるのではなく、彼女の記憶とこれからも生きていくという決意を新たに結ぶ。じぶんの選んだ道筋に迷いを産まないためにも、いつか空を飛ぶ羽根を汚さないためにも。
 ――ナナバのやわらかな瞳に、またひとつ借りを作ってしまったな。
「うん。私たちだけの、【うわさばなし】だね」
 私は笑みと涙が半分ずつ混ざった表情を浮かべながら、次のワインを頼む。ひとのうわさばなしばかりが溢れるこの酒場で。
 今夜生まれた、ふたりの人間だけできちんと完結できる「秘密」を、からだの奥底に閉じ込める。

(13/11/04)