Vividly Breath

 いつか、どこかで、耳にした。
 他人は自分を映す鏡だという。
 そうだとしたら、いま、の右向かいに座す男が顔に貼り付けている仏頂面も、あるいはという可視光線が反射した鏡像に過ぎないのだろうか。それを思うと、はほころぶような笑みをこぼさずにはいられない。それが男を更に刺激するのだと承知した上で、やたらと赤くて薄っぺらいくちびるに指を当て、ふふ、と喉奥から小さな声まで出し……どうしたって、笑ってしまう。そう、自分たちは鏡だ。ひとすじの疑いもなく、まぎれもなく。いっそ鋭さまで帯びた、徹底的に研磨された鏡に相違ない。
「おい」案の定、の言動は男――リヴァイの不興を買った。「何笑ってる」
「何でもないよ。私が変なのはいつものことでしょう、気にしないでくれると助かる」
 読みかけの本に栞を挟んでから、はリヴァイに向き直る。余裕あるゆっくりとした動作で、それが彼女のやわらかい気質をこの上なく表現していた。は白シャツと黒スラックスだけの格好で、普段はひとつに結って右に流しただけの髪をほどいており、だいぶ肩のちからを抜いた雰囲気をまとっている。リヴァイは相変わらず潔癖なまでに清潔な団服姿だった。ジャケットと装備はさすがに外している。常日頃からすればずっとラフなすがただろう。
 燭台の火が落ち着きなく揺れている。その動きに合わせ、ふたりの影も大小と位置を変化させた。は窓から覗く青い三日月を数秒見つめたあとで、もう何年目の付き合いになるかしれない男へと言葉をかける。
「久しぶりに会ったっていうのに、相変わらずリヴァイはこの世の憂鬱をぜんぶ背負ったみたいな顔してる」
「腐った魚みたいな面構えでよく言ったもんだ」
「どうせならもっとましな例えを使って欲しいけど」
 ……つまり、誇れるような容貌などあいにくお互い持ち合わせていない、ということなのだろう。 
 が最後にこうしてリヴァイと顔を突き合わせたのは実に二週間前までさかのぼる。兵士長を務めるリヴァイはもちろん、とて暇ではない。調査兵団の一員として任務に身を入れる夜もあれば、怠惰な会議に足を運ぶ昼もあり、巨人をあやめることだって、ある。当然ながら、巨人の手に捻り潰されそうになることだって、幾度となく。おぞましいことに、それこそがここで繰り返される日常のすべてだ。
 ふつう、人々が暮らす日々というものは繰り返されるうちに平坦化かつ習慣化し、徐々に新鮮性が希薄になっていくものだ。けれど、恐怖という種類の感情はその通則の埒外に位置している。やっかいなことに、恐怖とは――味わうごとに濃厚さを増していくばかりで、慣れはおろか、重ねてきたはずの経験値すら役に立たないと来ている。恐れがもたらす圧倒的な鮮烈さは論理的であるべき脳内をあっという間に白く染め変えてしまう。頭が真っ白になるとはまさにこの状況を示す。それどころかたちはそんな絶望的状況下で生死の境を決める判断を下さなくてはならない。何もかもを考えられなくなる一瞬、けれど選択をしなければ次の瞬間すらやって来ない。絶対的搾取者に対する底なしの畏怖を両足に注ぐ力へとどうにか変換し、そうしてこの世界の兵士は生き長らえている。

 ただただお互いのあいだに横たわる沈黙の色は深夜の群青。壁かけ時計の針が深夜一時を穿つ。兵舎備え付けの娯楽・休憩室、ふたり以外には誰のすがたもない。何がしかの理由で昂ぶった神経がうまく眠りを掴めないとき、はこうして此処で読書に耽り夜を流すのだが、そんなときに限ってリヴァイと鉢合わせてしまう。示し合わせた訳でもない。けれど、眠れぬ夜は同時にふたりぶんやってくる。不可思議な偶然だ。まあこれもひとつの縁、長らく続く腐れ縁のあらわれだと――はこんな夜の訪れを気軽な心地で受け止めている。対するリヴァイがどんな思惑にあるのかは皆目見当も付かないが、なにせ気難しい男だ。嫌なら嫌で当の昔に退室しているはずなので、そうでないところを見る限り、どうやら嫌悪感はないらしい。そんな些細な事実でさえもいちいち微温湯のような優しさを纏い、安寧を誘う。
 は視線をふらりと流し、リヴァイの横顔をうかがった。月光をたっぷりと吸い込んだ黒髪の隙間からは鋭利な瞳が確認できる。一瞥しただけで他生物の生命を薙ぎ払えそうなほどの眼光。不遜極まりない態度で足を組み、テーブルに肘までついてコーヒーカップに口を付けている。そのくせ品を落とさず、それどころか一種の優雅さすら漂わせるのだから稀有な男だ。柄の悪い貴族、それがのリヴァイ観である。
 三白眼の集中は窓硝子の外側に向かい、いったい何を注視しているのかまでは判断できない。ただ、もその先を見つめてみようとは思わなかった。自分もまたテーブルに肘をつき、組んで重ねた腕に項垂れかかって顎先を埋める。ふてくされたふうに、リヴァイの手にあるカップを睨んだ。
「それコーヒーだよね? ちょうだい」
「バカ言え」
 リヴァイは一瞥をくれたかと思うと、短く吐き捨てた。は深々とした息をもらす。
「喉の渇きを訴える女の人に施しを与えるのを渋るほど狭量な男だったなんて知らなかった」
「この部屋のいったいどこに女がいる」
 返ってきた悪態がの口許に苦笑を作る。そんなものを飲むから余計眠れなくなるんだというお小言は喉に押し留めておこう。リヴァイはふたたび口を噤み、おそらく苦いのであろう液体でくちびるを潤していた。彼の着ている白シャツに寄った皺のすきまには夜の闇が澱のように溜まっている。そしてそれはも同様。日頃から着倒しているシャツの皺に、深夜のゆううつが沈み込んで残滓と化す。その滓の内で何かよくないものがうごめいた気がして――瞬間、は逃げるように立ち上がった。ガタンと椅子が音を立てた。目を開けたまま見る悪夢なんて狂気以外の何物でもない。唐突に腰を上げたせいか、リヴァイの訝しげな視線がこちらに注がれている。は弁明代わりに肩を竦めて見せ、部屋の隅にあるポットで紅茶を淹れた。質もへったくれもない安価なものだが、ないよりは断然いい。むしろこの安っぽさがあってこそ。ろくでもない体に大したことのない飲料を注ぎ込み、という人間を頑丈に作り上げてくれる気がする。
 しばらくは、こぽこぽ、と液体が注がれるあたたかな音だけが響く。
 テーブルに置かれたマグカップから白い湯気が立ち上る。はふたたび腰を落ち着けると、さっそく口内を潤した。慣れた渋味と香りの洗礼が美味しい。すぐそばに佇む男は既にコーヒーを飲み終えたようで、微動だにしないままどこかを見つめ――いや、睨んでいる。索敵中の猛禽類にそっくりなすがたを前にして、いやはやこの男は心安らいだ状態でコーヒーを嗜むことすらないのかと、余計なお世話まで焼いてしまいそうだ。小柄な身体には決して似つかわしくない粗暴さを内側に秘めて、リヴァイは生きている。
 ふと、横の木棚にトランプが置かれているのに気付き、は手を打ち鳴らした。これ以上ない暇つぶしの方法が転がり込んできたではないか。
「リヴァイ、ポーカーでもしよう」
「また負かされたいのか? 呆れたヤツだ」
 リヴァイは白々しいほど大きなため息を吐いた。は苦笑をもらす。豪語するだけあって、確かに彼は賭け事にめっぽう強い。負け知らずに近い。彼の背景事情が影響しているのかは定かではないが、少なくともはリヴァイから勝利をもぎとった経験が一度もなかった。
「今夜こそ勝つかもしれないの。やってみなきゃわからない」
 けれど、は妙な自信に満ち溢れた口ぶりだ。それこそがの信条なのである。行動するまえから結果を定めない。ものごとを早々に決めつけない。無鉄砲さとよく似ているようだが、それとは一線を画する信念だ。無謀には自暴自棄的要素が付きまとうものである。そしてそうは落ちず、理性的な判断のもと生を望んだからこそ、はまだ息づいていられる。いま、めんどくさそうに目を細めた――リヴァイのように。
「……お前のその文句はいい加減聞き飽きたな」
「ふふ。じゃあ、一戦交えよう」
 ほんとうならふたりだけのポーカーは物足りないのだが、致し方あるまい。は親役を請け負い、トランプをしっかり切って五枚の手札を配る。それから数度のチェンジを経たものの、芳しくないカードばかりが雁首を揃えていた。これではまるで話にならない。扇のように広げたカードの隙間から盗み見るリヴァイの表情は相変わらずの無表情であり、彼の思考をトレースするどころか手札の想像なんてほとんど不可能に近い所業だ。
 ゴミだと決めた一枚――ダイヤの9を捨て、最後のチェンジを迎える。
 は、今夜でいちばん重いため息を吐かざるを得ない状況に追い込まれた。
「……レイズ」
 親のがしょうがなしに切り出し、賭けチップを二枚重ねる。あからさまな態度は避けねばならない。いま、この休憩室は何といっても勝負の場。しかし、まるで敗戦地のような手札を持ちながら笑顔など浮かべられる訳もなく、苦虫を噛み潰したような顔を我慢するので精一杯だ。
「レイズ」
 対するリヴァイは実に涼しげな顔で告げる。彼の、やけに骨ばった男性的な指がチップを三枚詰み上げるしぐさが、にはまるで死刑のカウントダウンを楽しむ死神のように見えた。あれほど大見得を切って始めたゲームだというのに、自分の手元には役などひとつも揃っていないではないか。自分の妙な浅はかさと運の女神を呪ったところでフルハウスの幸運に恵まれる訳ではない。いや、フルハウスなんて高望みはしないから、せめてツーペア……などと愚にもつかない思考で呆けていると、リヴァイが声を上げた。
「おい、
「……ん?」
 名を呼ばれたは俯いていた顔を上げ、リヴァイに視線を合わせる。意志の強い瞳が自分を貫いていた。知らず、胸の奥が温度を上げる。あまったるい痛みでずきりと疼く。
「親でも死んだような目しやがって。バレバレだぞ。だから向いてねえって言ったんだ。どうだ、止めるか? 今なら許してやってもいい」
 ――案の定、隅の隅まで見透かされている。今さらではあったが、は胸をぐんと張って見せ、
「寛大な提案どうもありがとう。でも、見当違いな意見は止めにしておいたほうが身のためだよ」
 などと要らぬ強がりを重ねてしまう。
「レイズ」
 そして極め付けとばかりにチップを一枚追加した。背中に嫌な汗が伝うのが自分でも分かる。役ひとつ揃わぬカードしか頼るものがない現状など、立体機動装置のガス切れを起こした状態で巨人の四面楚歌に見舞われる事態と同様の悲劇性を備えているではないか。けれど、勝負は勝負で仕方ない。先ほど9のカードを捨てた自分を悔やんではみる。次のチェンジでクラブの9が巡ってきたので、もしあの判断さえ下していなければワンペアという絶壁にしがみ付くことはじゅうぶん可能だった訳なのだ。ひとつの小さな判断がその後のすべてを決定づけてしまう、そんな理不尽がこの世界には満ち溢れている。例えばこんな、テーブル上のたわむれであろうとも。
 そして最後の一幕。テーブル上に両者の手札がオープンされる。
「……フルハウスとか、ほんともう、リヴァイっておかしいね」
 眼前に堂々と晒されたきらびやかな役をまえに、それ以上の皮肉は出て来なかった。リヴァイは心底呆れたとでも言いたげな文句を投げて寄越す。
「は、お前はクソ極まったな」
「私、もうポーカー辞めたほうが身のためかもしれない」
「それがいい」
 なんて凶暴な表情でひとの不幸を笑うのだろう、この男は。今度はが呆れる番だった。一歩でも壁外に出れば……いや、壁の内でも一定の緊張状態を解いたことなど一度もないというのに、どうしてこんな夜にだけはネジがゆるんでしまうのか、自分でも甚だ疑問ではある。
 すっかり冷め切った紅茶が不味い。
 たとえばこの精神的柔化がリヴァイに起因していたとして、はたしてそれはにとってどんな意味や重みを持つのだろう。友情ともそれ以上ともつかぬ、中途半端にない交ぜになってしまったみずからの気持ちを反芻するにつれ、実に複雑な波に包まれる。いまではもう、明確な結論を出すことは止めてしまった。そんな愚行を為さずとも、これからの未来も自分はリヴァイのそばで超硬質スチールの刃を振るい続けるだろうし、いのちある者の定めとしていつの日か尽き果てる。誰に指摘されずとも理解している。これまで何度も目前につき付けられてきた苦い事実だ。理不尽なる存在に何もかもを掻っ攫われ、けれどそれでも唯一の望みを諦めるには至らず、こうして兵団の制服を脱ぎ捨てられずにいる。そういった兵士としての意味合い上においてはリヴァイもも同質の人間だ。戦の合間にはこうしてポーカーの勝敗で真剣に罵り合ったりもする。さほど美味くもない機能食で胃を宥め続けることだって文句ひとつ言わず耐え切れる。大事なのは、いま、こうしてそれぞれが抱える目的の許に生きていて、熱い息を吐き出しているという、その確固たる事実。
 リヴァイの、直情的な瞳と視線を合わせるたび、安堵と高揚に襲われる。こころの内奥にまで勢いよく流れ込んでくる生の実感を、誰にも奪わせたりしないと、誓う。
「……もう一回」
 自然と、そんな提案がのくちびるから抜け出ていった。
「懲りない奴だ」
 リヴァイの目の内側に獰猛な光が宿ったのを見逃すではなかった。それと、彼の口端がかすかに上がって悦を示していたことも。
 ――他人は自分を映す鏡だという。
 は、カードを切る指先にひとすじの微熱が灯るのを感じた。

(13/04/11)