kaleidoscope

「この世には嘘が上手い人と下手な人がいるのよ」
 父親が若い女の許へ消えた夜、母親がもらした言葉だった。ぽつりと頼りなげに、かつ自棄気味に発されたそれを、今、は思い出している。当時年端もいかない子どもだったは母親の真意を汲み取るまでには至らなかったけれど、長じた今ならば理解できる。そしてこう結論付ける。の前に座すジャン・キルシュタインは――間違いなく後者に属する人間である、と。
 ジャンはあろうことか周囲に隠しおおせているつもりのようだが、彼がミカサ・アッカーマンに懸想していることは第104期訓練兵のうちでは有名過ぎる話だった。既に飽きられてしまいそうなほどには繰り返し揶揄し尽くされた、周知の事実極まる話題だった。
 というのに、当のジャンはそれに気付くそぶりすら見せないのだから笑ってしまう。は空になったシチュー皿にスプーンを置くと、水をひとくち含み、片肘をついた。行儀が悪い。シチューに入っているジャガイモのように、煮込む過程でぐずぐずにやわらかくなったものはあまり好きではないのに、訓練で疲弊し切った体にはどんな代物でも美味に感じられるから不思議だ。それに食糧不足の時勢とあっては文句など言ってはいられない。きちんとした食につけるだけ恵まれているのだ。
 総木材で建てられた食堂にて、訓練兵たちが夕食を取っている。彼らはとりどりの話題に花を咲かせ、訓練の辛苦を嘆いてみたり、家族の近況などを語ったりしている。その片隅には座っていた。じろりと、見つめるというよりは睨むといったほうが適切な鋭さで、対面席のジャンへと視線を送る。
「何だよ」
 ジャンは負けじと睨み返してきた。は険のあるまなざしからスッと視線を逸らし、けれどふてぶてしい態度はいっさい崩さぬまま、
「ジャンは馬鹿だなあって話」
 ぴしゃりと跳ね付けた。
「はあ!?」
 ジャンの表情は一瞬で不機嫌一色に染まった。よくもまあころころと表情を変えるおとこのこだとつくづく思う。眺めていて飽きが来ない。ジャンの表情、その色かたちが少しでも変化するにつけ、はどうも惹き付けられてしまう。幼いころ夢中になって遊んだ万華鏡のようだ。わずかに傾けただけで景色のすべてを変化させ、新たなるきらめきを提示してくれる。
「ったく、何なんだよ飯時まで……」
 くどくどと文句を継ぐジャンを放置していると、外で鐘の音が鳴り響いた。夕食は終了だ。訓練兵はみな宿泊所に戻らなくてはならない。
「ふたりとも、早く行こう」
 の隣席に座っていたマルコ・ボットがそう急かした。いかにもお人よしの――よく言えば柔和な顔立ちをしている彼の言葉に従うかたちで、とジャンは並んで食堂を出てゆく。宿泊所への道すがら、エレン・ミカサ・アルミンの三人組とすれ違った。いつだって仲睦まじい三人組だ。誰にも真似できない絆を感じさせる。は、彼らの仲の良さをひそかに羨んでいた。
 ふと。空気が、ぴんと糸を張る気配。
 もはや確信めいた予感を抱き、は前を歩くジャンを見やった。彼の瞳の先にあるものなどいちいち確認せずとも知れたこと。おのずと分かってしまう。だからこそ、はマルコとの会話にだけ集中した。そうでもしないと、こころの内壁を一秒ごとに削ぎ取られていくような、焦燥感と痛みを合わせ持つ惨めさに包まれてしまいそうになる。嫉妬などという救いようのない感情には関わり合いたくないものだ。まるで、エレンとミカサの仲に気付いたときのジャンが抱えていたものとそっくりそのまま同じかたちをした、嫉妬など。



 幼い嫉妬に悩んでも、きのうと同様に朝は巡る。訓練兵としての一日が始まるのだ。朝食後、団服に着替えたら、それからはもう機械仕掛けのように体が動く。自分の体をかたち作るひとつひとつの歯車を回すべく、着実にものごとを進めていく部品へ化す。そんな気分になる。これは自分が兵士として再構成された証なのだろうか、はそう考えてみたりもする。
 午後は対人訓練だった。ジャンは相変わらずのらりくらりと場を躱している。とて気乗りはしない。けれど、これが自分の使命なのだと強く思い込むことで、四肢が半自動的に動いてくれる。
 各々が適当に組を作り、場当たり的な格闘を行う。は――ミカサだった。
「ミカサ、手加減してね」
「善処してみる」
「ふふ、そんなお役人みたいなこと言わないで」
 ミカサが持つ漆黒の瞳を見つめながら、は笑った。おおよそ弱点というものを持たないミカサにどう対するか、それを考えているうちに決着はついていた。一瞬で縮まる間合い、掴まれた右腕を軸にしてくるりと背負い投げられる。は豪快に尻餅をつき、周囲には土埃が舞った。臀部がじんじんと痛む。
「いっ、つつ……ミカサってばやっぱり強いよ」
「そんなことない」
 淡泊に返しながら、ミカサが右手を差し伸べてくる。は一瞬きょとんと目を見開いたが、次の瞬間には素直にミカサの手を取っていた。
「ありがと。よし、もっかい手合わせしよう」
 はそれから何度かミカサに申し出たものの、結果は惨敗一辺倒だった。勝利の可能性は限りなく低いと分かっていたけれど、はなから負ける心積もりで戦ったわけではない。ミカサの潜在能力と戦闘技術がの領域を軽々と越えてしまっていただけの話だ。としても、一生懸命を貫いたのだから文句はない。額に滲む汗を拭い、訓練場を燦々と照らす太陽を仰いだ。
「また一回も勝てなかったなぁ」
は小回りがきく。それを生かすべき」
 汗ひとつ浮かべていないミカサは、の長所を淡々と述べて聞かせた。はその潔さが好きだった。ミカサの言葉は常にまっすぐで、偽りが入り込む隙がない。しっとりと黒い髪や瞳が与える印象も相まってか、ミカサは実に芯のある人間としての瞳に映った。
「そうかなあ。でも、どうやればいいんだろう」
「反射神経も悪くない。敵が初手に出る前に先制攻撃が上策」
「じゃあ、試してみる」
 短く言って、はミカサ目がけて駆け出した。さっきのお返しとまではいかないが、利き腕を抑えてからの背負い投げが目標である。けれど、ミカサの手を掴もうとした寸前にあっさり避けられてしまった。目標をなくしたの腕は空回り、宙を掻いた。
「う、わっ」
 は収束せぬ勢いのまま引っくり返りそうになったが、その背をミカサが支えた。
「……せっかくの策だったのに、失敗したみたい」
 は苦笑いを浮かべ、砂に塗れた兵服を叩いた。
はすぐ顔に出るからどんな手を取るかが分かる」
「え、私が? うそ」
 少なくともジャンよりはポーカーフェイスに長けているはずだったけれど……と、は怪訝そうに目を細めてみせた。
「ほんとう」
 ミカサは口端をわずかにゆるめて言った。



「どうしたんだよ、それ」
「は? なにが」
「目の下。傷あんだろ」
 その日、夕食の席でジャンが指を差してきた。は自分の目許に手をやるが、鏡なしでは怪我をしているかどうか分からない。わずかにささくれ立った皮膚が指先を掠った。擦過傷のようだ。
「格闘訓練のときかな。別に痛くないからいいんだけど」
「お前のじゃじゃ馬性格はいつになったら治るんだろうな」
「ジャンの、その高圧的な性格と棘まみれの言葉もね」
「うっせえぞ」
「ふたりとも、早く食べなきゃ」
 いつもの口喧嘩に発展しかけたジャンとを、見守っていたマルコが制止する。は大人しく食事に集中することにした。ジャン、、マルコの三人は同じトロスト区出身で付き合いが長い。何かと衝突しがちなジャンとを宥めるのはいつもマルコの仕事だった。抜き身の剣のようなジャンと意外に気の強いは、幼いころこそ取っ組み合って怪我だらけになるのもふつうだったが、いつの間にか口論だけに納まることが多くなった。女に手を上げるのは嫌だと、ジャンは言っていた。その言葉がには嬉しかった。彼が自分をおんなのこ扱いしている――そう、実感できたからだ。
 きょうもきょうとて夕食のスープには煮崩れたじゃがいもが転がっている。スプーンの先でそれを持て余しながら、ふと、は対面席のジャンを見やった。
 ああ、また。彼の視線がとある場所で固定されている。は視線の終着点を思い、目を伏せた。息が止まってしまいそうになる。ひとは好きなひとを見つめるとき、あんなふうにあまい虹彩を輝かせるのだ。そんな色を帯びたジャンの瞳を見ることができて嬉しいと思う。そのよろこびだけに留まっていればいいのに、の感情は更に深い沼まで真っ逆さまに落ちていってしまう。沼の底で渦巻く汚れた感情に明確な名付けをしてしまう前に、は、渇いた喉から言葉を発した。
「ジャン」
「あ?」
 ジャンの瞳はに視線を転じた瞬間に色を変えてしまった。は気付かないふりをする。いちいち傷付いていたら、身が持たない。万華鏡は少しでも傾ければ最後、すべてを変えてしまう……きっと、それは当然のことだ。
「何見てるの」
「何も見てねえよ」
 居心地悪そうに目を逸らしたジャンを前にして、は薄く笑うしかなかった。彼はこうして嘘を吐くのだ。

(15/10/28)