It's too late.

 セックスに快楽が付随していなかったら、人類なんてとっくの昔に滅んでいたに違いない。
 その点、人類は利口な進化を遂げたのかもしれなかった。ひとが愛してやまない快楽と作業的ともとれる生殖行為を関連付けてしまえば、あとは言わずとも知れたこと。嫌が応にも血脈は続いていく。系譜図は長さを増すばかりだ。
 とは言えど、の生家には系譜図など保管されていない。そもそもが存在しない。家はトロスト区でちいさな宿屋を営む、どちらかといえば貧しい家だ。余所さまに誇れる血脈はもちろん財力などあるはずもなかった。
 快い疲労に満ちた四肢を投げ出して、は長く細い息を吐く。ガス灯の光が部屋を照らし上げている。ぼんやりと天井を眺めているのもいいかげん飽きてしまった。が上体を起こすと上等なベッドはちいさく鳴いた。ぬくもった毛布が素足をくすぐる。
 もちろん、は部屋にひとりきりというわけではなかった。さっきまではベッドのうえにふたりで転がっていたのだ。その片割れは今、上品な猫足のデスクで立派な羽根ペンを走らせている。紙の上に文字がさらさらと紡がれていく、どこかくすぐったい音が聞こえてくる。時折、かたわらのインク瓶にペン先が浸されもした。彼は何を書いているのだろう。作戦報告書だとか、義務的な申請書など、そのあたりだろうとは見当をつけた。彼、エルヴィン・スミスはうつくしい字を書く男だ。少々細いのは否めないが読みやすい字体をしている。は毛布にくるまったままベッドを抜け出すと、エルヴィンの手許を背後からそっと覗き込んだ。
「なになに……次回壁外遠征における装備の追加発注、故障した立体機動装置の修理状況――ああ、やっぱりつまらないこと書いてたんだね」
「つまらないとは心外だ。必要なことだよ」
「ベッドにこいびとを放っておくのも必要なことだと?」
「時と場合に応じては」
「心外だ」
 がエルヴィンの厳かな口調を真似て言うと、エルヴィンはかすかに微笑した。は彼の肩に腕を回した。シャツ越しに屈強な肉体の躍動を感じる。それにあたたかい。エルヴィンは応じるようにの手首を撫でさすった。エルヴィンの、つややかな金糸のふもとにあるうなじにそっとくちづけて、は体を離す。
「あと少しで書き終わる」
 エルヴィンがそう言うので、はしばし読書でも嗜むことにした。天井まで届くのっぽの本棚から適当な一冊を引き出して寝椅子に転がる。表紙には煤けたビロードが貼られていて、何やら古いおとぎ話の類を集めたものらしかった。こんな一冊がエルヴィンの本棚にすまし顔で納まっていたという事実だけでは腹を抱えて笑ってしまいそうになる。『現実的』――この一点においてエルヴィンの次に出る男はいない。おとぎ話だなんて、縁遠いにも程がある。
 さっそく読み始めた中身には、が幼い時代に母親が寝物語で聞かせてくれたものがたくさん並んでいた。眠らない子どものもとを訪れる悪い妖精の話、いにしえの森に棲むとされる一角獣の話。平易な文章で綴られる架空の妖精譚は思いがけずの興味をくすぐった。
「どうやらそれが大層お気に召したようだ」
 エルヴィンがの横に腰かけた。
「割とおもしろいね、これ。……書き終わったの?」
 はいったん顔を上げると、デスクを指差した。エルヴィンは例のごとく優しく微笑み、うなずいた。
「君を長時間待たせるほど不作法な人間ではないよ」
「それは何より」
 は肩をすくめて、ふたたび本に集中した。展開がいいところだったのだ。王子を捨てて異形と結ばれる姫の道行き。あらかじめ満ち足りた幸福を捨てて異端へと向かうのは人間の欠点であり興味深いところでもある。以前、憲兵団への道を放って調査兵団を選んだのように。
「今度は君が私を待たせる番か、
「この話が終わるまで待っていて」
 エルヴィンが苦笑する気配がした。は引き続き物語を追いかけた。遂に追手を振り切り、命からがらちいさな村に辿り着いた姫と異形は、ささやかな居を構え子宝にさえ恵まれ、末永く幸せに暮らしたらしい。は本を閉じた。
「読み終わったよ」
「そうか。君は読むのが早い」
「話が短かったの」
「それで、いい終わりを迎えたのかい?」
「平凡だけど、そうだね。姫が人外の生きものと逃げて、幸せに暮らす。子どもまで生まれたんだって。人間と人間じゃないものの子孫ってどんな姿をしてると思う?」
「見たことがないから分からないな。ハンジにでも訊いてみれば面白い答えが聞けそうだ」
「確かに」
 は深々とうなずき、エルヴィンの肩に寄りかかった。けっして倒れることなどないような、たくましい腕。エルヴィンはの髪を指で梳いていく。そうされるといつの間にか眠ってしまうのがの常だったが、何故か今夜はまったく眠くならない。それどころか睡眠はどんどんとのあいだに距離を置いていくようだった。
「あんなに本があるけど、私、あなたが読書しているところって見たことがないかも」
「君が眠っているときに読んでいるよ」
「そう」
 は目を伏せたまま答えた。自分の髪を手櫛で梳き続けている男の、その指の感触だけに浸る。指使いがあのひとに似ているような気がした。がむかしいっしょになった男だ。兵の才能に富んだ男で、人間の地を取り戻すのだと豪快に生き、そして惨たらしく死んだ。壁外世界の荒れ果てた平地で。彼の遺骨は未来永劫あちら側を転がり続けるのだろう。はもう、彼の指がどんなかたちをしていたのか思い出すことすらできない。一度は永遠を誓った伴侶であるのに、ちっとも覚えていない。それが愛情の上書きによる影響なのか、には分からない。自分は、彼の喪失を埋めるように違う男にのめり込んだのだろうか。それも分からない。
「エルヴィン」
 は心許ない音階でこいびとを呼ぶ。エルヴィンは何秒かの瞳を覗き込んだ。
「何だか眠れそうにない」
「珍しいな。君は、こうしているといつもすぐ寝てしまうのに」エルヴィンはの髪を撫ぜると、「では話をしよう」と切り出した。
「何の? まさか、おとぎ話なんて言わないよね」
「そのまさかだ」
 エルヴィンはの手から本を攫うと、節くれだった指で目次を開いた。彼の大きな手に扱われると、厚い本もまるで形無しだ。子どものおもちゃのように見える。はより深くエルヴィンに寄りかかった。
「話をするんじゃなくて、読み聞かせてくれるってことね。子どものころに戻ったみたい」
「たまにはこういうのもいい。リクエストを聞こうか」
 そう言うと、エルヴィンはによく見えるように本を傾けた。おとぎ話のタイトルがずらりと並んでいる。そのどれもが違う文字列であるはずなのに、にはすべて同じものに見えた。
「じゃあ……」
 は、差し出された目次の上に指を滑らせた。リストを漫然と眺める。ふと上を向けば、自分を覗き込んでいる男と視線が噛み合った。よく磨かれた水晶のように澄んだ青がを見つめる。この瞳から視線を逸らせた試しはない。気付けば吸い込まれるようにくちづけていた。ふたりきりの部屋に沈黙が降りて、はそっと目蓋を下ろす。本を閉じる音がした。
 ふたつのくちびるが離れていく。
「これがリクエストか」
 観念するような、笑い混じりの声音。お互いの吐息さえも肌にまぶし合える距離にとどまったまま、は口許をほころばせ、軽く首を振った。うつくしいと思ったからキスをした。さみしさを紛らわせたかったから触れた。ただそれだけのことだ。
「して欲しそうな目をしてたから」
「私が?」エルヴィンは心外だとでも言うように、わずかに目を見開く。
「うん」
「君はいつも責任転嫁が上手い」
「隣に押し付けやすい人がいるからね」
「責任の半分は背負おう」
「ふふ、ありがと」
 エルヴィンが腰を上げた。手許に抱えた本を、棚のすきまにしまい込む。どこまでも広い彼の背中をは長々と見つめた。大小さまざまなものごとを山ほど背負い、しかし毅然と伸びた背。未来を勝ち取るための生を司る体。が、兵が、こよなく信頼する精神と肉体。
 責任の半分は背負う。彼は、そう言った。
 エルヴィンの背に向けて、はいよいよ告げることにした。
「子どもができた」
 妙に現実味のない言葉だと自分でも感じた。の言葉は床に落ち、そのまま転がっているようだった。
 エルヴィンが振り向いた。先ほどと何ら変わりのない、おそろしいほど澄んだ瞳がを射抜く。彼は寝椅子へ歩み寄ると、ふたたびの隣に腰を落ち着けた。その間もずっと見つめ合ったままだった。の喉は、渇きに張り付いてしまいそうになる。
「どちらがいいんだ?」
 エルヴィンが出しぬけに口にしたのはそんな問いだった。意味を測りかねたは思わず首を傾げる。
「……どちら、って?」掠れた声。
「男の子か、女の子か。君はどちらを望むのだろうと思ってね」
 エルヴィンは口許に深遠な笑みをたたえると、怪訝そうに眉を寄せるの頬を撫でた。なめらかな温もりの感触がを包み込む――どう答えればいいのか、真剣に悩んだ。
「…………どちらでも、いい、かな」
 そうして数秒後に導かれた答えはたどたどしく、しかし本音だった。
「私もだ」
 紛れもない受容の言葉がをくるむ。こなれた毛布のように人懐っこくてあたたかく、一度触れたのならもう手放せなくなるほどの優しさに満ちた言葉だ。は知らずエルヴィンの背に腕を回し、縋り、胸に顔を埋めた。彼ほど父親に望ましく、また父親になるべきではない人間はそういない。はそれを身に沁みて理解していた。大事なものを切り捨てる力を持つ人間は世界に新たな光を注ぐことができる。もしひとりの子どもと人類すべてを天秤にかけたなら、エルヴィンは間違いなく後者を選択するだろう。それでいいのだと、は思う。だからこそ苦しいのだ。彼に決断を強いる要素を与えてしまいたくない。そして、できることなら、父親として子どもの未来を選んで欲しい。
「私、兵団を辞めるよ」
「ああ」
「辞めて、産んで、育てるよ」
「ああ」
「だけどエルヴィンは……そこにいて。それだけでいいから。何も犠牲にしないでほしい」
「犠牲とは、君も妙なことを言う。私は父親になるのだろう?」
「エルヴィンがそれを望んでいないとしても」はうなずいた。
「望んでいるさ。だからそれは犠牲ではなく、幸福というやつだ」
 それだけを言うと、エルヴィンは前にも増してやわらかい手付きでを引き寄せる。みっつぶんの心臓が鼓動を打つ。ふたつは既に人類のため捧げられていた。けれどその片方を、は――最後のひとつのために使おうと決めた。
「ごめんなさい」
 謝るべきではないとは知っていた。しかしそうせずにはいられなかった。自分はエルヴィンに新たな重荷を背負わせようとしている。この世でいちばん無垢な荷を。
「ありがとう」
 それでもなおエルヴィンは言うのだ。兵士に生死を分ける選択を告げるのと同じ音階で、よどみなく。迷いすらなく。はもう一度繰り返した。
 ごめんなさい。
 の頬に透明の軌跡を残したしずくは、よろこびとかなしみのあわいに深々と落ちていった。

(13/07/02)