Cry My Piano

 このひとに会うときは首が痛くなる。自分より幾分も高い位置にある人間と向き合うのだから、は延々と首を引き上げていなければならない。けれどそれは決して苦にはならない。なる訳がないのだ。
「じゃあ、これを地下倉庫のほうに持っていってくれるかい」
「地下、ですか? 一階のではなくて?」
 いくらか厚みのある書類の束を受け取りつつ、は上司であるエルヴィン・スミスに問うた。彼はかたちのいいくちびるを弓なりにすると、そうだ、と肯定する。この兵舎には倉庫がいくつか点在するが、団員はもっぱら近くて便利な一階のものを使用していた。わざわざ地下を指定する理由が思い当たらず、は首を傾げる。
「古い書類は地下のほうに保存しておく方がいい気がしてね。目を通す機会が多い新しいものこそ一階の倉庫を使った方が効率的だ」
「そういうことですか」
 なるほどと頷いたはさっそく執務室を辞そうとしたが――「ああ、今でなくていいんだ」。彼女の足先を止める一声。
「後で――そう、午後八時ぐらいでかまわない」
 的を得ないエルヴィンの言葉を一度は疑問に思ったものの、はすぐに真意を悟った。薄くほほえんで了承する。
「わかりました」
「忙しいところに呼び付けて悪かったね。行ってくれていい」
「はい。失礼します」
 後ろ手にドアを閉じる。はおもむろに兵服のポケットから銀の懐中時計を取り出した。文字盤を確認する。つい今しがたまで、いつも通りに代わり映えしない夜でしかなかったその午後八時が、急に待ち遠しくなってしまった。



 階段を降りる足音がやけに響き渡るような気がして、は自然と忍び足になった。ガス灯の橙色に照らし上げられた廊下に出る。とっぷりと夜を迎えたことを差し置いてもいささか静か過ぎる気がした。当然、以外にひとのすがたはない。ただ静寂が横たわっているだけである。調査兵団兵舎は常に一定の人間が在するよう保たれているが、地下はその限りではない。たいていの施設は階上に集中していて、階下に並ぶのは古臭い倉庫ぐらいだ。そこを目指しては進む。心なしか、足のリズムが弾んだ。
 エルヴィンが指定したのは午後八時。の手のひらでは今まさに懐中時計の長針が8を指すところだった。名目上は書類の後片付けに来ているのだけれど、その実は異なる。気の利く上司がふたりきりの時間と場所を作ってくれたのだった。
 目的の一室は突き当たりに位置していた。はふうと深い息を吐いてからドアノブに手をかける。ぎい、と。かすかに軋む木の戸がじりじりと開いてゆき、内部へと足を踏み入れる。地下倉庫に立ち入るのは初めてだった。想像していたよりもずっと広い。地下特有のひんやりと沈殿した空気、ほこりっぽさ。四方の壁に添うようにして背の高い棚が並んでおり、書類やら本やらが雑然と積まれるがままになっている。向かって右奥には古めかしい机と椅子がセットで置かれていた。決して綺麗とは言えない。けれど、目くじらを立てるほど汚くもない。
 室内は思いのほか明るかった。それもそのはず、先客が高明度のガス灯を点していたのだ。はなるべく音を立てぬようにドアを閉じると、先客の許へと歩み寄る。
「先に来てたんですか」
「きょうは思いのほか早く片付いてね」
 調停人のように重厚で、それでいてあたたかな声だった。はまた上を向き、声のあるじと視線を合わせる。彼――エルヴィンの穏やかな瞳がそこにあった。深遠なビリジアンを認めるだけで、肌には不思議と落ち着きが広がる。のすべてを宥めてしまうだけの説得力が、彼には満ちていた。
 数秒見つめてすっかり安堵したあと、はとりあえず小脇に抱えたままの書類を適当な棚にしまい込んだ。これで「所用」は終わりとなる。つまり、きょうはこれから私的な時間に切り替わる、ということだ。
 エルヴィンは木棚に寄りかかるようにして立っていた。うんと高い位置を穿つ背丈と頑健な体つきを兼ね揃えた上司――ガス灯に照らされた髪は金にかがやき、瞳は森に似た色のたたずまい。そんな彼の横に並ぶと、はもう一度口を開いた。
「私、地下倉庫って初めて入ったんですけど、けっこう広いんですね」
「広さだけは無駄にあるんだ。見てごらん」
 エルヴィンが長い指で倉庫の片隅を示す。
「……ピアノ、ですか?」
 彼に指摘されるまではまったく気付かなかったのだが、倉庫の左手前の隅にはアップライト・ピアノが置かれていた。何度も丁寧にニスがけされたのだろう、木材部が品よく艶めいている。だいぶ古い品のようだ。
「どうしてこんなところにあるんでしょう」
「元は寄贈品だったようでね。昔は娯楽室に置いていたんだが、肝心の奏者が少なかったんだ。それでここに追いやられた」
「へえ……」
 兵舎には娯楽室などの休憩所も整っている。ピアノが置かれていても何ら不思議ではないが、要である伴奏者がいないというのも悲しい話だ。もっとも、ピアノ自体が裕福な家庭にのみ許された代物であり、仕方ないといえば仕方ない。
「私も弾けません。というか、見るのも久しぶりなくらいで」
 言いながら、はピアノへと歩み寄る。そっと蓋に触れてみた。うっすらとだが埃の膜に覆われており、指を伝わせると軌跡が伸びる。ふ、との視界が暗く翳った。橙の明かりが濃厚さを帯びる。ごく優しいちからで抱き締められたのだと気付き、は笑んだ。
「エルヴィンは、弾けたりしますか」
 冗談のつもりで口にする。が彼の名前を呼ぶのはふたりのときだけと決まっていた。
「ああ、簡単なものだけだが」
「え? ほんとに弾けるんですか」
 頭上でつむがれた答えが予想外だったので、は思わず目を見開き、後ろを振り向いた。すぐそばにエルヴィンの困った顔がある。
「訊いたのは君じゃないか」
「そうですけど、まさかほんとに弾けるとは思ってなくて。驚きました。何をお弾きに?」
「そうだな……」エルヴィンは少し考えるようすを見せてから、「いわゆる練習曲ぐらいだよ」
「練習曲、ですか」
「初心者がまず触れてみる楽曲だ。簡単で短いものが多い」
 そう説明され、はふむと頷く。こうして話を聞いていて何だが、エルヴィンがピアノを弾いている情景が上手く想像できなかった。冷静かつ理知的で紳士然、それでいて揺るぎない決断力のある「強いひと」。優しい立ち振る舞いには確かに楽器の演奏者と通ずるものがあるけれど、それでもやはりイメージが難しい。
「もしよければ、聞かせていただけませんか?」
 気付けばねだっていた。
「君にかい」
「はい。聞いてみたいんです、あなたの弾くピアノが」
「かまわないよ」
 エルヴィンは微笑し、の腰から腕を離した。長方形型の椅子に腰かけ、鍵盤の蓋を開く。計88鍵の白黒があらわになる。は部屋の隅から椅子を一脚引いてくると、エルヴィンの右後ろの位置について経緯を見守った。ふう、とエルヴィンが息を吐く。
「あれ、緊張してます?」
「弾くのは久しぶりだからね」
 苦笑い混じりに言って、エルヴィンはその大きな手を鍵盤に乗せた。長い指と白黒が作るコントラストに目を奪われる。ふつうピアニストと言えば細く端麗な指が似合うものなのだろうとは考えていたが、実際目にしてしまうとそんなことはないと思い知る。エルヴィンとピアノの存在は見事にマッチしていた。
 ぽろん、と。確かめるようにまずは一音。それから二・三と続き、一拍の休憩。始めこそぎこちなさが目立ったものの、指の動きは徐々に流麗になっていき、遂にはなめらかな音色に聞き惚れてしまいそうなほどになった。斜め後ろから鑑賞するエルヴィンの演奏風景と、どこかさみしげなピアノの声が重なり、の現実感を奪っていく。じじ、と卓上のガス灯が音を立てた。
 ――――……。
 それは特別技巧が優れたものでも、稀代の名曲というわけでもない。さみしさとせつなさを混ぜ合わせて均したようなメロディがゆったりと続いていくだけの、ありふれた楽曲だ。はしばし口を噤み、エルヴィンの奏でる音色だけにこころを浸した。彼の指先が弾むのを止めるまで見届ける。
 夢から覚めたように、場がしんと静まった。は小さく拍手を送る。自然と笑みがこぼれた。エルヴィンは鍵盤上に保護布を敷いて蓋を閉じ、ゆっくりと振り返った。どことなく照れくさそうな、そんな表情をしている。
「素敵でした」
「下手の横好きだよ。子供のころに齧った程度だ」
「そうなんですか」
 はこころから嬉しそうに微笑んだ。エルヴィンがまさかピアノを弾けるとは思っていなかったし、こうして生の演奏まで味わえるとは。ただ、嬉しい。しっとりとした余韻がまだ残っていて、頭がぼんやりと火照っている。
、君も弾いてみるかい」
 エルヴィンが藪から棒にそんな提案を持ちかけてきたので、はあたふたと焦ってしまった。
「え、でも、私弾けないですよ」
「かまわない。ここにおいで」
 穏やかな笑みと共に隣を示されれば、はもう反論ができなくなる。おずおずと腰を上げ、エルヴィンの横へと落ち着いた。椅子は決して大きくない。必然的に触れ合う距離に置かれてしまった。
 エルヴィンがふたたびピアノの蓋を開き、モノトーンの鍵盤をあらわにした。はその上にそっと指を這わせると、おもむろに「ド」を弾いた。
「あまい、音ですね」
 知らずのうちにのくちびるからもれた感想に、エルヴィンはふっと笑みを深くする。「きっと君はいい伴奏者になるだろう」。彼が本音を伝えると、はおさな子のように笑ってみせた。「じゃあ、教えてくれますか」。はふたたび指先を弾ませる。ぽろん、と最初の音色がこぼれおちた。

(13/05/27)